臆病な恋愛家
3
――演劇サークルに入会したといっても、はじめの頃はコンパとレッスン、コンパとレッスン、その繰り返しだった。基礎訓練の積み重ねが大事だと知ってはいても、単調な動作の反復には時折嫌気が差す。
ストレスを解消するための頻繁な飲み会なのかもしれないが、まだ酒の味に慣れないでいる秦野には、金がかかるばかりの飲み会はあまりありがたいものではなかった。
だから夏休みに入ってようやく、九月に予定されている新人公演に向けての本格的な準備が始まったときは、飛び上がるほどに嬉しかった。
演目の発表とともに脚本が配られ、一番手前のページにある配役表の中に自分の名前を見つけたときには、さらに喜んだ。
「新人」公演と銘打たれていても、このサークルにおいては、その名称はほとんど名目上だけのものでしかない。
年に二三回しかない貴重な舞台のひとつという捉え方のほうが強いため、キャストは二年生以上の者を中心に配されており、配役表から漏れてしまった一年生も数人いた。役がついた者は秦野も含め、高校時代に演劇部に所属していた者がほとんどのようだった。
だから配役表の後ろのほうに牧野の名前を見つけたとき、正直なところ秦野は「なんで?」と思った。
レッスンには真面目に取り組んでいるようだが、これまでの演劇経験は皆無。その上あの無愛想さと無口ぶりで、舞台上でまともな演技ができるとはとても思えなかったからだ。
だがそんな思いは、初めての立ち稽古の日に、早々と吹っ飛んだ。
台詞の発音は不明瞭さがところどころ目立つし、声量もまだ足りない。動きにも硬さが目立つ。
それでも、そんなことはどうでもいいと思わされるくらい、牧野の演技はほかの役者のそれとはまったく違うなにかを、圧倒的に人を惹きつける何かをたしかに秘めていた。
今回の舞台のキャスティングをした先輩たちは、牧野が隠し持った力を早々と見抜いていたのだろうか。だとしたら、彼らの慧眼をも讃えるべきだろう。
演じているとき、牧野は牧野ではなかった。与えられた役の人物、そのものがそこに立っていた。ほんの些細な仕草、表情、感情の発露、すべてが普段の牧野の面影もない、まったくの別人のもので、しかもその人間の思いが、大袈裟に言えば人生までもが、彼の演技からは伝わってくる気がする。
いったいこの感覚はなんなのだろう。どうして何の経験もない人間が、これほど深みのある演技をできるのだろうか。
次元が違うと、秦野は思った。
(これが才能ってやつか。こういうやつを天才って言うのか……)
襲ってきたのは絶望だった。まだろくな演技経験もないくせに、牧野が今いる位置にさえも、自分はきっと一生たどりつくことができない。そんな確信めいた予感が胸を過る。
出番の演技を一通り終え、稽古場代わりに使っている空き教室の隅に身を寄せた牧野は、放心した顔つきだった。まだ続けられているほかの役者たちの立ち稽古をぼんやりと見つめながら、時折小さく唇を動かしている。聞こえてくる台詞を、口の中で繰り返しているようだ。
かと思えば急に台本を取り出し、のめりこむようにしてそこに並ぶ文字を目で追っている。いつもは血の気の薄い頬や首筋が、興奮を示してうっすらと染まっていた。なにか引っ掛かる箇所があったのか、牧野がひとつの台詞を唇の動きだけで繰り返す。何度も何度も、唇が同じ形に動く。飽く様子はまったくなく、浮かされたように何度も何度も。
――こいつはきっと、あっという間に上手くなる。誰も追いつかないくらいの速さで、誰にもできないような演技をするようになるのだろうと、牧野の真剣な顔つきを離れた場所から眺めながら、秦野は打ちのめされるようにして思った。
* * *
秦野の予感は、すぐにそのまま現実となった。
はじめの舞台では一年生の中では一番台詞の多い役を与えられた秦野だったが、その次の新春公演の台本では早くも、配役表の秦野の名前の上に牧野の名があった。
学年が下のうちは特に、それまでの演劇経験が多いものから順にいい役を与えられるのが常なのだから、これは本当に異例のことだった。
配られた台本をざっとめくってみる。長い台詞こそないが牧野の役は出番が多く、十近いシーンで板の上に立っていられるおいしい役だった。引き換えて秦野の役は、その半分ほどしか出番がない。
自分の役を知っても牧野はこれといった感情を面に出さず、早速配られたばかりの台本の文字に没頭している。周囲のざわめきを圧するように、会長の下柳が馬鹿でかい声を出したが、それすら耳に届かないようだった。
「いいか、読み合わせは来週の月曜日から始めるからな! それまでに今渡した台本をしっかり読み込んで、各々自分なりに役を解釈してこい」
よし、それじゃ今日はこれで解散と言われ、渡された台本を荷物の中にしまいこんで、団員たちがぞろぞろとサークル室を出て行く。まだ台本から眼を離さずにいる牧野を横目で眺めながら、秦野は自分も帰ろうと肩に荷物をかけた。
と、はたと夢から醒めたように牧野が顔を上げる。立ち去りかけた秦野を振り返り、聞いてきた。
「秦野。いま会長がなにか言ってたか?」
やはり下柳の話は聞こえていなかったらしい。いったいどういう集中力なんだと呆れながら秦野が返事をする前に、まだサークル室に残っていた下柳と副会長の宮本が、ふたりの会話を聞いて笑い出した。
「牧野、おまえなあ。台本に没頭するのはいいけど、連絡事項くらい聞いとけよ。来週からホン読みを始めるから、しっかりやっとけってこと。以上」
「そうですか。分かりました」
上の空で答え、牧野はすぐまた台本に眼を落とそうとする。その後頭部を、間髪入れず下柳が平手で叩いた。
「先輩に向かって『そうですか』はないだろ。おまえさあ、たとえ一人芝居だって、演じるってのは役者と裏方全員でやる共同作業なんだからな。必要最低限のコミュニケーションくらい取れっての」
叩かれた頭が痛かったのか、いつもに輪をかけて仏頂面になる牧野の髪をがしがしとかき混ぜ、下柳は磊落に笑った。
「まず最初のコミュニケーションは、先輩への礼儀を守るとこからだな。その可愛げのないツラ、少しはなんとかしろよ。おまえには期待してるんだからよ」
まったくだと言いながら、宮本も牧野を軽くこづく。先輩たちから寄ってたかってからかわれ、可愛げどころかどんどん不機嫌そうな顔つきになっていく牧野の姿を、秦野は複雑な気持ちで見ていた。
自分は先輩たちから期待しているなどと言われたことはない。もし自分がこんな無礼な態度をとったら、下柳も宮本もきっと激怒することだろう。
どうして牧野だけがと、子どもじみた悔しさが込み上げてきて、秦野は目立たないように唇の端を噛み締めた。
この場にいることが苦痛で仕方なく、さっさと出て行こうとサークル室の扉に手を掛けたが、一瞬早く、今度は下柳の声に引き止められてしまう。
「おー、待て待て秦野。おまえ今日はこれから暇? バイトとか入ってんのか」
「いえ、特に入ってませんけど……」
「牧野は?」
「俺も別に」
「よし、ならこれから四人で飲みに行くぞっ! やっぱり手っ取り早くコミュニケーションをはかる方法っていったら、飲み会だよなあ」
いきなりの誘いにもやもやした気持ちも吹っ飛び、秦野は「え?」と牧野と顔を見合わせてしまった。普段は表情の少ない男も、珍しく戸惑い顔になっている。だが下柳たちの行動に迷いはなかった。牧野とふたり、首根っこをつかまれるようにして、安さだけが取り柄の大衆居酒屋にそのまま有無を言わさず引きずっていかれる。
これまでもサークル内で何回もコンパをしたし、下柳や宮本と酒の席で話したことだってもちろんある。だがこんな少人数で、じっくりと話すのは初めてだった。
しかも一緒にいるのは牧野だ。何度コンパに参加しても、黙々と酒を飲んでいるだけの、あの寡黙な男だ。
はじめはどうなることかと思ったのだが、下柳も宮本も気さくな男で、秦野はそれほど気負うこともなく、すぐに彼らと打ち解けて話ができるようになった。
牧野もどんどん酒を勧められて話を振られるうちに、言葉数は少ないものの、ぽつぽつといつもよりはしゃべるようになる。
公演に関する話から演劇論、大学の単位の効率のよい取り方、時給のいいバイト先の情報を経て、下柳の実家と牧野の実家、どちらのほうがよりド田舎にあるかで議論が白熱するにいたっては、険しい表情で自分の故郷のほうが絶対に田舎だと主張する牧野の姿があまりに滑稽で、秦野は腹が痛くなるほど大笑いしてしまった。
日付が変わるころ、ようやくお開きになったときには、秦野は今日誘ってもらえてよかったとつくづく思っていた。
無表情で無愛想で、とっつきにくいことこの上ない牧野だが、こちらから積極的に接すれば、わりと普通に応えてくることがわかったからだ。
そういえば新歓コンパのときの態度も素っ気なくはあったが、しつこく話しかける秦野を邪険にしたりはしなかった。
てっきり人嫌いなのかとも思っていたが、そうではなく、どちらかというと不器用すぎるあまりに口の重いタイプなのかもしれない。その独特の個性に加えて圧倒的な才能の違いまで見せつけられ、苦手意識しかなかった牧野のことを少しは好きになれそうな糸口が見つかり、秦野は素直に嬉しいと思った。
――もっとも会計のときだけは、秦野はこの場に連れてこられたことを後悔した。
下柳や宮本は、なんと言っても二学年も上の先輩だ。もしかしたら奢ってくれるのではないかと秦野は密かに期待したのだが、ふたりとも当たり前のような顔で、飲み代をきっちり四で割った金額を請求してきた。酒豪と呼ぶにふさわしい飲みっぷりでほとんどの酒をこのふたりが飲み干し、あまつさえ飲み放題メニューに入っていない高い酒まで注文していたにも関わらずだ。
元が安い店であるため、さすがに目の玉の飛び出るような金額というほどではなかったが、それでも五桁に乗りかけたその金額は、秦野を蒼褪めさせるには十分だった。仕送りの金も尽きかけた、月末近い財布の寂しいこの時期には、かなり手痛い出費だ。
文句もつけず言われたままの金額を払った牧野に倣って、渋々と万札を差し出しながらも、もしかしたら下柳たちは少しでも酒代を安く上げるために、あえて自分たちを伴ったのではないかと、秦野は内心疑った。
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