臆病な恋愛家

epilogue

 大学卒業後、秦野はしばらく商社で働いたが、上司との折り合いが悪くなったのをきっかけに会社を辞めた。ちょうど自分の性癖に素直に生きてみたいという気持ちが強くなっていた時期だったので、迷いはなかった。
 それからすぐに二丁目のゲイバーでウェイターとして働き始め、その傍らバーテンの仕事や経営について少しずつ勉強し、数年間こつこつと金を貯めて、ようやく自分の城を持つことができたのが去年。
 貯金だけでは到底開業資金には足らず、借金も背負うこととなったが、幸いにも今のところ経営は順調で、なんとかやり繰りできている。
 店を開くとき、秦野はまず最初に牧野にオープンの報せを出した。といっても、そのときは彼が直接店に来てくれることまで期待していたわけではない。
 かつては舞台を見に行った帰りに楽屋に寄って話をしたりもできたが、テレビの仕事が増え、牧野の知名度が昔とは比べものにならないほど高くなってからは、彼と直接会える機会はめっきり減った。
 秦野のほうから年賀状と暑中見舞いを欠かさず出してはいるが、返事が来たこともほとんどなかったし(この不精者がマメに返事を書いてきたりしたら、そのほうが驚きだが)、案内を出したところで、一瞥してゴミ箱の中に捨てられるのがせいぜいだろうと思っていた。
 ただ、ようやく己の城を持つことができたこの晴れがましい気持ちを、どうしても一言牧野に伝えたかったのだ。純粋にそれだけの気持ちだった。
 だからオープン後しばらくして、たまたま前を通りがかったようなさりげなさで牧野がこの店の扉を開けたときは、どれほど嬉しかったことか。そのときの感動は、今でもありありと思い出すことができる。
 ……じっくりと味わいながら吸っていたつもりなのに、気づけばシガレットケースの中は空になっていた。腕の時計に目を落とせば、もう時刻は午前五時を回っている。
 すっかりちびてしまった最後の一本を灰皿に押し付け、秦野は唇をすぼめると、ソファの背もたれに沈没している男の顔めがけてふっと煙を吹きつけた。すやすやと気持ちよく寝入っていた男が、煙の直撃を受けてぎゅっと顔をしかめ、小さな呻き声を上げながらうっすらと目を開く。
「……臭い」
 不機嫌そうに言ってからゆっくりと周囲を見渡した牧野は、吸殻の溜まった灰皿を机の上に見つけると、さも嫌そうに眉根を寄せた。そして少しでも煙から遠ざかろうと、だらしなくソファの上に腰掛けたまま、尻でいざって体の位置をずらそうとする。
 煙の臭いが駄目というよりも喉を痛めるのを嫌って、本格的に俳優の道を志すようになってから、牧野はタバコを極力避けるようになった。そうするよう彼に薦めたのは、恐らく長谷川だ。そうでもなければ、自分のことに関してはとことん無頓着な牧野が、健康管理に細かく気を遣うわけがない。
 完全に別れてしまった今でも、牧野の中には長谷川の面影が色濃く残っている。その事実に幾分かの切なさを覚えながら、秦野は何でもない顔を装って机の上をてきぱきと片付け、まだ眠そうな牧野をじろりと睨んだ。
「分かっててやってんのよ。こんなとこでいつまでもぐうぐう寝てられたら迷惑なの。もうとっくに店仕舞いなんだから、いい加減に起きてちょうだい」
「今まで寝かせてくれてたんだから、もう少しくらいいいだろう」
「いい年して甘えてんじゃないわよ。いくらかでも寝られただけ、ありがたく思いなさい」
 いつの間にかすっかり身に馴染んでしまった女言葉で手厳しく言ってやると、ようやく渋々と牧野が身を起こした。
 飲みすぎた酒の影響か、だるそうに片手でこめかみのあたりを押さえている彼に、秦野はカウンターから取ってきたお冷や入りのグラスと濡れタオルを押し付けるようにして渡す。
「はい、お水。あとこれでちょっと顔拭きなさい。しょぼしょぼした目をして、みっともない」
「ん……」
 ぼんやりしている牧野の世話を甲斐甲斐しく焼いていると、自然と学生時代の記憶が蘇ってくる。あのころは、こうして牧野のために何かをしているときが一番楽しかった。
 その影響だろうか。今でも自分が惚れるのは頼りなくて手のかかる男ばかりで、必然的に優柔不断なタイプが多くなるため、恋愛沙汰では苦労することが多い。もっと自主性を強く持った男を選ぼうと、いつも思ってはいるのだが……。
 もっとも、牧野は思ったことははっきり言う男だ。歯に衣着せない言葉に傷つけられたこともあれば、逆に救われたことも何度もある。そう言えば、秦野が今のようなしゃべり方をするようになったのも、元はといえば牧野が寄越した言葉がきっかけだった。
 バーの開店当初、秦野は客あしらいがなかなか上手くできず、悩んでいた。
 もう何年もこの街で働いているとはいえ、店を切り盛りする立場となると、何かと勝手が違う。アクの強い客たちに気圧される一方で、まだ経験が少なく物慣れない従業員たちに指図して、効率的に働いてもらうこともできない。
 精神的にも体力的にも大きな負荷が掛かる日々が続き、仕舞いにはどんな顔、どんなしゃべり方で店に立てばいいのか、秦野には分からなくなってしまった。
 いい加減限界が近く思えて苦しんでいたある日、時折思い出したように店にやってきていた牧野が、何でもない口調でぽろっと言って寄越したのだ。
「素の顔で接客するのが辛いなら、バーのママを演じればいいだろう。客あしらいも店の切り盛りも上手い、熟練のママにでもなったつもりで店に立っていればいい」
「……簡単に言うなよ。『つもり』だけでやれたら、だれも苦労しない」
 憮然とした秦野を真っ直ぐ見詰め、牧野は重ねて言った。
「できるに決まっている。おまえは役者なんだから」
 それがまるで決まりきった事実であるかのような、素っ気ない言葉だった。だからこそ、どうしようもなく胸に響く。熱いものが喉元まで込み上げてきて、秦野は思わず息を詰まらせた。牧野からこんな言葉をもらったのは、初めてだった。
 役者になる道はもうとっくに諦めていたのに、嬉しいと思う気持ちが心を満たす。牧野が、自分を役者として認めてくれたのだ。誰よりも尊敬する役者である、この牧野が。感激せずにいられるわけがなかった。
 その日から秦野は女言葉を使い始めた。自分でも安直な発想だとは思ったが、ゲイバーのママ役を演じるなら、この言葉遣いのほうがそれらしいだろうと考えたからだ。
 女装趣味は特になかったが、試みにうっすらと顔に化粧もほどこしてみた。そうすると、舞台に上がる直前の高揚と緊張感を自然と体が思い出し、まるで何度も稽古して臨む公演のように、自信に満ちた笑顔を客に向けられるようになった。
 この役は牧野がくれた役だ。だから必ず立派に、完璧に演じきってみせる。そんな思いが、あれからずっと秦野の心の支えとなっている。
 今も、どんなときでも誇りを持ってこの店に立っていられる。
「――ねえ、タクシーを呼ぶ? それとももう少し寝ておきたいなら、ウチのマンションに来る? 狭いけど、寝床くらいは貸してあげられるわよ」
 あまりに眠そうな様子を見かねて秦野がそう勧めると、牧野は少しだけ考えてから、だるそうにゆっくりと首を横に振った。
「いい。どうせあと二時間もすれば撮影が始まるから、このまま現場に行く。タクシーを呼んでくれ」
「分かったわ。ちょっと待ってて」
 言い置いて、電話を掛けに店の奥にある事務所に向かいながら、秦野はこっそりため息を吐いた。
 昨夜、牧野は仕事帰りに直接この店にやってきた。そして今朝も、自宅には立ち寄らずに直接仕事に行くつもりらしい。結婚したばかりの奥さんを放っておいていいのだろうかと思ったが、デリケートな話題だけに、根掘り葉掘り事情を聞くのは躊躇われた。
 卒業後「長谷川岳(がく)」という芸名で俳優として活躍しだした後輩と牧野が、いったい何が原因で別れるに至ったのか、実のところ秦野は詳しいことを知らない。聞くつもりもない。
 ただその前後の様子から、牧野が長谷川を裏切るようななにか決定的なことを仕出かしてしまったのだと、察しはついていた。それが恐らく、その後のふたりそれぞれの結婚に絡んでいることも。
 もしかしたら、今は牧野の恋人になれるチャンスなのかもしれない。牧野に対する想いは、秦野の胸の奥底に今もくすぶっている。だが秦野は、あえてその火を掻き起こすつもりはなかった。
 十年にもわたって付き合い続け、このままいつまでも共にいるのだろうと秦野でさえ信じていた牧野と長谷川との関係も、結局は終わりを迎えてしまったのだ。永遠に続くものという保障がないのなら、自分は牧野の友人のままでいたほうがいい。
 相変わらず臆病な自分。でも、きっと臆病だったからこそ、牧野との付き合いも今まで続いたのだ。だったらこんな自分の弱さも、ずるさも、悪いものではないと思えた。自分は自分らしくあればいい。そして自分なりの幸せというものが、今の秦野にははっきりと見えている。
 店の表にタクシーが止まる音が聞こえ、秦野は事務所の壁に掛けておいた深めの帽子を手に取ると、店の中に戻った。だんだんと眼が覚めてきたようで、牧野はすでに身繕いをすませ、店の扉を開けようとしているところだった。
「ちょっと待って。これを被って行きなさい」
 言いながら、牧野の答えを待たずに、強引に帽子を頭にかぶせる。被り物を嫌いな牧野がすぐに外そうとするのを押さえつけ、「芸能人が、明け方にゲイバーから出て行く姿を見られていいとでも思ってんの!?」と凄んだ。
 さすがにいいわけがないということは分かったらしい。渋々と帽子を被り直すと、牧野は扉を開けて外に出る。去り際に、「また来る」と小さく呟きを落としていった。すぐに車が走り去る音が聞こえ、遠ざかって行く。
 その音が完全に聞こえなくなってから、秦野はそっと店の扉を開けて外に出た。朝の冷たい空気にさっと頬を撫でられ、反射的に背を竦める。Vネックのセーターから剥き出しになった首筋を撫でながら見上げると、ビルとビルの隙間から淡い光が差し込んでいるのがほの見えた。もうまもなく、朝日が昇り出す。
 夜の帳が薄らぎつつある空には、まだうっすらと星影が残っていた。陽が昇れば、あれらの星も姿を消す。だが目には見えなくなっても、星は変わらず空の上で輝き続けているのだ。そして秦野が胸に秘めた星も、また。
 ――願わくば。
 空に最後に残った星を見上げ、秦野はそっと思った。
 願わくば、あの星が人々の前から姿を消すひとときだけでも、その傍らに寄り添う存在があって欲しい。地上に降りた星を、温めるような誰かが。空の上で輝きを競い合うのではなく、もっと身近な距離で抱きしめていてくれるような誰かが。
 牧野の側にも現れて欲しいと、秦野は願った。それまでは自分が彼のことを守るけれど。どうか牧野にももう一度、人を愛し、愛される幸せを思い出して欲しい。
 いつか彼の前に現れる誰かを思いながら、秦野は空が完全に明けきるまで、頭上の儚い星影をいつまでも見上げ続けた。

―END―

最後までお楽しみいただき、ありがとうございました。
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