臆病な恋愛家

 新春公演を期待以上の盛況のうちに終えた週末、秦野はほかのサークル仲間たちとともに、下柳が借りているアパートの部屋にいた。反省会と打ち上げを兼ねて、公演ビデオの上映会をしようという話になったのだ。
 きちんとした反省会は翌週に予定されていたし、今日の集まりは基本的に自主参加ということで会員全員が集まったわけではなかったが、それでも狭い下柳の部屋はすぐに人でいっぱいになった。
 サークルの中でもっとも立場が弱い一年生たちは、上級生たちに遠慮するように自然と壁際に集まり、肩を摺り寄せるようにして座る。秦野のすぐ隣には、牧野の姿もあった。
 もっともそんな遠慮があったのは最初のうちだけだ。いったんビデオが回り始めれば、上級生も下級生もなく互いが互いの演技を批評しあい、この間が悪かった、照明の位置がずれているなどと、何度もビデオを巻き返しながら喧々囂々(けんけんごうごう)でやり合う。
 もちろん秦野や牧野も例外ではなく、牧野に至っては会長である下柳にまで駄目出しをして、かつての「どちらの実家がより田舎か」論争を髣髴させる激論を長時間繰り広げていた。
 そうして反省会がようやっとひと段落すると、打ち上げがてら、オールナイトで映画でも見ようかという流れになった。
 早速下柳に先導されて、数人が近所のレンタルビデオ店に繰り出していく。一方秦野たち一年生は、駅の近くのスーパーで酒とつまみを調達してくるようにと、別行動を命じられた。
 そうしてスーパーで買出しをすませて帰ってくると、下柳たちは先に部屋に戻っていた。テレビ画面に、レンタルしてきたものと思しき映画がすでに映し出されている。論評で疲れた頭をほぐそうというのか、三年ほど前にヒットした、ごく軽いノリのコメディータッチの映画だった。
 腕が痺れるほど大量に買ってきた缶ビールを、会員の間を縫うようにしながら配って回る。酒が入ると場のボルテージは一気に上がった。ポテトチップスを肴に映画を見たり、雑談に興じたりと、好き勝手ふるまい始めた周囲をよそに、一通りビールを配り終えた秦野は、また壁際で牧野となんとなく並び合って、ぼんやりと映画を眺める。
 一本めの映画が終わるころになると、家に帰る者がひとりふたりと出てきた。女性会員は、夜の十時ごろには全員姿を消した。それでも深夜近い時刻になっても、部屋の中にはまだ十人近い人間が残っていた。
 こんな大勢で集まって、昼間からガヤガヤやっているのだ。隣室の住人はさぞかし迷惑なことだろうと、自分も迷惑をかけているひとりでありながら秦野が密かに同情していると、二本めにかけたアクション映画が終わり、画面上にエンドロールが流れ出した。さっと立ち上がってデッキの停止ボタンを押し、床に重ねられていたもののうち、一番上にあったDVDをタイトルも見ずセットして再生する。
 一、二本めの映画が終わったときにしたのと同じ作業を機械的にこなし、また牧野の隣の定位置に戻って、背後の壁に背中をもたせかけながらうつらうつらしていると、「げぇ」と誰かの呻くような声が聞こえてきてハッと目が覚めた。
「下柳ー。おまえまたエグイもん借りてきたなあ」
 げんなりとそう言ったのは、四年生の先輩だ。なんだろうと思いながら何気なくテレビ画面に目をやって、秦野は顔を強張らせた。
 バーかなにかだろう。壁一面に洋酒のボトルが並んだ薄暗い店内で、小汚い机を挟んで逞しい男がふたり、向かい合って立っている。ウィスキーグラス片手になにか話していると思ったら、いきなり片方の男が相手の男の顔を引き寄せて、濃厚なキスを始めた。
 相手の男も抵抗する様子はない。逆に相手の頬を大きな手でつかみ寄せ、積極的に舌を出す。唾液をやりとりする音まで聞こえてきそうな、激しいキスシーンだった。
 思わずごくりと唾を呑み込み、その音が思いがけず大きく響いた気がして、秦野は慌てて周囲を見回す。幸いこちらに意識を向けている者などひとりもおらず、みんな唖然としたように画面に見入っていた。
 静まり返った部屋にもう一度濡れた音が響き、荒い息をつきながら、ようやく画面の中の男たちの唇が離れた。だがしばらくして、また堪えきれないように唇を重ね出す。その瞬間、部屋にどっと笑いが弾けた。「しつけー。何回やれば気が済むんだよ、こいつら」と、笑いながら誰かが苦しそうに言った。
 この手のシーンがあると知っていて借りてきたのか、下柳はしてやったりというような顔だった。新しい缶ビールのプルトップをひき開けながら、「ちゃんと見ろよ。国際的な賞も取った名作なんだからな」と、わざと作った下卑た笑い声を漏らす。つられてもう一度賑やかな笑い声が巻き起こった。近所迷惑などお構いなしだ。
 だが秦野には、彼らに合わせて笑うことがどうしてもできなかった。せめて強張る顔を隠したくて、画面から目を逸らす。
 この場にいることが、急に居たたまれなくなってきた。別にこの作品は、ポルノ映画でもなんでもない。きちんとした筋立てがあり、真っ当に撮影された映像作品だ。なのにこの手のシーンが入っているというだけで、笑いの対象になる。からかいの的になってしまう。
 ここに座っている自分も、女よりも男とキスをしたい性癖を持っているんだといえば、彼らは同じように腹を抱えて笑うのだろうか。それとも蔑みの視線を向けられ、気味悪がられて排斥されてしまうのだろうか。そんなことを考えていると、どうしようもなく哀しくなってきた。
 自分だって、別に好きでこんな性癖を持ち合わせて生まれてきたわけじゃない。日々間々ならない自分の感情に振り回され悩んでいるというのに、そんな苦しみとはなんの縁もない幸せな者たちが、どうして人のことを笑ったり、蔑んだりできるのだろう。こんな不公平なことはないと、ぎゅっと膝を抱え身をすくめながら思う。
 小さく鼻をすすりながら、ふと気になって隣に座る男の顔を見た。
 牧野は秦野と同じく、くすりとも笑わずに映像を眺めていた。その横顔は少し強張っているようにも見えたが、よく分からない。
 牧野はこういうシーンに抵抗がないのだろうか。平気なのだろうかと思って、その横顔から目を逸らせずにいると、視線に気づいた牧野がこちらを向いて、「なんだ?」と視線で聞いてきた。少し躊躇った末に、他に聞こえないように囁くような声で、秦野は恐る恐る彼に尋ねる。
「牧野は……、その、こういうシーンを見て嫌だとか、気持ち悪いとか、そんな風には思わないのか?」
 唐突な質問に、牧野が訝しそうな顔をした。途端に、変に思われただろうかと冷汗が噴き出す。「いや、その……」と意味のない言葉を呟き、上手く取り繕うこともできずにうろたえていると、一度こちらに向けられた視線がふっと離れていった。
「別に」と呟く声が聞こえた。缶ビールを口許に寄せながら言う。
「――こういうのを見て、笑うやつらのほうが俺には気持ち悪い」
 静かな憤りを秘めたその声が、馬鹿に胸に響いた。長いこと胸に抱え込んでいたやり場のない思いが、わずかに遠ざかっていく気がする。
 飲み終えたビールを、牧野がフローリングの床に置いた。そのままだらりと垂らされた手が、視界の片隅に映り込む。
 人差し指の爪の形がいいなと思った。楕円に近い形で、手入れなどしているはずがないのに、よく整っている。細くて長い指は、高校のとき憧れていた教師のものとよく似ているようで、でもそれよりもずっと綺麗に見えた。
 魅入られてしまったかのように、秦野は長いことその手から視線を逸らすことができなかった。

* * *

 その日から秦野は牧野のことを、少し違った眼差しで見るようになった。固い石にほんのわずか食い込んだ楔が徐々に亀裂を広げていくように、これまでなんとも思わずにいた牧野の些細な仕草ひとつひとつが気に掛かるようになり、次第に眼が離せなくなっていく。
 食事をするときの綺麗な箸使い、神経質に眼鏡の位置を直す仕草、はじめの頃は癪に障った無愛想な態度や口数の少なさまでが、一度見方を変えてしまえば男らしい、格好いいと好ましい印象に変わった。
 冬が去り、春が近づいてくるころには、秦野は自分が牧野に対して抱いている感情が恋であると、はっきりと認めるようになっていた。
 高校生の頃のような葛藤がまったくなかったわけではないが、牧野ならばこの想いを知られても笑ったり、人に言いふらしたりはしないだろうと思えたから、自分の気持ちを正面から受け入れることができた。
 はじめて自分に許せた恋心。その対象である男と誰よりも近い位置で過ごすことのできる日々の幸せに、秦野は有頂天だった。一日一日が楽しくて仕方なかった。
 ぶっきらぼうでわがままで生活能力のない男の世話を面倒くさそうな顔を装って焼きながら、その実どんどん牧野の中で自分が欠かせない存在になっていくような気がして、その幸福感に酔いしれた。
 僻んだ気持ちで眺めていた牧野の演技も、いつからかその良さを素直に受け入れられるようになり、それどころか、いまや彼の演技の第一のファンは自分であると、秦野は自負していた。
 もともと惹かれるところが多かったから、妬ましかった。目から曇りが取れれば、彼の演技は自分の理想そのものを具現化したもののようにさえ思えた。だから秦野は、牧野の天賦の才を伸ばすための助力を一切惜しまなかった。
 自分の知識と経験を総動員して発声の仕方を教えたり、苦手だというダンスや歌のレッスンに付き合ったりしては、どんどん開花していくその才能を憧れの眼差しで見詰め、一方で触発されて、自分もまた必死にレッスンに励む。充実した日々が続き、すべてが良い方向に向かっている気がした。
 牧野こそが自分の理想の男で、彼と出会えたのはきっと運命だったのだと、秦野は信じ込んだ。牧野も仏頂面こそ変わらないものの、秦野を信用して随分気を許してくれるようになっている。あとはいつ、どうやって今の関係をもう一歩踏み込んだものにするか、そのタイミングを正確に見極めることだ。
 牧野の腕に抱きしめられる自分を想像する。秦野とあまり変わらない体格の痩せ型の牧野だが、あの胸に抱き寄せられ、あの低い声で「好きだ」と囁かれたらどれほど幸せだろう。
 一刻も早くそんな甘い時間を持てるようになりたいと願うものの、告白して、もし失敗してしまった場合のリスクの大きさを考えると、どうしても慎重になってしまう。
 男からの告白ということに牧野が嫌悪を抱くことはないとしても、想いを受け入れられなかった場合、気まずくなってその後距離が開いてしまうことは男女の仲でも間々あることだ。
 せっかく牧野の、恐らく唯一の親友という立場を手に入れられたのに、それを手放すのは絶対に嫌だった。だから秦野は牧野が自分に特別な好意を示してくれるまで、あるいは牧野が男も恋愛対象にできる男であると確信が持てるまでは、告白は控えようと決めた。
 どうせ人嫌いで無愛想な牧野に、積極的に近づくような人間はそうそういない。ただ待っていれば、いつか必ずチャンスは巡ってくる。そんな楽観的な気持ちを抱いたままあっという間に月日は過ぎ去り、迎えた三年生の春。
 ――秦野は悠長すぎた己の愚かしさを、心底悔やむことになる。

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