琥珀色【後編】

14

 長谷川とはそれから少しだけ話をして、すぐに別れた。去り際、自分が友人の家から出入りしていることはほかの誰にも黙っていて欲しいと厳重に口止めされ、そして最後に「頼むから、あの人をもっとしっかり捕まえておいてくれ」と、冗談めかした口調で付け加えられた。そうでないと、自分までふらついてしまいそうで怖いから、と。
 口調は笑いを含んでいても、長谷川の心境はそう単純なものではないだろう。彼がどんな思いでその言葉を口にしたのか。その重さを噛み締めながら、庄司はただ一度、深く頷くことで長谷川に応えた。
 ……頬を、少し温んだ風が撫ぜていく。風は置き土産に懐かしいような、ほのかに甘く優しい香りを残していった。どこかの家の軒先で、散り遅れの梅の花が咲いているらしい。庄司は目を細めた。
 長谷川邸の張り込みを続けるうちに三月も半ばが近づき、気づけば牧野が出演する舞台の初日はもう目前だった。新聞の片隅や雑誌などでも、舞台の広告なり、インタビュー記事なりを時折見かけるようになる。
 そうした記事の中で見る牧野は、いつも落ち着き払い、ゆとりある素振りだった。取り澄ました顔の写真を見るたびに、庄司は牧野との今ある距離の遠さを思い知らされ、また、自分の知る子どもじみた彼の素顔が幻のようにさえ思えてきて、ひどくやるせない気持ちになるのだった。
 牧野とは結局その後も接触らしい接触を持つことができず、とうとう明日舞台を見に行くという日、庄司は演じる役者たち以上に緊張していた。舞台に立つ牧野は自分に気づいてくれるだろうか。もし気づいてくれたなら、自分は牧野にどんな顔をみせればいいのだろうかと考え始めればきりがなく、結局その夜はほとんど眠れないまま、翌朝を迎えた。
 早くから、庄司はこの日のために休暇届を出していた。いつ仕事が入ってしまうか読めない雑誌の編集などをしているため、念のために取っていた措置だったのだが、結果的にこのことは非常に幸いした。この日が牧野の舞台の初日で、庄司がそのチケットを持っていることを知っている堀内が、なんとしてでも庄司に仕事を押し付けて、観劇に行くのを邪魔してやろうと決めていたようだったからだ。編集長がとっくに庄司の休暇届を受理していたことを知った堀内は、地団太を踏んで悔しがったらしい。
 その日庄司は、まだずいぶん日が高いうちに家を出た。舞台が始まるのは夕方ごろだが、家でじっとしていても焦れるばかりで、落ち着けないだろうことが分かりきっていたからだ。それならば人の中に出て、少しでも気を紛らわしたほうがいい。
 途中の駅で降りて店をぶらぶらしたり、食事をとったりしてから、頃合を見て劇場の最寄り駅へと向かう。降り立ったその駅の階段下に、駅舎の一部を使った小さな花屋があるのに、庄司はふと目を留めた。
 店のガラス戸の前にいくつも並べられた、切り花の差し込まれたバケツや生花が植わった鉢。色鮮やかなそれらを見て、もしかしたら舞台上の牧野に渡す機会があるかもしれないと、庄司は小さな花束を作ってもらうことにした。
 大きな劇場の近くにある花屋だから、普段から舞台に立つ役者への花束を注文してくる客が多いのだろう。手際よく花ばさみを操りながら、花屋の女主人が牧野の立つ舞台の名を上げて、「これから見に行くの?」と朗らかに尋ねてくる。頷くと、「主演は牧野秋久でしょう。あの子なかなかお芝居が上手よねぇ」などと無邪気に言うものだから、つい苦笑してしまった。
 年配の女性から見れば、三〇をとっくに越した牧野も「あの子」呼ばわりらしい。確かに中身は限りなく子供っぽい人ではあるが……。
「楽しんできてね」と、できあがった綺麗な花束を渡され、庄司は女主人の明るさに励まされたような気持ちになりながら店を出た。ほんの五分ほど歩くと、林立する商業ビルの隙間から、白い円柱を下方から斜めに切り上げたような、シンプルだが特徴的で目立つ姿の劇場が見えてくる。まだ開演時間までには間があったが、あたりにはもうだいぶ人が集まっていた。ダフ屋まで出ているようだ。
 劇場を中心に、同心円状に広がる白いタイル敷きの階段を上り、チケットを出してガラス扉を潜る。広々とした、天井の高いロビーに足を踏み入れると、壁際に所狭しと並べられた祝いの花籠や花輪がまず目についた。艶やかな花々は、頭上に吊るされたシャンデリアの光に照らされて、いっそう絢爛と輝いて見えた。
 こんな豪華な花の前ではさすがに見劣りしてしまうかと、庄司が買ってきた自分の花束とつい見比べてしまっていると、その様子を見て、ロビーの入り口で客にパンフレットを配っていた係りの女性が声を掛けてくる。
「あの、失礼ですが、そちらの花束は役者さんに差し上げるものでしょうか?」
 庄司が頷くと、机の向こうからすっと両手を差し出された。
「でしたら、今ここでお預かりいたします。申し訳ございませんが、会場内へのお持込は禁止されておりますので」
「……そうですか」
 最近の風潮からして、直接舞台上の役者に花束を手渡しできる可能性は低いだろうと思ってはいた。こみ上げる落胆を胸のうちに押し止めて、庄司は素直に持っていた花束を差し出す。するとそれを受け取った係員が、代わりのように、机の片隅に置いてあった名刺大の小さな紙製のカードを手渡してきた。怪訝な顔をする庄司に、さらにサインペンを差し出しながら言い添える。
「もし特定の役者さんへのメッセージなどがございましたら、こちらのカードにお書きになってください。お預かりした花束に添えて、役者さんにお渡しいたしますので」
 その言葉に、庄司の胸は俄かに沸き立った。
「メッセージを……?」
「ええ、確かにお渡しいたします」
 にっこりと微笑むと、「どうぞこちらの机でお書きになってください」と係員はロビーの奥に置かれた事務机に庄司を導いて、自分はふたたび持ち場へと戻って行く。
 思いがけない幸運に喜びながら、庄司はペンを片手にしばし考え込んだ。
 このカードが、牧野の手許に直接届く。ずっと弁解のひとつも許されなかったが、別れてからはじめて、自分の言葉を直接牧野に届けることができる。しかし思ったことをなにもかも赤裸々に書くわけにもいかず、庄司は綴るべき言葉に迷って、ペンを持たないほうの手でわずかに髪を掻き乱した。
 きっとこのカードが牧野に渡るまでに、なんらかの人間が眼を通すのだろうと思えば、慎重にならざるを得なかった。せいぜい数行程度しか書き込めそうにない小さなカードを見詰めながら、庄司は悩む。頭の中を牧野に伝えたい言葉がぐるぐると回っていた。混沌としたそれらの中から、慎重に、自分が本当に牧野に伝えたいと思う言葉だけを選び取ろうと必死で考えた。
 しばらく悩んだ末に、ようやくゆっくりとペンを動かし始める。想いを込め、丁寧に、自分の言葉をカードの上に綴った。

「あなたは常に僕の憧れであり、今では僕の中のどんな価値観よりも大切な人です。それだけは永遠に変わりません」

 たったそれだけの文章を、途中で筆を止めながら、何度も何度も考えつつ書き綴り、言い漏らしたことはないか、また誤解を招くような言葉ではないかと、小さな紙片を見詰めながら思案を重ねる。
 文末に「元気で」とか、「頑張って下さい」といったことを書こうかと、一瞬考えた。しかしそんな他人行儀な励ましを、牧野にだけは掛けたくなくて、結局庄司はそのままペンを置いた。
 祈りを込めるように自分の書いた文字をそっと指先でなぞり、そうしてからようやく引き返して、先ほど対応してくれた係員にペンを返し、カードを託す。庄司と同じほどの年頃に見える彼女は、華やかな笑みを浮かべてカードを受け取り、庄司の花束にそれを挟み込んだ。そして背後に据えられたボックスの中にそっと立てかける。
 中に似たような花束がいくつも入っていて、あとでそれぞれの役者ごとに、花とメッセージを渡すことになっているのだと聞かされた。
 彼女に礼を言ってから庄司はロビーを抜け、ざわつく会場内に足を踏み入れた。
 黄色っぽい明かりに照らし出された客席の中から、チケットに記された自分の席番を探し出して腰を下ろす。舞台は五メートルと離れていない距離にあった。この位置ならば、視力のよくない牧野も、庄司の姿を容易に確認できることだろう。庄司を見つけたとき、牧野はどんな反応を示すのだろうか。驚くのか、怒るのか、あるいはいないものとして無視されてしまうのか――…。
 期待と不安に交互に襲われながら、庄司は開演を待った。牧野の姿はまだ見えないが、今もこの同じ建物内にいることだけは間違いない。楽屋に居るのだろうか。あるいはもう舞台の袖にいて、開演の時間を待っているのだろうか。
彼はいつ自分の存在に気づくのだろう。ただ待つしかないもどかしさに感情が荒れ狂う。ただ席に座っているだけのことが、今はひどく苦痛だった。
 じりじりしながら、どれほどの時間が過ぎたのか。きっと実際には大した時間ではなかったのだろう。唐突にブザーが鳴り響いて、ざわついていた客席を静かにさせた。予定時刻ぴったりで頭上の明かりがフッと落ち、緞帳がもどかしいほどの速度で少しずつ上がりはじめる。
 隙間から真っ白い光が現れる。光はだんだんと厚みを増し、やがてその向こうに数人の人間の足と、ベッドの足が見え始めた。緞帳がすべて巻き上げられる。立っている人間のうちの一人は白衣を纏っていた。医師のようだ。その男がベッドに横たわった患者を診察して、「もう一生目覚めることはないでしょう」と、周囲を取り囲む男女に厳格な声で告げた。
 医者の宣告を聞いて、その場にいるものたちがたちまち醜く言い争い始める。喧騒のなかで、やがて男の心が、眠る体を残してふわりと浮き上がった。
実際には、それは男によく似た人形をベッドの上に身代わりに置いておくことで、男の存在がふたつに分かれたことを表現していたのだが、その体重を感じさせない軽やかな動きに、観客は誰もが一瞬、男の体から本当に人ならざるなにかが分離したかのように感じた。
 男を取り囲む男女は、男の体から今飛び出したものに気づかない。自分の体から離れた男自身も、ベッドに横たわる自分の体を不思議そうにしげしげと眺め、しばらくしてからやっと納得したように、「ああ、俺は死んだのかな」とぽつんと呟いた。
 その男が牧野だった。まだ事態をつかめないというように、茫洋とした様子で周囲を何度も確かめるその姿を、庄司は息を詰めるようにして見守る。定まらない視線が、庄司の頭上も何度も通り過ぎた。そのたびに庄司は痛いほどに緊張し、牧野からなにか自分だけに向けたメッセージを送られるのではないかと期待した。しかし実際には無情な視線は一瞬たりと止まらず、牧野の表情も毛ほども変わることがなかった。
 気づいていないのか、気づいていない振りをしているのか。男の演技はあまりにも自然すぎて、庄司は判別することができず不安に駆られる。
 しばらくぼんやりとあたりを眺めていた男だったが、やがてエゴをむき出しに争う身内たちに憤りを見せ始めた。男の妻は病室に現れず、男の浮気相手である愛人は、自分にも遺産の分け前に預かる権利はあるはずだと、まだ死んでもいない男の体の前で、ヒステリックな声でわめきたてている。
 孤独と不安に耐え切れずに、とうとう男の魂は病院を飛び出した。その姿が奇妙なほど今の自分の心境と重なって、庄司は複雑な気分になる。『誰も自分の存在に気づいてくれない』と嘆きながら、牧野は庄司のほうを見向きもしない。その皮肉さがいっそおかしかった。
 舞台を輝かせ、浮き上がらせるスポットライトが、庄司には牧野と自分とを隔絶する透明な壁のように感じられた。こんなに側にいるのに、五歩も歩けば手が届くというのに、壁で隔てられた先は、立ち入ることの許されない神聖な世界。見ることはできても、その内側に触れることは決してできない別世界がそこにあった。
 想いを語る牧野の手の動き、悲しみを吐き出す唇、揺らめく髪の一筋一筋にさえ、ほんの少し前の自分は触れることができた。その感触のすべてを、今も全身で克明に覚えている。なのに、こうして隔てられてしまえば、全てが夢のように遠く感じる。
 牧野が舞台上にある限り、かつてずっとそれが当たり前だったように、自分はただ彼に憧れ、崇拝する存在でいるしかないことを、庄司は打ちのめされるような思いで理解した。もとより同じ目の高さで語り合うことができる相手ではなかったのかと、演じる牧野の姿を見つめながら、庄司はぼんやりと思う。
 ――ならば自分たちの出会いにはいったいどんな意味があったのだろう。自分は牧野にとって、長谷川の身代わりにもなりえなかったのか。
 問い詰めたくても、相手の存在はあまりにも遠かった。


 初日の舞台は大成功を収めた。
 牧野演じる男が、冷たいと思っていた妻が実は誰よりも自分を理解し、愛してくれていたことに気づき、その愛に感謝しながら息を引き取ると、会場中にすすり泣きが広がった。
 カーテンコールに現れた役者たちには惜しみない拍手が注がれ、演技中とは打って変わった素直な表情で、彼らは互いの健闘を称えあった。その中にはもちろん牧野もいて、より多くの拍手と称賛を受けている。芝居が終わればこちらを振り向いてくれるのではないかと願いを込める庄司を、しかし牧野は今度も顧みはしなかった。
 周りを取り囲むスタッフや役者たちに背中を叩かれ、微笑んでいるその顔が、見知らぬ人のように思える。すべての希望を断ち切る分厚い幕が、心の中に下ろされたような気がした。

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