臆病な恋愛家
6
その新入生がはじめてやってきたとき、狭くて小汚いサークル室の中は、常にない興奮で満たされた。
人目を引く容姿の男だった。舞台映えしそうな長身に、長い手足。ほどよく整った優しげな顔立ちは男女を問わず好感を抱く類のものだったし、穏やかで落ち着いた物腰は、まだ十代であるはずの彼の年齢を忘れさせた。
「――長谷川学(はせがわ・まなぶ)っていうんだって」
なんとなく輪に入りそびれ、会員たちから大歓迎を受けている新人を壁際からぼんやり眺めていた秦野は、傍らに立っていた友人から小声で話しかけられ、視線だけをそちらに向ける。
「高校時代は演劇部の部長で、都の演劇コンクールで最優秀賞も取ったんだってさ。そんな華々しい経歴のやつがウチに入ってくるの、はじめてだよな。今年はレベルアップが期待できそうだって、会長たちがさっき散々騒いでた」
秦野は「へえ」と目を見開いた。どうしてそんな有望株がこんな小さな演劇サークルしかないこの大学に進学してきたのか、少し不思議に思う。同じ都内で似たような偏差値ならばN大の芸術学部か、あるいは少し無理をしてW大やM大のその類の専攻を選ぶのが普通だろうに。
秦野の足元には汚い床に座り込んで、牧野がうつらうつら船を漕いでいる。こちらはいつもながら、騒いでいる周囲にはまったく関心がないようだ。
昨夜はこの春大学を卒業した下柳たちに呼び出され、秦野と牧野は他の数人の現役会員とともに、日付が変わるまで飲みに付き合わされた。
引退したばかりのサークルの様子が気になるのかと思いきや、単に慣れない仕事で溜めたストレスの吐き出しどころを求めていただけだったらしく、延々延々と愚痴を聞かされ、ただ飲んでいるときの三倍は疲れた。秦野もこうして立っていながらも、実は眠たくて仕方ない。
あくびを噛み殺していると、ふとこちらに向けられている視線に気づいた。何気なく顔を上げ、あの注目の新人がこちらを眺めていることを知って、中途半端にあくびを飲み込む。自分を見ているのかと一瞬思ったが、違った。長谷川の視線は秦野のやや下方、抱え込んだ膝に顔を埋めるようにして眠っている牧野へと、真っ直ぐ向かっている。
なぜ見ているんだろうと疑問に思う間もなく、周りを取り囲む会員から話しかけられ、長谷川の視線は逸れていった。
もう二年も片思いしている男を、秦野はちらりと見下ろした。牧野は長谷川の視線にはまったく気づかなかったようで、中途半端な姿勢のまま本格的に眠り込んでしまっている。
ただ秦野だけが、ほんの一瞬の出来事になぜか疼くような不安を感じていた。
長谷川の実力は前評判どおり、いや、それ以上に確かなものだった。
まず何よりも、基礎がしっかりしている。これまでの演劇経験が中学、高校の部活動しかないというのが、とても信じられないくらいだ。その上さらに、もともと身に備わった表現力がずば抜けていた。
その印象は新人公演の台本ができ上がり、当然のようにキャストの一人に選ばれた長谷川の演技を間近で見るようになって、ますますはっきりしたものへと変わった。
クレバーな演技とでも言えばいいのか。台本を念入りに読み込み、あらゆる角度から役を吟味した上で演じる長谷川のスタイルは、同じく台本をよく読み込みはしても直感で役をつかむ牧野と対照的と言っていいもので、だがいずれ劣らぬ魅力を持っていた。
いや、完成度という点で見るなら、現時点では長谷川が牧野のはるか上を行っていると言えるだろう。この二年間、地道な訓練を続けた甲斐があって、牧野の基礎力はずいぶんと上がってきている。それでも声の豊かさも体のしなやかさも、長谷川には遠く及ばない。そのことは牧野自身、自覚しているようだった。
それが証拠に、はじめて長谷川の演技を見たときから、それまで彼の存在に特別な関心を払っていないようだった牧野の目の色が明らかに変わった。
誰かひとりの役者の演技に固執することなく、ただ自分がどう役を演じるか、そればかりを考えているようだった牧野が、はじめて特定の人間の演技を真剣に見るようになった。
今も……、牧野は稽古場の片隅から、食い入るように長谷川の演技を見詰めている。下唇を噛み締めたその横顔は、悔しくて仕方ないと叫んでいるように見えた。
そこには長谷川に対する好意など欠片もないのに、秦野はそんな牧野の表情に無性にもやもやした思いを抱く。それが敵愾心であれ嫌悪であれ、誰かに対してこれほど強い感情を露にする牧野を、これまで見たためしがなかったからだ。
強い視線に気づいたのか、休憩に入ってすぐに、長谷川がふっとこちらを向いた。牧野と眼が合って、軽く会釈をする。それに応えることもなく、牧野はさも嫌そうな表情で顔を逸らした。長谷川が小さく首を傾げる。少し躊躇ったような間のあと、額から流れ落ちる汗をタオルで拭いながら、こちらへと近づいてきた。
秦野は内心慌てた。牧野の愛想のない態度に、後輩が怒ったのかと思ったからだ。だが長谷川は気を悪くした風ではなく、牧野のすぐ前に立つと、目尻が少し下がった温和そうな顔立ちで優しく微笑んでみせた。
敵意の欠片もないその表情に、牧野が肩透かしを受けたような顔になる。だがすぐに我に返ると、じろりと長谷川を睨み、会話を拒むように明後日の方角に顔を背けてしまった。
困ったのは、牧野の傍らに立っていた秦野だ。
長谷川に対しては、何故か最初の頃から苦手意識を抱き続けているが、牧野に無視された形になった彼が困ったように立ち尽くしているのを見ぬ振りもできず、緊張した空気をほぐそうと当たり障りのない言葉を懸命に探す。
「あ、あのさ、長谷川。さっきの演技よかったよ。さすがだな」
「ありがとうございます」
話しかけると、長谷川はほっとしたように表情を緩めた。こうして間近に並ぶと、やはり背が高い。牧野や秦野より、五センチ以上は上背がありそうだ。
ずば抜けた演技力に加えて、長谷川と同学年の後輩から聞いたところによると、どうやら彼は相当頭がいいらしい。所属する学部は学内で一番偏差値が高い法学部で、しかも将来司法試験を受けるべく、今からもう準備を始めていると聞いた。
そんな優秀な男がどうしてこの大学を選んだのだろうと、かつて抱いた疑問がまた頭をもたげた。そこでこの機会にと本人に尋ねてみたところ、返ってきた答えは驚くほどに真っ当なものだった。
「師事したい教授がこの大学にいたので。それに学内の設備も充実しているし、自宅からもわりと近くて便利ですし。だから元々この大学を第一志望にするつもりでいたんですけど」
そっぽを向いている牧野の顔を見詰めながら、長谷川は言葉を続ける。
「でも決定的だったのは、去年の大学祭です。たまたまこのサークルの舞台を見て、そのとき牧野さんの演技に感動して。それからはずっとこの大学で、牧野さんと同じ板の上で演技をしたいと思ってました」
突然自分の名前を出された牧野が、「え?」と弾かれたように顔を上げた。
「だから、今度の公演は本当に楽しみにしているんです。牧野さんと一緒の出番もありますし。精一杯頑張りますから、いろいろ教えて頂けるとありがたいです」
「……俺がお前に教えてやれることなんて、何もないだろう」
「牧野さんの演技を見ていると、学ぶことばかりですよ。一瞬も目を逸らしたくなくなる」
てらいのなさすぎる言葉に、束の間牧野が絶句した。その表情はいつもとさして変わらないままだったが、小さな耳たぶがわずかに赤くなっているのに、秦野は敏感に気づいた。
やめてくれと叫び出したくなった。牧野の前で、彼の気を引くようなことを言わないで欲しい。
だが実際には、言葉は喉のあたりでわだかまるばかりで、何ひとつ口にすることができない。
ただ呆然と、仏頂面の陰で照れている牧野の顔を眺めていることしか、秦野にはできなかった。
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