――翌々日。大教室の最後列に座った秦野は、講義もそっちのけで、三列ほど前の席に座る男の背をハラハラと見つめていた。
憔悴した様子で、後ろの机にぐったりと背をもたせかけているのは、牧野だった。学科が異なるふたりだが、教養課程の授業はところどころ重なっていて、これまでもいくつかの講義で顔をあわせたことがある。
いつもはつまらなそうな顔で、しかし滅多に居眠りしたりはせずに講義を聞いているのに、今日は授業が始まったときからずっと、苦しそうに腹のあたりを押さえているのが気にかかった。わずかに覗き見える横顔は、心なしか蒼褪めているように見える。
(どこか具合でも悪いのかな。今日から台本の読み合わせも始まるのに……)
机の下で足踏みしながら九〇分間の講義を終え、教授が教室を出て行くのと同時に、秦野は席を蹴って牧野のもとに駆けつけた。間近で見ると、その顔色の悪さがはっきりと分かる。
肩を揺さぶって「大丈夫か」と秦野が声を掛けると、牧野は長机に上体を半分伏せるようにしながら辛うじて頭だけを起こし、いつもより幾分弱々しい声で「なにが?」と尋ねかえしてきた。
「なにがって……、だって授業中ずっと腹押さえているから。体調でも悪いのかと思って」
「別にどこも悪くないし、大したことじゃない」
「大したことじゃないって」
その顔色のどこがと言おうとした瞬間、何かが鳴る高い音がはっきりと耳に届いた。沈黙するふたりの間で、きゅるきゅるると間延びしたか細い音がいつまでも聞こえ続ける。
どうやら音の源は、目の前でぐったりしている男にあるらしかった。呆気に取られていると牧野はいかにもばつの悪そうな顔になり、腹に片手を強く当ててなんとか腹の虫を押さえ込もうとしながら、張りのない声で呟いた。
「……ただちょっと腹がすいていただけだ」
とりあえずの応急処置にと、秦野が昼食用に買ってあったパンとお茶のペットボトルを恵んでやると、牧野はみるみるうちに元気を取り戻した。
先ほどの弱りようが嘘のような澄ました顔で、食べ終わったパンの袋を丁寧に畳みながら「美味かった」とほんの少し頭を下げた男に、秦野は呆れきったため息をつく。
「別にいいけどさ……。なんでそんなに飢えてたんだよ」
四角く折り畳んだパンの袋を返そうとしてきたのに、「ゴミは自分で捨てろ」とはねつけてやると、牧野は袋を上着のポケットに突っ込み、今度はペットボトルのパッケージをぺりぺりと剥がしながら、「丸一日メシを食ってない」とこともなげに答えた。「は?」と秦野は眼を丸くする。そこまで飢えていたのなら、顔色も悪くなるはずだ。
「馬鹿か。メシくらいちゃんと食べろよ」
「食えるもんなら当然食ってる。けど、金がなかったんだからしょうがない」
「金がない?」
「一昨日飲んだときに、有り金をほぼ全部使ってしまった。だから次の仕送りが入るまでは、水だけで我慢するしかない」
今度こそ秦野は呆れ返った。そこまで財布の中身が危うくなっていたのなら、自分や下柳たちに話して立て替えてもらうなりすればいいのに、餓死しかねないリスクを犯してまで、この男はなにを馬鹿正直に飲み代を払っているのか。
そうでなくても、実家に早めに仕送りをしてくれるよう頼むなり、適当な友人に助けてもらうなり、いざとなったら飢えずにいられる方法はいくらだってあるはずだ。なのになんの手段も講じず、すきっ腹を抱えて講義を受けて、倒れかけているのでは世話がない。
なにか悪い病気なんじゃないかと心配した自分が馬鹿だったと頭痛を覚えている秦野をよそに、牧野は何事もなかったように立ち上がり、「じゃあ」と去っていこうとする。秦野は慌ててその腕をつかんで引き止めた。
「ちょっと待て。それでおまえ、仕送りって次はいつ入るんだよ」
「来週の火曜日」
サラリと言ってのけた男の頭を、秦野は一度解剖して覗きたくなってしまった。この男は、やはりどこかいかれている。
「……あのさ、おまえさ、今日がまだ木曜日だって分かってる? 来週の火曜まで、あと五日もあるんだぞ。冗談抜きで死ぬぞ」
「なんとかなるだろう。水さえ飲んでいれば、上手くすれば人間は一ヶ月くらいは生き延びられると、何かの拍子に聞いたことがある」
――もはや何も言う気になれず、秦野は重い重いため息を吐き出した。教室の壁に取り付けられた時計を仰ぎ見る。サークルが始まるまでまだ大分時間があるなと確認してから、秦野はつかんでいた手をそのまま引っ張って歩き出した。
戸惑い顔の男をずるずる引きずって秦野が向かったのは、大学近くに借りている自分のアパートだった。扉を開けて牧野を中に押し込み、小型冷蔵庫の中から買い置きの肉や野菜を取り出す。
材料を適当に乱切りにしてフライパンで炒め始めると、漂ってきた香りに反応して、牧野が小鼻をひくつかせた。背後に立ち、目を輝かせて秦野の手許を眺める。たったパンひとつで一日分の空腹は癒すのは、やはり無理だったのだろう。料理をしていても、牧野の腹がひっきりなしに鳴る音が聞こえてくる。
冷凍庫に小分けしてしまっておいた飯をレンジで解凍し、できあがった簡単な肉野菜炒めといっしょに出してやると、「食べていいのか?」と律儀に確認された。頷くと、まるでお預けを喰らっていた犬のように、勢いよく食べ始める。
みるみる中身が減っていく茶碗を見て、おかわりのために新たな米を解凍しながら、秦野はため息とともに申し出た。
「しょうがないからさ。次の仕送りが入るまでは俺が食事の面倒を見てやるよ。……大したものは出せないけど」
その提案がよほど驚きだったのか、牧野がぴたっと箸を止めて目を丸くした。口の中に入っていたものを飲み下してから、「どうしてだ?」と不思議そうに聞いてくる。その手から茶碗を奪い取り、温まったご飯を再び盛り付けてやりながら、秦野はぶっきらぼうに言った。
「同じサークルの仲間に餓死でもされたら、夢見が悪いんだよ」
「そんなものなのか?」
「そんなものなの!」
山盛りのご飯が湯気を立てる茶碗を目の前に突きつけてやると、牧野はそれを受け取りながら、いまいち理解できないといったように「ふうん」と首を傾げる。
その様子に、こいつはもしかしたら目の前で俺が餓死しても、気にしないのかもしれないと思った。そんな薄情な相手を助けてやるのも業腹だが、仕方ない、これが自分の性分なのだからと割り切る。
秦野の実家は埼玉の農家で、毎月食材を段ボール箱いっぱいに詰めて送ってきてくれるため、ひとりではなかなか食べきれず、持て余していたという事情も実はあった。
親が汗水たらして作った野菜を無為に腐らせてしまうよりは、牧野に飯を食わせてやって消費したほうがよっぽどマシだ。
綺麗な箸使いですべてを平らげると牧野は両手を合わせ、美味かったご馳走様と丁寧に頭を下げる。
そのきっちりとした挙措に、愛想がなくてもこれで案外きちんとしたしつけは受けているんだなと、秦野は少し意外な思いを持った。
* * *
それからの五日間、牧野は毎日朝晩秦野のアパートを訪れてきた。これまで知らなかったことだが、牧野のアパートも大学近くにあるらしく、行き来するのに苦労するような距離ではなかった。
秦野が作る料理を、牧野はいつも残さず平らげた。口数の少ない男であるため、食事中に打ち解けて話し合うことなどほとんどなかったが、その綺麗な箸使いは見ているだけで気持ちよく、また繕ったところのない表情で「美味い」と言われれば、極端に感激されるよりもよほど嬉しい気持ちになる。
こいつは存外人を乗せるのが上手いやつなのかもしれないと思いながら、牧野に食事させる楽しみを覚えてしまった秦野は五日後、「食材なら豊富にあるから、これからもたまに飯を食べに来ればいい」とつい口走ってしまった。
牧野がその誘いを断るわけもなく、それからも時折秦野の部屋を訪れては食事をして帰って行くようになり、そうこうするうちにふたりは次第に親しくなっていった。
なにしろ週に何度も同じアパートの部屋で食事をするので、講義の時間が合うときは、自然とふたりいっしょに大学に行ったり、帰ってきたりするようになる。
そのうち同じ授業に出席するときは必ず隣の席に座るようになり、学内でも何かと一緒に行動する機会が増えて、気づけばふたりは周囲から親友と見なされるような間柄になっていた。
親しくなろうがどうしようが、牧野は変わらずに口数が少なく、傍若無人な男だ。でも自分が隣にいるときには、その肩から少し力が抜けているような気がして、それが秦野にはなんとも誇らしかった。
――新年に予定されている定期公演の準備は、順調に進んでいた。
牧野にはやはり特別な力があって、彼の手の動きひとつ、台詞ひとつで演じる人物の姿がその場に浮かび、周囲に情景が見えるような錯覚を秦野は何度も覚え、引き換え自分が口にする台詞にはどうしても牧野ほどの力が宿らないことを呪ったりもした。
天賦の才能を毎日間近で見せつけられるだけでは、いずれ牧野のことを本気で憎むようになってしまったかもしれない。
だが、「こんなすごいやつが一度現実に立ち返れば、自分の飯の世話もろくにできなくて餓死しそうになっている。どこか大きく欠けた部分があるからこそ、これほどの才能に恵まれたのかもしれない」と、そう思うことで溜飲も下がり、ひとたび演劇を離れれば、ごく平常心で接することができるようになった。
秦野ほどではないにせよ、ほかの劇団員たちも徐々に牧野の無愛想さに慣れ、むしろその個性を楽しむようになりつつある。下柳や宮本らがなにかにつけて牧野のことを構い、からかっている様子を全員が見ているせいもあるかもしれない。
弄られても上手くあしらうことができず、仏頂面の陰で戸惑い、困っている牧野を見ていれば、案外面白いやつなんじゃないかと誰もが思う。そしてそう思っているうちに、各々が気負わずに牧野と接することができるようになる。
これが独特の個性を持つ牧野が孤立してしまわないようにと考えた下柳たちの配慮だとしたら、大したものだった。
雰囲気は最高にいい。公演に向けて劇団全体がひとつにまとまり、いい流れに乗っていると、秦野は肌で感じていた。
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