琥珀色【後編】
15
夜になればまだひどく冷たく感じる空気の中を、庄司は覇気なく歩いていた。通りすがりの家の窓にはまだ明かりが皓々と灯っているし、道路沿いを歩けば、車や自転車がひっきりなしに傍らを通り過ぎていく。そこにはたしかに人の気配があるのに、庄司はいまほど自分が「ひとり」であるということを、強く感じたことはなかった。
舞台が終わったあとも、庄司はなかなか劇場を立ち去ることができなかった。動き出す気力すら失われ、舞台の感動を声高に語り合う人たちのなかで、長い時間ただぼうっと佇んでいた。自分がいつ劇場をあとにしたのかも、よく覚えていない。
寒さのせいだけでなく、鼻の奥がツンと痛んだ。鼻をすすりながら、情けないと強く思った。こんな女々しさが、自分のなかにあるなんて知らなかった。決定的な破局を恐れるあまり、撮影現場に乗り込んでいくことも、舞台の上に駆け上がって牧野を無理矢理自分のものにしてしまうこともできない。いっそそのくらい大それたことをしでかしてしまえば、なにか変わることもあるのだろうか。
気づけばもうアパートのすぐ手前だった。申し訳程度に設えられた小さな門を開けて、外階段の一段めに足をかける。その瞬間、いきなり上着のポケットに突っ込んだ指先に震えを感じ取ってギョッとした。マナーモードに設定した携帯が着信しているのだと気づいて携帯を取り出し、サブディスプレイを確認して、庄司は今度こそ心臓が止まりそうな思いを味わう。
瞬く光の中に、着信の表示とともに浮かび上がる「M.A.」の登録名。だれかに見られることを恐れて本名では登録できなかった、牧野からの着信だった。
慌てて携帯のフリップを開く。焦るあまり、操作を誤って咄嗟に電話を切りそうになった。寸前で指を止めることに成功し、冷やりとしながら受信ボタンを押して、携帯を耳に押し当てる。高鳴る鼓動がやかましい。渇いた喉から押し出した声は、かすかに掠れて震えていた。
「――――もしもし」
『……ああ』
返ってきたのは聞き慣れたぶっきらぼうな声。懐かしいその声を聞いて、庄司は自分が無様に泣きだすのではないかと思った。万感の思いとともに吐息する。
「牧野さん……」
アパートの外壁に背中をもたせかけて、緊張のあまり上手く動かない体を支えた。目を深く閉じる。相手の言葉を、ひとつも聞き漏らさないように。
『今日、来てたな』
返ってきた声もまた、少し緊張をはらんでいるようだった。電話の向こう側にある顔は、恐らく硬く強張っていることだろう。
「……気づいていたんですか?」
『開演前に、お前からのカードを読んだから』
「そう、ですか……」
『まさか初日から来るとは思っていなかった』
気づいていたのなら、どうしてこちらを見てくれなかったのかと、問いたかった。しかし怖くて聞くことができない。おまえの顔も見たくなかった。そう言われそうな気がしたからだ。そんな庄司の心を読んだかのように、牧野が無愛想に言葉を続けた。
『やりづらくて仕方がない。見るならもっと穏やかに見ろ』
「……え?」
思い掛けないことを言われて、庄司はきょとんとする。
『ギラギラした目で睨みつけて。客席を見なくたって、おまえが俺を睨みつけているのが分かったぞ。俺が演じているときは、演技を見ろ。板の上で私生活を思い出させるな』
「――だから、ずっと俺のほうを見てくれなかったんですか? 役に集中できなくなるから」
『……』
返事はない。不機嫌そうな沈黙が返ってきただけだ。庄司はアパートの外壁から背を起こした。小さな機体を両手ですがるように握り締めて、必死に呼びかける。
「牧野さん、俺はっ」
謝罪でも弁解でもなんでもいい。なにか言おうとした庄司の言葉を、冷え冷えとした声が遮った。
『大体、今日は仕事はよかったのか?』
「え……?」
『昼も夜もないような忙しい仕事なんだろう。おまえも、いつもずいぶんと遅く帰ってきていたじゃないか。それがあんな早い時間から、舞台なんか見に来ていて大丈夫なのか。それとも今日見に来たのも、仕事の一環だったのか?』
冷たい声。感情を押し殺した声だ。その奥に鋭い棘が潜んでいる。
『なあ、お前はいったいなにが目的で俺に近づいたんだ』
それはきっと、庄司の部屋を訪れなくなってから、牧野がずっと抱きつづけてきた疑問だろう。
『何で仕入れたネタを記事にしない。もうどんなにだって面白おかしく記事が書けるだろう』
今まで庄司を信用しきり、弱みをさらしてきた自分をあざ笑うように、牧野が自虐的なことを言う。咄嗟に庄司は反発して叫んだ。
「そんなことのために、俺はあなたに近づいたんじゃない!!」
『ならどうしてだ?』
問い返してくる牧野の声はあまりにも無感情で、淡々としていた。その投げ出すような語調は、今まで庄司が牧野に向けてきた思いのすべてを疑ってかかるような、そんな非情さを孕んでいて、たまらない気持ちにさせられる。
苛立ちをこらえきれず、庄司は片手をアパートの外壁に叩きつけた。部屋の主は幸い不在なようで、中から人が出てくることはなかった。
「――あなただって、悪いんじゃないですか」
『俺が? どうして』
聞き捨てならないというように、牧野の声がわずかに跳ね上がる。しかし庄司にも言い分はあった。
「あなたが泥酔して道で倒れていたりするから。俺の家に毎日押しかけてきたりするから。みんなあなたからしてきたことじゃないですか! なのに、俺だけを一方的に疑うんですか!?」
悪いのは、本当の職業を隠したまま牧野と付き合っていた自分だ。そう分かっていても、頭から疑ってかかられたことが悔しくて、言葉を止めることができない。自分に何も言わず、何も言わせずに部屋を去ってしまった牧野に対する憤りは、庄司の胸の中に深くわだかまっていて、それが今、一気に噴き出してくる。
庄司の反論に、牧野はあからさまに不愉快そうな声になった。
『……迷惑だったっていうのか?』
牧野を路上で拾ったときのことを、庄司は思い出した。翌日から毎日のように自分の部屋を訪ねてきて、すっかり居着かれてしまったことも。
すべてはっきりと思い出せる。迷惑だったかなんて、答えは決まりきっている。頭に血が昇ったまま、庄司は口走っていた。
「当たり前じゃないですか! 迷惑だったに決まっている。勝手に行き倒れてて、勝手に訪ねてきて、勝手に居着かれて。迷惑ですよ。本当に迷惑だ。どんどん、どんどんあなたのことが好きになって、好きになって……、なのに急に出て行ってしまって。結局俺ばっかり気持ちをもてあまして……っ。こんなに苦しいのに、俺ひとりで、一体どうしろっていうんですか!?」
吐き捨てた語尾が激しく震えた。この苦しさを、少しでも牧野に分かって欲しかった。同じ気持ちになれなんて無茶なことは言わない。ただ、自分がこんなにも苦しい思いでいることを、彼にだけは知っていて欲しかったのだ。
庄司の激情に気圧され、牧野は息を詰めたようだった。わずかな沈黙のあと、まだ硬いままの声が言う。
『……だって、お前は俺をずっと、騙していたじゃないか』
「……っ」
『しかもよりによって、女性週刊誌の記者だって? あいつらはみんなハイエナだって俺は知っている。そんなやつの言葉を、一体どうやって信じろって言うんだ』
長い時間をかけて長谷川と育んだ恋を、破綻させるきっかけとなったその存在を、牧野は決して許していない。そんなことは、庄司にも十分に分かっていた。
だからこそ、牧野と長谷川との破局の原因を知ったあとはそれ以前にも増して、庄司は牧野にだけは自分の職業のことを言えなかったのだ。
『一度罪を犯せば、二度と取り返しがつかないこともある。俺はそのことを知っている……』
自分がしでかした浅はかな行為のツケで、恋人を永遠に失ってしまった男が静かに言う。そこには牧野の何らかの決意が宿っているようで、庄司は呆然と彼に問いかけた。
「――もう駄目なんですか? 俺はもうどうしたって、あなたに許してもらうことができないんですか」
しばらくの沈黙のあと、返された牧野の言葉は、答えともつかない曖昧なものだった。
『俺も人を裏切ったから、裏切られても仕方がないと思う』
自分に言い聞かせるような声音だった。
『許す許さないの問題じゃない』
その言葉とともに、電話が切られた。すぐに掛け直したが繋がらない。それでも着信拒否は解除されているようで、やがて牧野の代わりに留守録の機械音声が応答した。
これが最後かもしれないと思った。牧野に自分の言葉を伝える最後の機会。 それならばどうしても伝えたい言葉が庄司にはある。胸に溜め込んだまま、一度も告げる機会を得られなかった言葉。
「あなたが、好きだ」
録音時間が切れるまで、浮かされるように、庄司は告白の言葉を繰り返した。
「好きだ。好きだ、好きだ……」
気持ちが伝わらなくてもいい。二度と想いを告げる機会が来ないならばこの言葉を一生分、今、彼だけに捧げたいと思った。どんなに陳腐に聞こえてしまってもいい。繰り返した数の分だけ言葉の重みが薄れてしまっても、それでも。体の中に詰まった想いを吐き出さなければ、自分はきっと窒息して死んでしまうだろうと思った。本気で、そんな馬鹿なことを思った。
やがて「メッセージをお預かりしました」というそっけない機械音とともに、通話が断ち切られる。不通を示す単調な音を聞きながら、庄司は天を仰いだ。欠け始めた月がぼんやりと中空に浮かんでいる。夜空に滲む白い光を見上げながら、庄司は誰にも届かない告白をもう一度だけ繰り返した。そっと、自分自身に誓うように。
「――――あなたを、愛している……」
涙が、頬を伝うのを感じた。それを止めることはできなかった。
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