臆病な恋愛家

 自分の中に他人とは決定的にずれている部分があることに秦野が気づいたのは、高校生の頃のことだ。きっかけは、友人からの何気ない一言だった。
 ――おまえって、ハシ (せん) の授業をいっつも妙に熱心に聞いてるよな。どこがそんなに面白いんだよ。
 聞かれた秦野は首を傾げた。ハシ先とは、橋本という名の化学教師につけられたあだ名だ。
 大学院を卒業してすぐに赴任してきた彼は、教え方の要領がまだつかめないようで、聞いたこともないような専門用語をやたらと使い、意味が分からず戸惑う生徒の様子に気づくこともろくにできない、教師としては欠点の多い人物だった。
 生徒の視線を恐れるように、いつもおどおどと視線をさ迷わせ、声もぼそぼそと小さくて聞き取りづらい。
 もともと理数系が苦手な秦野だ。どれほど真面目に聞いていても橋本の授業は頭を素通りしていくばかりでちっとも身にならず、彼の話を面白いと思ったことは一度もなかった。それでも橋本の授業時間中は不思議と眠くならず、いつも背筋を伸ばしてその声を聞いていられた。
 ――一番前の席で真っ直ぐ背筋伸ばして、あの辛気臭い顔をいつもじっと見てるしさ。おまえが熱心すぎて、ハシ先、かえってやりにくそうだぞ。ちょっと加減してやれよ。
 そう言って、その友人はなんの含みもない顔でからりと笑った。たまたま気づいたことを、ちょっとからかってみただけのことだったのだろう。だが、秦野は彼に調子を合わせて笑うこともできなかった。無意識のうちに自分がしていた行為を指摘され、一瞬呼吸を忘れるほど動揺した。
 黒板も見ず、ノートもろくに取らずに、どうしていつも自分はあの教師の顔を見てしまうのだろう。背が高い以外これといった特色もない、大人しい顔立ちをした橋本の姿を思い出す。どうしてあの姿を眺めているだけで、気持ちが妙にふわふわと浮き立つのか。
 それと意識し始めると、今度は橋本の顔を見ることもできなくなった。その代わり今度は不自然なほど深く顔をうつむけながら、羽織った白衣の袖から突き出た指の長い神経質そうな手に見入ったり、あまり滑舌のよくないくぐもった声を聞くようになった。
 チョークの粉がこびりついた指先を眺めていると、あの指で体に触れられてみたいと、唐突な衝動が湧き上がる。どうして同性の教師に対してこんな衝動を抱くのか分からず、秦野はただひたすら困惑するばかりだった。
 高校生にもなって、未だに好きな女の子のひとりもできないのも、もしかしたらこの異常な衝動が関係していたのではないか。そう思うと、恐ろしくて体が震えた。だから翌年の春、受験生になって学年全体が文理分けされ、文系コースを選んだ秦野の日常から化学の授業がなくなったときは、心底安堵した。
 そしてその一方で、胸が軋むような寂しさを覚えてもいた。週に三時間、必ず眺めることができていたあの長い指も、声も、間近で感じ取ることはもう二度とできないのだ。
 ふいに切なさが押し寄せてきて、目頭がじわっと熱くなったが、涙がこぼれそうになるのを秦野は死ぬ気でこらえた。この感情は、きっとあってはならないものなのだ。そんなもののために、泣いたりなどしてはいけない。
 ――橋本のことなんて好きじゃない。なんとも思っていない。
 自分に嘘を吐いていることは百も承知で、こみ上げてくる嗚咽を震える喉で飲み下しながら、秦野は閉じこもった自分の部屋で何度もそう繰り返した。誰に見られているわけでもないのに、人目を避けるようにベッドの上で小さく縮こまる。
 床には、ひと月ほど前に受けた学年末テストの答案用紙が散らばっていた。
 間々ならない感情に翻弄され、まったく集中できないまま受けた最後の化学のテストは散々な出来で、支離滅裂な解答に遠慮するように朱色で書かれた○×の記号は妙に小さく、頭に書かれた点数も、つい見落としてしまいそうなほど小さな字で書き込まれていた。こんなところにまで、あの化学教師の性格が如実に現れている。
 薄っぺらい紙をじっと眺めていると赤い文字が次第に滲んで見えてきて、秦野は慌てて勢い任せに答案用紙を握りつぶすと、ゴミ箱にそれを放り込んだ。ほとんど音も立てず、丸めた紙がゴミ箱の底に落ちる。次の瞬間にはもうそれを拾い出したい気持ちに駆られたが、秦野はその衝動を胸のうちで殺した。
 一粒の涙も捧げることなく、自分の初恋もゴミのようにして捨ててしまったのだと、そのときの秦野にはまだ認めることすらできなかった。

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