臆病な恋愛家
1
――先ほどから一言も口をきかない隣の男をちらちらと横目で眺めながら、秦野は所在ない思いでビールに口をつけた。が、慣れない苦さに顔をしかめ、すぐにグラスを置いてしまう。掘りごたつ式の机の上は、食い散らかされた料理の皿や酒の瓶で埋め尽くされ、ひどい有様だった。
大学近くにある居酒屋で、入会したばかりの演劇サークルの新歓コンパが始まってから、そろそろ一時間ほどが経つ。
数ヶ月前までは高校生だった秦野が目を疑うような無謀なペースで、序盤から飲み続けているためだろう。早くもみんな酔いが回ってしまったようで、
衝立
で仕切られた座敷席には闇雲な大声とタバコの煙が充満し、周囲の客たちが眉をひそめるほどの賑やかさだった。
そんな中、秦野のすぐ右横に座った男は、騒ぎ立てる周囲をじっと観察するように眺めつつ、ただ黙々と酒を飲み続けていた。秦野と同じく今年の新入生であるその男は、一年浪人したとは聞いたがそれでもまだ未成年であるはずなのに、すでに酒の味には慣れているようで顔色が変わることもない。
なまじ顔立ちが整っているだけに、能面のようにも見える無表情で酒を飲み続ける様は、どこか異様な印象を周囲に与えた。
座っている人たちにいちいち声を掛けてどいてもらわなければ、移動することも困難なほど狭い座敷席だ。
木製の机の片側はぴったりと壁につけられていて、容易には抜け出せない一番奥の袋小路の席に座ってしまった秦野にとって、話し相手は隣に座っているこの眼鏡をかけた能面男しかいないのだが、先ほどからなんとか交流しようと秦野が必死でサインを送っているにも関わらず、男はこちらをろくに顧みようともしない。
せめてテーブルを挟んだ向かいの席に誰か座っていてくれれば話し相手にできたろうに、最初その席に座っていた二年生の先輩はコンパが始まってすぐ同級生が多くいる隣の机にふらふらと立って行ってしまい、そのままそちらに腰を落ち着けたままだ。空いた席にはその後、誰も座っていない。
結局この一時間、秦野がまともに口をきけたのは、会が始まってすぐに新入生全員に課せられた自己紹介のときくらいだった。隣の男もそのとき「牧野秋久」という名前と出身校を口にして、あとは何も言わずさっさと腰を下ろした。素っ気なさすぎる自己紹介と、鉄壁の無表情に隙を見出せなかったのか、誰も突っ込みひとつ入れられなかった。
そのときからなんだか付き合いづらそうな奴だなと内心恐れをなしていたのだが、まさかそれからずっとこんな気まずい時間が続くなんて、思いもよらなかった。
ひょっとしたら二年生の先輩も、牧野の無愛想さにつきあうのが面倒で、さっさと逃亡してしまったのかもしれない。だとしたら非常に賢明な判断だと思う。テンションが上がる一方の酒の席で、沈黙を重ね続ける自分たちふたりは、どう見たって異物だった。
どんな環境も馴染むためにはまず最初が肝心だと思い、今日はそれなりの気合を入れてきたというのに、このまま新歓コンパが終わってしまってはあまりに
験
が悪い。なんとかしなくてはと、秦野は次第に焦りを覚え始めていた。
ふと見ると、牧野のコップが空きかけていた。手近なビール瓶を取り上げて仕草で促してやると、相手は素直にコップを持ち上げる。酒を注ぎ足してやりながら、この難局を打開しようと秦野は必死で話題を探した。
「ええと牧野さ、最近なにか面白い映画とか、舞台とかって見た?」
「別に」
まずは無難な切り口から臨んでみたつもりが無愛想な口調で一刀両断され、秦野は愛想笑いを浮かべた頬をひくりと強張らせた。
「あ、ああそう……。あ、俺おととい『ピース・ブレイカー』を見てきたんだけどさ。ほら、いま渋谷で掛かっているやつ。あれ、結構よかったよ。主演のガラムスの演技が秀逸で、恋人に銃を突きつけるときの表情とか、あれはちょっと真似できないなって。無表情の中の表情っていうの? なんであんな顔できるんだろうって本気で思うよ。……えーと、牧野は誰か好きな俳優とか、憧れている俳優とかっているの?」
「特にいない」
――一生懸命になってべらべらしゃべっている自分が馬鹿みたいに思えるほど、すげない返事だった。
入学早々、演劇サークルなどに入ったからにはこの手の話題には興味があるはずだと考えたのに、食いつく素振りもない。取りつく島が見つからず秦野は途方に暮れた。
映画は見ない。好きな俳優もいない。そんな奴が、なんで今この場にいるのか。入るサークルを間違えているんじゃないかと、半ば本気で疑ってしまう。
いったい何を見ているのか、先ほどからぼんやりとどこか遠くを眺めているような男にどうしようもない話しづらさを覚えながらも、秦野は恐る恐る尋ねてみた。
「あのさあ、牧野ってどうしてこのサークルに入ったの?」
牧野が眉を少しだけ動かした。ビールの入ったコップを片手で揺らしつつしばらく考えているようだったが、答えが見つからなかったのか逆に尋ね返してくる。
「おまえは?」
「お、俺?」
同じようにコップを揺らし、ゆらゆらと揺れる水面を見つめる。なかなか飲み終わらないビールからは、すでに泡が消えかけていた。
「俺は……、高校時代も演劇部に所属してたし、演じることは好きだから大学でも絶対に演劇サークルに入ろうと決めてたし」
「ふうん」
「――牧野も高校時代はやっぱり演劇部だったのか?」
「いや、帰宅部」
「は……」
どこまでも無気力な人間だ。本当になんでこのサークルに入ったんだとつくづく首を捻っていると、牧野がふいに「大声を出したかったんだ」と呟く。それがサークルに入った動機のことだと、数瞬置いてから気づいた。
「何でもいいから、一度思い切り声を出してみたかった。合唱サークルに入ろうかとも思ったが、柄じゃないし」
低い声で訥々としゃべっているのに、これほど騒がしい店内にいても、牧野の言葉は不思議とクリアに耳に届いた。きっと声質自体がいいのだろう。
この声なら合唱サークルに入っても案外重宝されるのではないかと思ったが、しかし確かにこの男がフォーマルな衣装で壇上に直立し、楽譜を手に大勢で歌う姿は、ちょっと想像しにくかった。
「入学式のあと三号館の裏あたりを歩いていたら、このサークルの連中が発声練習をしているところに出くわした。みんな腹から思い切り声を出していて、それが気持ち良さそうに見えて。……だからここに入った」
そう言ってコップを机の上に置き、少しだるそうに壁に背中を預ける。
表情はまったく変わっていなかったが、彼もかなりいいペースで飲み続けていたし、ひょっとしたら酔ったのかもしれない。その視線は、まだ遠くをぼうっとさ迷っていた。
「……牧野って、さっきからなに見てるんだ?」
今、牧野の視線はサークルの仲間を素通りして、カウンター席で疲れ切った顔でつまみをつついている中年のサラリーマンに向けられていた。あのサラリーマンがどうかしたのだろうかと思って尋ねてみると、ぼんやりしていたのか、ちょっと驚いたような顔で「え?」と聞き返される。
「いやだから、さっきからずっとなにを見ているのかなって」
「別に」
また「別に」かとうんざりする。いい加減ここを抜け出して別の席に行こうかと秦野が考えていると、あまり感情のこもらない平板な声が続けた。
「ただなんとなく、色んな人がいるなって。見ていると面白くないか」
「へえ?」
あんなどこにでもいるようなサラリーマンを見て、なにが面白いのかと秦野は内心首を傾げた。それでも牧野につられ、しげしげとその男を眺めてみる。
仕事でなにかミスでもしたのか、くたびれた背広姿の男はがっしりした背中を丸め、カウンターに片肘をついて、ひっきりなしにため息を吐いていた。
特に際立った個性があるわけでもない、冴えない男だった。だが無精ひげの伸びかけた、削げた頬が男っぽくも見え、水底からポコリと浮かび上がる泡のように、秦野は「あ、ちょっといいな」と思う。そしてすぐにそんな自分の心の動きに気づいてゾッとした。慌てて視線を逸らす。
――なにが「ちょっといいな」だ!
こみ上げてきた震えをごまかそうと、ぎゅっと両手を握り締めた。握った両手を口許に引き寄せて、きつく眼を閉ざす。怖いと思った。ふとした瞬間に、身の内から湧き上がってくる衝動が怖くてたまらない。なんで俺はこんな……。
急に身を強張らせた自分に、牧野が怪訝そうな顔をしているのが分かる。その視線から逃げたくて、秦野は必死に顔をそむけた。
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