臆病な恋愛家
7
その日から牧野と長谷川との距離は確実に縮まっていった。
稽古中、長谷川が牧野に話しかける機会が増え、牧野も以前のように長谷川を毛嫌いすることなく、それに応じる。
それだけではない。映画でも舞台でも、とにかく外部の作品に対する関心の薄かった牧野が、長谷川から観に行きましょうと誘われると、面倒くさそうにしながらも大人しくついて行く。
長谷川が薦めるものならば、必ず勉強になると信じてのことなのか。それとももしかして、「長谷川に誘われる」という、そのこと自体が牧野にとっては意味あることなのだろうか。
もちろん秦野は前者だと思い込みたかった。だが、そうとは信じきれない自分がいる。少なくとも、牧野は気に食わない人間と一緒に出掛けるような、付き合いのいい人間では絶対にない。
自分だけが独占していたはずの場所を、唐突に現れた後輩がさらって行く。それを秦野は指をくわえて眺めているしかない。二人の間に割り込めないもどかしさにじりじりした。
そしてそんな秦野と同じことを思っている人間が、すぐ近くにもうひとりいた。
「――最近あの二人、妙に仲がいいのね」
稽古の最中。休憩時間にひとつの台本を左右から覗き込み、なにか熱心に話をしている牧野と長谷川の姿を少し離れた位置からぼんやり眺めていた秦野は、傍らから唐突に声をかけられ驚いた。振り向くと、同学年の会員の中では紅一点である、竹下がそこに立っていた。
休憩中に台本の確認もせず、牧野たちを眺めていたことを不審に思われたのかと秦野は背中に冷たい汗をかいたが、そういうわけではなかったようだ。竹下も同じほうを眺め、ふっと息を吐く。
「牧野君は、最初は長谷川君のことを気に入らなかったみたいなのに、急に仲良くなっちゃって。このところ、毎日べったりじゃない。牧野君はもともと近寄りがたいところがあったけど、こんな風じゃ長谷川君まで近づきにくくなっちゃって困るわ」
「困るって……、なに、竹下は長谷川のことが好きなの?」
つい遠慮を忘れて聞くと、ちょっと怒ったような顔で竹下がこちらを睨み、それでも正直な気持ちを聞かせてくれる。
「好きっていうか……、いいな、とは思ってるわよ。年下だけど落ち着いているし、格好いいし、優しいし。それに誠実そうで、女だったら誰でも付き合いたいと思うタイプじゃない?」
「ふうん」
べた褒めの言葉に肯定も否定もしがたくて、秦野は肩をすくめるにとどめた。確かに長谷川はいい男ではあると思う。秦野だって、もし牧野に恋する前に長谷川のことを知っていたら、うっかり惚れてしまったかもしれないほどの男ぶりだ。
だが今の秦野には、長谷川のその魅力が不快なものにしか思えなかった。牧野の気を惹くような要素は、彼の周りからすべて排除してしまいたい。
……ふと、心の中で悪い虫が
蠢
いた。長谷川のことをいいなと言い、付き合えるものなら付き合いたいという竹下。もし彼女が実際に長谷川と付き合うようになったら、長谷川は牧野の側から離れていくかもしれない。そうすれば、また秦野がひとりで牧野のことを独占できるようになるのではないか。
秦野より指三本程度目線が低いだけの竹下の顔を、まじまじと見下ろしてみる。
日本人には珍しいほどくっきりとした、整った目鼻立ち。美人すぎて、ともすればきつい印象を与えそうになるのを、いつも潤んだように見える黒目がちの瞳が和らげ、丁寧にグロスを塗られたふっくらとした唇は、朝日を浴びた露のように艶やかだ。
長身で、モデルのようにスタイルのいい彼女は、もともと美人ぞろいのサークル内の女子学生の中でも飛びぬけてルックスに優れていて、男たちからの人気も高い。これほどの美女なら、長谷川も無視できないのではないかと思った。
「――なに?」
じっと見ていたのをさすがに不自然に思われたのか、竹下が小首をかしげて聞いてきた。「いや……」と一瞬口篭り、それでも勇気を出して秦野は口にしてみた。
「告白するの? その……、長谷川に」
「告白って、そんな大袈裟な。でも、そうね。タイミングが合ったら、ダメ元でぶつかってみてもいいかなぁ」
「いいじゃん、頑張れよ。長谷川と竹下ならお似合いだと思うし、俺も応援するからさ」
長谷川にチラチラと視線をやりながら、小声でそんなことを囁き交わしていると、ふと牧野がこちらに気づいた。秦野の隣に竹下が立っているのを見て、いぶかしそうな顔になる。
無遠慮なくらい真っ直ぐな牧野の視線に居心地悪さを感じたのか、「そろそろ休憩も終わるから」と竹下が傍を離れていった。代わりに長谷川との話を切り上げて、牧野がやってくる。
「竹下と、なんの話をしていたんだ?」
唐突に聞かれ、自分の後ろめたい考えを見透かされたような気がして、秦野は内心焦った。
「なんの話って……、別に何も。台詞の解釈についてちょっと話してただけで」
「台本も持たずにか?」
ますます牧野が不審そうな顔になった。答えに窮して秦野が黙り込むと、牧野は頭をめぐらせて、仲のいい女友達のもとに移動していった竹下の背中を睨むような眼差しでじっと見詰める。
それ以上何も聞いてこようとしない牧野が何を考えているか分からず、秦野は気が気でなかった。
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