臆病な恋愛家
8
タイミングが合ったら、などと言っていたが、一度アプローチすると決めると、竹下は積極的だった。物怖じせずに長谷川に近づき、適当な理由をこしらえて携帯の番号を聞きだすと、今度は上手く口実をつけて彼を頻繁に誘い出すようになった。
今度の舞台に必要な資材の買い出しを手伝って、などと先輩である彼女に言われれば、一年生である長谷川が逆らえるはずもない。今後の公演に使えそうなホールの下見、演技に関する相談、他大学の演劇サークルの公演の見学……。彼女が長谷川を誘い出す口実は、それこそ山ほどあった。
竹下に好意を持つ男たちの嫉妬を買いつつ、長谷川は淡々とある一定の距離を保って彼女と接しているようだった。常に優しく、礼儀正しくふるまいながらも、竹下が一歩踏み込もうとすると、さりげなく身をかわしてしまうという。
「鉄壁のガードよ」と、ある時うんざりしたように、竹下は秦野にこぼした。
「なんだか自分が闘牛にでもなったみたいな気分だわ。思い切って体当たりしようとしても、目の前で布きれをひらひらと振られて、気づいたら逃げられてるの。あんな男はじめてよ。悔しいったら……」
そう口にしながらも、思うようにいかないことで、彼女はますます長谷川に対する想いを募らせたようだった。はじめは興味本位な気持ちもあったようだが、今ではずいぶんと熱っぽい眼差しで長谷川を見詰めている。
一方、長谷川との距離を竹下が着実に詰めて行くのに比例して、牧野の機嫌は日々悪くなっていった。ぴりぴりして、誰も側に寄せ付けようとしない。竹下が長谷川を連れ回すようになれば、自然と以前のように、自分が牧野とともにいられるようになるだろうと考えていた秦野は、当てが外れて密かに落胆した。
そんなある日、舞台の通し稽古が終わったあと、衣装の買い出しがあるからといつものように長谷川を連れ出そうとした竹下に、とうとう牧野が噛み付いた。
「あまり長谷川ばかりこき使うなよ。ほかの一年だっているだろう。そいつらをたまには使ったらどうだ」
きつい口調で言われ、竹下も綺麗に整えられた眉をムッとひそめる。そして怯みもせずに、ローズ色に塗られた唇から棘のある言葉を吐き出した。
「他の子たちにも、それぞれ協力してもらってるわよ。牧野君は一年のときから裏方の仕事にはあまり関わってなかったから分からないだろうけど、いろいろやらなきゃいけないことが多くて大変なんだから。何も知らない人は黙っててくれる?」
そう冷たく言った彼女に、間髪入れず牧野が怒鳴りつけた。
「その気もない女に引きずり回されて、長谷川も迷惑してるって言ってんだよ!」
容赦ない言葉に、部屋の中がしんと静まり返った。竹下の顔からさっと血の気が失せ、次いで首筋まで真っ赤になる。憤りのあまり言葉も見つからないのか、ぎゅっと強く唇を噛み締め、固く握った拳をぶるぶる震わせた。
ふたりの諍いの原因となった長谷川は、わずかに眉をひそめ竹下を、次いで牧野を見た。
牧野は竹下を怒鳴ったあと険しい顔で立ち尽くしていたが、長谷川と眼が合うとクッと唇を噛みしめ、荒々しく扉を開けて部屋を出て行ってしまった。反射的にあとを追おうとした長谷川を、華奢な両腕が引きとめる。
「追っかけなくていいわよ、長谷川君。あんなヤツ。ね、追わないで」
傷つけられたプライドゆえか、長谷川の腕をしっかりと抱きしめて、竹下が必死に長谷川を引き止めようとする。強引に振り払うのはさすがに躊躇われたのか、長谷川の動きが一瞬鈍った。その表情に苛立ちと焦燥の色が濃く滲む。
そんな彼らを尻目に、秦野はひとりだけ部屋を飛び出すと、全速力で牧野のあとを追った。
サークル棟の玄関口を飛び出すと、キャンパスの中でひとつ離れて造られている運動場へと続く、落葉樹に囲まれた歩道を早足で進む牧野の背中が遠くに見えた。別に運動場に向かっているわけではなく、人気の少ないほうに進んでいるだけなのだろう。息を切らせながら、秦野はその背中に追いすがった。
「牧野、ちょっと待てよ。いくらなんでもあの言い方はないだろ」
後ろから腕をつかむと、乱暴に振り払われた。そして振り向きざまに、聞いたこともない大声で怒鳴られる。
「うるさい! あいつに女なんて必要ないんだよっ」
怒りをあらわにした顔と声。秦野は呆然とした。牧野が、長谷川のことでまさかここまでムキになるなんて、思ってもいなかった。
「なんでそんなに怒ってるんだよ」
牧野は答えない。イライラと、さらに奥のほうに向かって進んで行く。その背中に、秦野はポツリと尋ねた。
「――長谷川のことを、好きだからか?」
びくっと、牧野の肩が揺れた。
「まさか、もう付き合っていたりするの」
牧野の足が止まる。否定の言葉は返ってこない。
急に笑いがこみ上げてきた。皮肉だった。こんなときにずっと知りたくて、でも聞けずにいた牧野の性癖を知ることになるなんて。
「なんだ、牧野は恋人が男でも構わないタイプだったんだ……」
口許を歪ませて言った途端、羞恥にカッと顔を紅潮させて牧野が振り返った。口を大きく開け、何か言いかけて、だが秦野の顔を見るとギョッとしたように絶句する。
足元の歩道にぽとっと一滴涙が落ちて、黒い染みを作った。続けざまに、いくつもの染みが地面に生まれる。頬を熱い液体が止めどなく滑り落ちた。自分で気づくよりも先に、秦野は泣いていた。
「どうして長谷川なんだよ……」
震える声で問い掛けた。
「お、俺だってずっと好きだったのに。ずっとずっと前からお前のことが好きだったのに、なんであんなやつにお前を取られないといけないんだよ。いつだって、一番お前の近くにいたのは俺だったじゃないかっ。なのにどうして、どうして……」
牧野は呆然と立ち尽くしていた。秦野の気持ちには、これまでまったく気づかずにいたらしい。ひどく長い沈黙のあと、牧野の口から出たのは謝罪の言葉だった。
「……悪かった」
この男の口からこんな言葉を聞くのは初めてだった。秦野はぶんぶんとちぎれそうなくらいに首を横に振る。激しい動きにつられて、涙の滴が宙を舞った。悪くない。牧野はちっとも悪くない。そんなことは分かりきっている。
牧野が自分を好きにならなかったことも、ほかの男を好きになったことも、すべてどうしようもないことだ。だけどそんな理屈に、どうしても感情がついてきてくれない。
ぼたぼたと、蛇口を開けっ放しにしたみたいに涙が止まらない。視界がぼやけて、もう周りがまともに見えなかった。何度も何度もしゃくり上げる。牧野は秦野の側を離れていこうとはしなかった。ただひどく困った様子で、その場に立ち尽くしている。
泣きすぎて頭がぼんやりしてきた。熱に浮かされたように、秦野は震える声で牧野に懇願した。
「――だ、抱いてくれないか」
驚いたように牧野が息を呑んだ。
「一度だけでいいから、俺のことを抱いて欲しい。そうしたら諦める。もう絶対こんな困らせるようなこと言わないから、だから……」
喉がひきつったように震えた。何度も何度も洟をすすり上げる。いまだかつて、こんなひどい顔になったことはない。そんな顔を一番好きな男に見せて、こんな情けないことを頼んで、もう死にそうなくらいに恥ずかしかった。
それでもどうしても一度だけ。最初に抱き合う相手はどうしても牧野がいいと思って口にした言葉だったのに、それが受け入れられることは、やはりなかった。
「……悪い。できない」
少しの沈黙のあと、拒絶の言葉が返ってくる。
目の縁にたまった涙が、またぽろっと頬をこぼれ落ちた。最後だと思って必死に願ったことも拒否され、絶望に目の前が暗くなる。と、目を軽く伏せながら、牧野が不器用な口調で続けた。
「どうすればいいか俺にはわからない。だからできない」
「え……?」
驚きのあまり、涙が止まった。分からないとは、どういうことだろう。ひょっとして、牧野もまだ童貞だということだろうか?
一瞬の間に、そんなことを考える。だがその直後、秦野は己が根本的な勘違いをしていたことを思い知らされた。
「その……、俺も抱かれたいほうだから、誰かを抱いたことがないし、お前のことを抱けるとも思えない。だから、すまない」
秦野はぽかんと口を開け放ち、ひどく気まずそうにしている男の顔を眺めた。
背後から、砂利を踏みしめてこちらに近づいてくる足音が聞こえる。牧野さんと、わずかに息を切らして呼びかける声も。引き止める竹下の腕を振り解いて、長谷川があとを追ってきたのだろう。
だが呆然と立ちすくむ秦野は、それを振り返ることもできない。牧野も、なんとも複雑な顔でじっと秦野の顔を見詰めたままでいる。
ふたりの間に流れる微妙な空気を察したのか、長谷川の足音が戸惑ったようにすぐ近くで止まった。なにが起きているのか訊きたいのだろうが、牧野も秦野も今はとてもそれどころではない状態だった。三竦み状態で、沈黙はますます重く淀んだものになっていく。
停滞した空気をかき混ぜるように、遠くで金管の音がプアーッと鳴った。
どこか離れたところで、ブラバンの連中が練習を始めたらしい。トランペットなのかホルンなのか。楽器に詳しくない秦野はさっぱり分からないが、あまり上手くないことだけは確かだった。
間抜けな音が、プアーッ、プアーッと繰り返し青空に響き渡る。
まだ熱の残る目許を片手で覆いながら、そういえば一日に三度も牧野が謝罪の言葉を口にするなんて珍しいこともあるものだと、どうでもいいことを秦野はほんの少しだけ考えた。
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