臆病な恋愛家

 冷静になってみれば、長谷川と牧野のどちらが抱く立場で、抱かれる立場であるか、考えなくてもわかることだったのだ。
 体格的なことはさて置くにしても、甘やかされることが大好きなあのわがままな男が、長谷川を優しく抱いて満足させてやるなんてことができるとも思えない。逆の立場であるほうが、はるかにしっくり行くように思えた。
 どうしても諦めきれず、自分が牧野を抱くことが実行可能かどうか、考えてみたりもした。だが牧野がフリーならいざ知らず、決まった相手がすでにいる状態で、性癖を無視してまで付き合いを求めるのはあまりに虚しい。
 ――その晩、秦野は布団に包まりながら、また馬鹿になりそうなくらいに激しく泣いた。
 ぎごちなく沈黙がほどけたあと、小さな声でもう一度秦野に侘びを言って、牧野は長谷川とともに去って行った。
 ひとりにしてくれと二人に頼んだのは自分だったのに、寄り添いながら小さくなっていく背が切なくて泣き、そのことを今また思い出して、性懲りもなくしゃくりあげる。
 瞼が真っ赤に腫れ上がり、何度も噛んだ鼻の皮膚は擦り剥け、嗚咽の声すら枯れてしまっても、我ながらしつこいほどに泣いて泣いて泣き続けた。
 長いこと泣いていると、全力疾走したのと同じくらいに疲れて、息が切れる。鼻水で鼻が詰まっているものだから、余計に呼吸が苦しくて仕方ない。
 ティッシュボックスを抱え、そこら中に散らばる丸めた鼻紙に埋もれるようにしながら、秦野は今度も不発に終わってしまった自分の恋を思った。
 あのとき告白しておけばよかったとか、この部屋に牧野が来ていたときに、無理矢理押し倒してしまえばよかったとか、いまさら埒(らち)も無いことをぐるぐると後悔する。そして結局はそんな度胸など持ち合わせていない自分がなにより悔しくて情けなくて、こんなどうしようもない自分なんていっそ地上から消えてしまったらいいのにと、できもしないことを願ってまた泣いた。
 それでも、泣くことさえできなかった初恋に比べればずっと幸せなのだと。告げた想いを否定せず、受け止めてくれる相手を好きになれてよかったと。
 泣きすぎで視覚も聴覚も鈍くなり、ようやく途切れがちになってきた己の嗚咽をどこか遠くで聞きながら、秦野は本心からそう思っていた。

* * *

 ――四年生に上がった年の春、今は番組制作会社で放送作家として働いている下柳が、次の公演用にと一冊の台本を書き上げて贈ってきた。
 牧野と長谷川、ふたりを主役にすることを念頭に書かれたというその作品は、シンプルな筋立てながら登場人物たちの心情が丹念に描写され、絡み合う人間関係が息詰まるような緊張感をもたらす秀作で、下柳が思惑した通り、対照的な個性を持つふたりの魅力を誰の眼にも分かる形で見事に引き出した。
『琥珀色』という短いタイトルのその舞台に、秦野も重要なキャストのひとりとして出演した。そして同じ板の上で、ふたりの天才の演技を見詰め続けた。
 自分にはこのふたりほどの才能はない。このふたりの間に割り込むこともできない。その残酷な事実を自らに教え込むためにも、けっして目を逸らすことだけはしなかった。
 そして観客からの万雷の拍手とともに千秋楽の舞台が幕を閉じたとき、秦野は役者になる夢を諦め、牧野への想いを完全に断ち切ることを、静かに決めたのだった。

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