臆病な恋愛家

prologue

 恋というのは不思議なものだ。
 思いもしなかった感情がいつの間にか、心のどこかにぽつりと灯っていて、気づけば自分の何もかも、行動原理や思考まで左右するほど、大きく育っていたりする。
 例えて言うなら、それは暮れどきの空にいつの間にかぼんやりと浮かんでいる一番星のようなものだ。星はいつも変わらず空の上にあるのに、あたりが闇を深めてからでないと、人はその輝きに気づくことができない。
 違う形もそれこそ星の数ほどあるだろう。だが、少なくとも秦野慎一(はだの・しんいち)にとっては、恋とはそうしたものだった。
 十年以上も前、自分の中のすべての感情を総動員して惚れ抜いた相手への気持ちも、最初はひどくぼんやりした曖昧なもので、だが気づけばその相手の存在は他の何にも代えがたい、かけがえのないものへと変わっていた。
 秦野がその輝きに見惚れ、ただひたすら憧れて見上げているうちに、強い輝きを纏ったその星は、秦野の手の届かないところへと遠く流れて行ってしまったが。
 胸の奥底を焼かれるような、切なくて愛しい記憶は、今も変わらず彼の中に残っている。

* * *

「――いい、これが本当に最後の一杯だからね? 今日はもうこれ以上、あんたに飲ませるお酒はないんだからね」
 しつこく念を押した秦野に面倒くさそうに頷き、カウンターに沿うような細長い造りをしたバーの一番奥まった席にひとり陣取った男は、渡すのを渋る秦野の手から、ウィスキーの水割りが入ったグラスを半ば強引に奪い取った。
 そのままろくに味わいもせず、喉の奥に流し込む。
 学生時代からもう十年越しの付き合いになる男は、昔と変わらぬ仏頂面を顔に貼り付けていたが、その実もうかなり酔いが回ってきているのを、長年の付き合いで秦野は見抜いていた。
(大して強くもないくせに)
 営業中は雰囲気を壊さぬよう光度を落としている店内の照明も、店を閉めた今はなんの遠慮もなく皓々と灯されている。
 白々とした灯りの下で、さして美味くもなさそうに先ほどからずっと酒を飲み続けている男の顔を眺めていると、ついため息がこぼれ落ちそうになった。
 音楽のひとつも掛かっていない静かな店内に今いるのは秦野と、そして目の前に座っている男のふたりだけだ。ふたりいる従業員も三〇分ほど前、閉店作業を終えて早々に帰ってもらった。
 このバー、「SARABA」の開店当初からいてくれる気心の知れたスタッフたちだが、世間に広く顔を知られているくせに人目も憚らず飲んだくれている友人の姿を、あまり見せたくなかったからだ。なにをきっかけに悪い噂が広まって友人の仕事に支障をきたすか、分かったものではない。
 牧野秋久(まきの・あきひさ)という名のこの友人とは、大学時代、演劇サークルで知り合った。秦野は大学の四年間で己の才能に見切りをつけ、役者になる夢を諦めたが、牧野は弱小の学生劇団から上り詰めて、最近ではテレビに映画に舞台にと、様々なジャンルに活躍の場を広げている。
 今や住む世界がまったく異なってしまったふたりだが、苦労を重ねて一年ほど前に秦野が開店したこの小さなバーを、牧野は今も時折訪ねてきてくれていた。新宿の二丁目にあるゲイバーという、有名な役者にとっては色々とリスクの高い場所であるにも関わらずだ。その無防備さを懸念しつつも、変わらぬ付き合いを続けてくれることが嬉しい。
 だから、自分にできる限りのことをして牧野の立場を守ろうと、彼が店に来るたび秦野はひそかに気を張りつめさせているというのに、当の本人はどこまでも無頓着だ。最後の一杯とあれほど念を押したにも関わらず、すぐに酒を飲み干してしまうと、「おかわり」とまたグラスを突き出してきた。その手を秦野は遠慮なく叩き落とす。
「それで最後だって言ったでしょ」
 冷たく言ってやると、不満そうな顔で牧野が眉間に皺を寄せる。その眼鏡越しの瞳は少しうるみ、焦点が曖昧になりかけていた。これが危ない兆候なのだ。こうなると、恐らくあと十分もしないうちに沈没してしまう。
 ソファに座っているから一見平常どおりのように見えるが、もしいま立ち上がろうとしたら、きっと大きく足がふらついて倒れてしまうことだろう。
 飲みたくなる牧野の気持ちは分からなくもない。だが、自業自得だとも思った。
 仏頂面の下で牧野が荒れているのは、彼の家庭が上手くいっていないからだ。加えて結婚前に付き合っていた恋人と別れた際に負った傷が、今頃になって疼きだしているのかもしれない。
 だが十年近く関係を続けた恋人との破局も、結局は牧野自身が招き寄せてしまったものだ。これに関しては、秦野は決して同情することはできないと思っている。
 それでも酔いに潤んだ目を宙にぼんやりとさ迷わせ、現実にはないなにかを求めるように放心している牧野を見ていると、やはりどうしようもなく胸が痛んだ。それと同時に一度は殺したはずの感情まで蘇ってきそうになって、その危うい衝動をこらえるのに苦労する。
 ――この友人に、秦野はかつて恋をしていた。
 発酵して膨らみきった生地をしつこくこね続け、じりじりといつまでも胸の中で焼き焦がしているような、抱え込んでいるばかりでまともな形にもならない、不毛で臆病すぎる片恋だったが、それでもそれは秦野にとってはじめての、本気の恋だった。
 少し気分を変えたくて、秦野はテーブルの隅に寄せておいたシガレットケースから一本取り出し、マッチで火をつける。バージニア葉を主体に秦野が自らの好みでブレンドした 手巻きタバコ(シャグ) は、 (くゆ) らせると、甘さとほろ苦さを含んだ薫り高い味わいを口中にもたらした。
 タバコを吸わない友人に掛からないよう、顔を背けて煙を吐き出しながら、秦野はこの煙の匂いと同じくらい甘くて苦かった、かつての恋に想いを馳せていた。

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