琥珀色【後編】

16

(ああ、今日が最終日か……)
 壁に掛かったカレンダーの日付を確認し、庄司は約二週間続いた牧野の舞台が、今日で千秋楽を迎えることに気づいた。
 できればもう一度観に行きたかったと思いながら、総務部から配給された引越し用のダンボール箱の中に、資料の束を次々に詰め込んでいく。今後の仕事に必要ないと判断したものは、容赦なく傍らのゴミ箱に捨てた。シュレッダーにかけなくてはならない書類は、別に避けておく。
 つい先日庄司は人事異動の辞令を受け取った。半ば以上覚悟していたが、女性週刊誌の編集部からは不要の烙印を押されてしまったようで、新たに異動が決まった先はなんと釣り雑誌の編集部だった。こちらもまったく未知の領域の雑誌だったが、芸能関係の取材と縁が切れるだけでも庄司にとっては嬉しい。牧野に対して長いこと胸に抱えていた罪悪感のようなものも、少しだけ軽くなった気がした。
 あれ以来牧野からは何の連絡もない。必死の思いで留守録に残した言葉にも返事はなく、庄司は落胆はしたものの、決して後悔はしていなかった。携帯をしょっちゅう取り出しては着信の有無をチェックしてしまう癖は相変わらずだったが、あの最後の電話以来、自分のほうから牧野の携帯に電話を掛けることもしていない。
 牧野は、庄司のことを許せないとは言わなかった。ならば牧野の心に整理がついて再び会おうと思ってくれるまで、自分はただ待つしかないと心に決めたからだ。
 荷物をまとめ終わって、何もなくなった机の上を最後に布で綺麗に拭く。こんなに広い机だったのかと、少し驚いた。いつも原稿や資料が山積みになっていて、作業する隙間もないと苛立つことも多かったのに。
 今だけならのびのびと使えそうな机に急に名残惜しさを覚えながら、庄司は一年間馴染んだ自分の席に別れを告げた。明日からは新しい職場が待っている。
 荷物の詰まったダンボール箱を抱えようと屈み込んだとき、真上から皮肉っぽいダミ声が落とされた。
「お引越しの準備は終わりか、庄司」
 見上げると、危険極まりないことに人の頭上でタバコを吸いながら、こちらを見下ろしている堀内がいた。慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「はい。短い間ですが、お世話になりました」
 堀内が何度か頷きながら煙を吐き出した。タバコの先からは、今にも灰がこぼれ落ちそうになっている。灰皿を探してわずかに目をさ迷わせた横顔に向かって、庄司はもう一度丁寧に頭を下げた。
「――それから、いろいろとご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」
 その内容の是非はともかく、堀内が自分の仕事にプライドを持ち、つかんだネタを生かそうと必死だったことはよく分かっている。牧野を守るためにその足を引っ張ってしまったことを悔やむわけではないが、堀内に対してはやはり強い負い目を感じていた。
 頭を下げられた堀内のほうは、拍子抜けしたような顔をみせた。先手を切って謝られてしまったことで、いつものようにしつこく苛め倒すことができなくなってしまったのか、どこか不本意そうに頭をぼりぼりと掻く。
「言っとくがよ。俺は牧野と長谷川のネタをまだ諦めちゃいねえぞ」
「はあ……」
 やっぱりか、と庄司は肩を落とす。げんなりしたその表情に少し鬱憤を晴らしたように唇の端を釣り上げると、堀内は隣の机から灰皿を引き寄せた。灰を落として、再びタバコをくわえる。そしてあさっての方向を見ながら、ぼそりと言った。
「諦めちゃいねえがな。とうとう編集長から直々に、取材のストップを申し渡されちまった。余裕のない編集部の人員を、これ以上勝手に使うなってよ。まったくつまらねえよなぁ。今追い詰めなきゃ、死んじまうネタなのに」
 苛立たしげに唇の端でタバコを揺らす。新たな灰がぼろぼろとこぼれ落ちたが、今度は構う様子もない。美味くもなさそうな顔でひっきりなしにタバコを吸いながら、堀内は庄司をギロリと睨みつけた。
「お前が変な小細工しなけりゃ、きっと今頃誌面を堂々と飾っていたはずのネタなんだ。考えれば腹が立って仕方ねえ。いいか、お前はもう二度とここに戻ってくんじゃねえぞ」
 捨て台詞とともに、堀内は盛大に煙を吐き出した。



 ――アパートに向かう足取りが、少し浮かれているのを庄司は自覚した。
 午後に挨拶に行った新しい編集部は気のいい人間が多いようで、なかなか居心地がよさそうだったし、気がかりだった牧野への取材から堀内がひとまず手を引くことも分かった。明日から新年度という日にこれだけ嬉しいことが重なれば、それは足取りも浮かれるというものだろう。
 きちんとした歓送迎会が四月に予定されているのだが、最後の日だからと帰り際に安西やその他の編集部員たちに誘われ、居酒屋で奢られた酒も大分回ってきているようだった。こんなに気持ちが軽くなるのは、一体いつ以来だろうかと思う。
 腕の時計を見ると、長くなった飲み会のせいで、すでに日付が変わる時刻になっていた。早く寝なければ明日に差し支えるかもしれないと足を速め、ここしばらくは見上げるだけでひどく疲れたような気分になったアパートの階段も軽い足取りで上りきり、廊下の先を見て……、庄司は息を呑んだ。
自分の部屋の前に、膝を抱えて座り込んでいる人影がある。
 声も出せず、ただ信じられない思いで、庄司は一歩一歩ゆっくりとその人影に近づいて行った。気配に気づいた男が顔を上げる。
「牧野さん……」
 真っ直ぐな視線が、庄司を見つめた。最初は無遠慮にさえ思えた、無垢なぐらいにまっすぐなその視線に、心ごと絡め取られるような気がした。体の奥深くから、熱い感情が一気にこみ上げてくる。ゆっくりと膝を折り、目線を合わせて、庄司は震える声で牧野に語りかけた。
「……鍵は、替えていませんよ。捨ててしまったんですか?」
 言いながらそっと手を差し出すと、懐かしい男の手がそれをつかみ取った。春を迎えようとした今、牧野の手は以前のようにひどく冷えてはいない。その暖かさが、庄司には泣きたいほどに嬉しかった。
 問い掛けに牧野はゆるく首を横に振った。そして庄司の腕を引くようにして立ち上がりながら呟く。
「なんとなく、こうして待っていたかったんだ」
 その言葉を聞き終わる前に、堪えきれず庄司は牧野の体を抱きすくめた。彼がこの部屋を立ち去ってから、それほど長い月日が過ぎたわけではない。なのに、自分がどれだけこの存在に飢えていたのかを、その体に触れることで気づかされる。
 頬を熱いものが滑り落ちた。言葉もなく涙を流す庄司に呆れるように、そしていとおしむように、牧野も腕を上げて庄司の背を抱き返してくる。穏やかな微笑が、その口許を彩っていた。
「こうして待っていれば、もう一度最初からやり直せるような気がするだろう」
言いながら、ゆっくりと庄司に体を預ける。
「やり直して……、くれるんですか」
 その優しさが信じられなくて、腕の中の温もりがあまりにもいとおしくて、庄司は抱きしめる腕に力を込めた。こみ上げる嗚咽をこらえ、問い掛ける。
「もう一度最初から、俺とやり直してくれるんですか……?」
腕の中の牧野が、庄司の顔を見上げた。少し考える。そして「まあ、正直なところやり直すつもりなんか、最初はなかったけど」と、血も凍るようなことをさらりと言ってのけた。
「お前が職業を偽っていたことを知ったときは、絶対縁を切ってやると思ったし」
 自分の言葉ひとつでめまぐるしく表情を変える庄司を面白そうに眺め、牧野は腕を伸ばすと、涙で汚れた庄司の頬を上着の袖で無造作に拭った。
「でもまあ、お前は記事にしなかったからな……」
拭い終えた手で、頬を軽く(はた)かれる。
「家のほうのごたごたや、舞台が注目されたせいで、しばらくマスコミがうるさかったし、大体お前自体が信用できなかったし。お前のところの雑誌に俺の名前が一文字でも載ったら、二度と会うものかと思ったりもしたけど」
 思わず庄司は息を詰めた。矢岸らを使って、しぶとく牧野のネタを集めようとしていた堀内を思い、取材にストップをかけてくれたという編集長に、庄司は心の底から感謝した。
「でもようやく舞台も終わったし、少し周りも落ち着いてきたから」
そろそろ会ってやってもいいかと思って、と恩着せがましい口調で笑う。そんな牧野が、庄司には不思議だった。彼はもう恐れないのだろうか。長谷川と別れたときのように、逃げ出したくはならないのだろうか。
「いいんですか……?」
 硬い表情で聞いた庄司を、牧野は怪訝そうに見上げた。
「なにが」
「俺なんかと付き合って、本当にいいんですか? 俺はあなたがたとえ逃げたがったとしても、長谷川さんのように、別れてあげられる自信がありません」
 短い間に、これだけ彼のことを好きになった。この先、これ以上思いが募っていけば、牧野から別れを切り出されでもした時に自分がどんな反応をしてしまうのか、庄司には分からない。思いつめたように聞く庄司に、牧野が呆れたように言う。
「そんな余計な自信は持つな、馬鹿」
 もう一度頬を叩かれた。俺が何の覚悟もなく、もう一度ここへ来たと思うのかと不本意そうに言って、牧野は庄司の目をじっと見詰める。
「もし別れるときは、俺の意思で別れる。もう二度と、俺は他人に振り回されて、道を誤ったりしない」
 暗闇の中でも光を放つような、強い決意を秘めたその瞳を庄司は呆然と見返した。ふと頭の中を、牧野に強くあって欲しいと願った長谷川の言葉が過る。彼の願いは、牧野に通じたのだろうか。目の前の瞳に宿った光の美しさに魅せられながら、庄司は湧き上がってくる喜びとともにそう思う。
「許す許さないの問題じゃない。……ただ、俺は許されていいのかと、ずっと思っていた。だけど」
 牧野が小さく息を吐く。言葉を探すような間が少しあった。
「なあ、変な話だけど、お前に嘘をつかれて裏切られたんだと思ったときに、俺は岳に対して自分がしでかしてしまったことへの代償を、やっと支払えたような気がしたんだ。罪の重さをずっと一生背負っていくことに変わりはないが、ようやくスタートラインに戻ってこれたような、そんな気がした」
 牧野の手が頭の後ろ側に回されたのが分かった。そのまま引き寄せられ、唇に吐息を感じながら、庄司は牧野が自分に囁きかける言葉を聞いた。
「――もう一度ゼロからやり直すとしたら、相手はお前がいいと思ったんだよ」

* * *

 ――石の中に閉じ込められた虫は、やがて自らが見ている夢の世界の不自然さに気づいてもがきだした。永遠に手の届かない、変えられない、眺めているだけの美しい世界。
 これは違う。見えているだけでは意味がない。自分はあれが欲しいのだともがき続け、抗い続け、体に傷を負いながら、虫はようやく自分を包む石を壊し、外の世界に這い出した。
 そうして初めて、固く押しつぶされていた自分の背に、羽が生えていたことを知る。風というものがなんだったのかが初めて分かり、その流れに乗りながら、虫は高く飛び上がった。
 かたくなに、虫を縛り付けていた美しい世界は、もう壊れたけれど。
 新たに知った世界は果てしなく広がり、その羽ばたきが遮られることは、もう二度とない。


―END―

最後までお楽しみいただき、ありがとうございました。
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