琥珀色【後編】
13
週刊誌の記者だなどと名乗った庄司のことを長谷川が簡単に信用できないのは当然で、仕方なく庄司は牧野とのこれまでのことを、馴れ初めからできうる限り詳しく話した。たまに長谷川がしてくる質問に答えたりもしたため、結局一時間ほどはかかってしまった打ち明け話を終えて、庄司はふっと一息つく。
もうコップに注ぐのも面倒だと、直接缶のビールで喉を潤していると、長谷川が「なるほどねぇ」と呆れたように呟いた。
「で、そんな話、信じる人がいると思うの?」
長々と話させておいて、仕舞いに告げられたその一言に、庄司は含んでいたビールを吹き出しそうになった。慌ててこらえ、口元を手の甲で押さえながら食って掛かる。
「あ、あんた、今までの話をちゃんと聞いて……っ」
「――と、普通なら言うところだけど、相手があの牧野さんだからね。そんなこともあるかもしれないか」
いかにも牧野のことをよく知っているといわんばかりの口調にムッとして、庄司は眉間に皺を寄せる。そんな庄司の素直さをおかしそうに笑い、しかしすぐに笑いを収めると、長谷川は少し脱力したような気の抜けた様子で、ソファの背もたれに体を預けた。宙を見つめたままぼうっとして動かないので、庄司が「あの」と声を掛けると、我に返ったようにこちらを向く。
「ああ、ごめん。一応君の話は信じるよ。昨年末、彼と俺が会っていたことなんて、ほかの人が知っているわけがないんだから」
ゆっくりと体を起こし、長谷川はすっと背筋を伸ばした。
「それで? 牧野さんは、君が素性を隠していたことを知って、怒って出て行ってしまったわけだ。しかもよりによって、女性週刊誌の編集か。逃げられても当然だよね」
「……」
「俺としては君の自業自得だと思うんだけど、それで君は俺になにを聞きたいんだっけ?」
長谷川の遠慮ない言葉が胸に突き刺さってくる。自業自得と言われても反論のしようがない。だがだからといって、牧野のことを諦めるつもりは毛頭なかった。庄司もまた椅子の上で背筋を正すと、まっすぐ長谷川の目を見返した。
「――牧野さんは、あなたのところにいるんですか」
グラスの縁を指先でなぞりつつ、長谷川が少し首を傾げる。
「その前に聞きたいな。どうしてそんな風に思ったの?」
「……前にこの家に来たとき、あなたが出かけていったあとに、中にまだ人の気配を感じました。あのときこの家の中にいたのは、牧野さんではなかったんですか?」
「ああ、ちょっと前にこの家を外からじっと見ていた男というのは、君か」
合点がいったように頷くと、長谷川はおかしそうに頬を緩めた。
「考えすぎだよ。あのとき中にいたのは、この家の本来の住人だ。俺が出て行ったあと、彼が中に残っていてもなにもおかしくないだろう。ここはそもそも彼の家なんだから」
そしてなにか思い出したように、クッと喉奥で笑う。
「変な男が家の前に立ってじっと中を睨んでいたって、彼が気持ち悪そうにしていたよ。たしかに俺は裏の家に出入りするために、たまにこの家を利用させてもらっているけど、彼は善良な一般人なんだからあまり怯えさせないでくれないかな」
「出入りするため?」
頷くと、長谷川は窓の外に見える広々とした庭を指し、次いでその指先を背後の壁のほうに向かって水平にすっと滑らせた。
「この庭を奥まで進んで行くと裏木戸があって、裏の家、まあ俺がいま住んでいる家だけど。そこの庭と自由に行き来できるようになっ
ている。だから庭を通って行けば、誰にも知られずに裏の家に入ることができるんだよ。マスコミの相手をするのが億劫なときには、とても便利でね」
上げた指先を再び下ろす。ソファの肘掛を二三度指の先で叩きながら、長谷川は苦笑した。
「それにしたって、他人様の家を逢引に利用するほど俺も図々しくない。牧野さんと、この家で会ったことはないよ」
「……っ」
「年が明けてすぐだったか。牧野さんから連絡があって、スタジオの外で落ち合って一度だけ話をした。――いや、その前にスタジオの廊下で一度すれ違ったか。でもそれ以前もそれ以後も、俺は牧野さんとは会っていない」
思わず唇から安堵の吐息がこぼれた。気づかぬうちに、やはりずいぶん緊張していたのだろう。ふっと肩から大きく力が抜ける。それで自分が今までどれだけ、この男の存在を不安に思っていたのか、改めて思い知らされる。
長谷川のところにいるのでなければ、まだなんとかなる。まだ牧野が自分のところに戻ってきてくれる可能性はあるはずだと、心に希望が湧いてくる。
自分の自信のなさが嫌にもなるが、やはり長谷川の存在だけは特別だった。牧野の心を今も占め続ける存在だと思うからこそ、この男のことを気にせずにいることなど到底できない。
そんな庄司の様子を見ながらなにを思うのか、長谷川はしばらく黙り込み、やがて暗闇に包まれた庭に視線をさ迷わせながら、静かに言った。
「……傘を、渡せなかったんだよ」
「?」
「あの人が、先月突然訪ねてきたときに。帰り際に、雪がひどいから傘を貸そうとしたのだけれど、あの人は頑なに拒んで受け取ってくれなかった。あのあと風邪を引いたりしなかったか、ずっと心配で……」
牧野のことを案じて漏らされる長谷川の言葉を、庄司は理解できなかった。彼がすげなく振ったからこそ、牧野は傷心のあまり傘も差さずに庄司のアパートに戻ってきたのではなかったのか。
いぶかりながら虚ろな表情の横顔を眺めていると、誰に向けるでもなく、吐息のようにかすかな声で長谷川が呟く。
「でも、そうだね。あのあと、君があの人を暖めてやったのか……」
その口調はけしてからかいを含むような下卑たものではなく、嫉妬を含んだものでもなく。
ただ言葉の影に切ないほどの情が透けてみえる、ひどく純粋で不思議な口調だった。
その声を聞いて、庄司は長谷川もまた、牧野に想いを残していることを確信した。そしてためらいながらも、聞かずにはいられなかった。
「――何故なんですか」
「なにが」
「どうして、あの人と別れたんですか。忘れることが、できたんですか」
長谷川がようやくこちらを向いた。そして庄司の問いがさもおかしいと言わんばかりに、しのび笑う。
「忘れる? 俺があの人のことを? そんなことができるはずがない」
机上のビールに手を伸ばし、長谷川もまた缶から直接酒を呷った。一呼吸置いてから、挑発するような言葉を吐き出す。
「あの人もだよ。俺のことを、忘れられるわけがない」
「……っ!」
「君も、それくらい分かっているはずだ。君と俺はどこか似ているね。視線の高さが全く同じだ。遠目には、俺とそっくりの体格に見えるんじゃないか?」
庄司は奥歯をかみ締めた。一番言われたくないことを、よりによって長谷川に指摘されたことが、悔しくてしかたなかった。憤る庄司を見てまた少しおかしげに笑い、長谷川はビールの缶を机の上に戻す。軽い音がした。すでに飲み干してしまったらしい。
新たな缶に手をつけようとはせず、長谷川はまたポツリと呟きを落とした。
「でも、もう会わない……」
庄司はハッと息を呑んだ。長谷川の口元には、刻まれたような笑みが浮かんでいる。ブラウン管などでよく見る、いかにも長谷川らしい穏やかなその笑みはあまりにもよくできすぎていて、かえって彼の心のうちを隠すヴェールのようだった。
「あの人を愛することで、俺は傷つけないでいい人を傷つけたし、苦しめた。ひと一人の人生さえも、捻じ曲げてしまった。あの人に会わないでいることはね、俺にできる唯一の償いなんだよ」
いったい誰に対する償いというのだろう。周りの人を傷つけたというのなら、牧野のほうがよほど傷つけたはずだった。牧野自身が、長谷川に対して負ってしまった罪の深さに、あれほど苦しんでいたというのに。
納得できないでいると、長谷川が聞いてくる。
「信じられない?」
沈黙で応えた庄司に、長谷川もまた少し考えるように口を閉ざしたあと、おもむろにスーツのポケットから携帯電話を取り出した。そしていたずらっぽい眼差しを向けてくる。
「なら、証を立てようか。一緒に見ていてくれないかな」
手招きされて庄司は立ち上がり、長谷川の側近くに寄った。斜め上からその手許を覗き込む。いくつかの操作のあと、すぐ液晶画面に牧野の名前が表示された。
二人のかつての親密さを表すように、牧野の名前はアドレス帳の一番最初に登録されていた。この携帯電話を買ったその日に、きっと真っ先に長谷川は、この名前を登録したのだろう。そしておそらく、牧野もまた。もはや慣れてしまった胸の痛みが、性懲りもなく庄司を襲う。
見せつけるつもりなのかと、憎むような気持ちで長谷川を見た。またからかうような表情をしているかと思ったのに、ソファに腰掛けた長谷川は、いまはどこか憂いを含んだまなざしをしていた。
「未練だね。いつまでも、この番号を消せないでいたのは」
画面から目を逸らさずに、長谷川が呟く。
「あの人と、二度と会うまいと思ったのは本当のことだよ。それでももし何かが起こったら、あの人がどうにもならなくて誰かに助けを求めてくるのだとしたら、その相手は自分でありたいとも、思っていたんだ」
心の中でこっそりとね、と付け加えた長谷川は、手のひらの中にすっぽりと収まる黒い機体を見詰めながら、自分をあざ笑うような表情を垣間見せる。そして心の底から搾り出すように、言葉を紡いだ。
「結局俺も……、彼を諦めることは簡単ではなかった」
長谷川の指がゆっくりと動いて、液晶画面に新たな文字が浮かび上がる。そのメッセージをみて、庄司は驚いた。持ち手の指示を求めるそのメッセージに、長谷川は静かに命令を下す。「応」と。
ピーッという高い音とともに、すぐに命令が実行された。画面に『登録されていた情報を一件消去しました』と、そっけない言葉が浮かび上がる。長谷川が自分の携帯から牧野の情報を抹消したのだとわかり、庄司は愕然となった。
自分が見ている前で長谷川がその行為を行ったことに、いったいどんな意味があるのだろうか。分からなくてただ考える庄司に、長谷川は内心を読ませない、不自然なほど物柔らかな表情でどこか挑戦的な言葉を掛けてくる。
「俺からあの人に、俺の番号を携帯から消してくれとは言わないよ。俺はそこまで親切じゃない」
それでももし、と長谷川が続ける。
「もし君があの人に俺の番号を消させることができたなら、きっとそのときこそ君は本当の意味で、あの人の心を手に入れたと言うことができるんだろうね……」
そのあまりにも真っ直ぐな視線に、庄司のほうが耐え切れなくなって面を伏せた。自分が牧野に、長谷川を忘れさせることができるとはとても思えなかった。牧野と会えないでいる時間が長くなるにつれ、庄司の中にあった自信のようなものは、どんどん掻き散らされ、消えていくばかりだ。
「――俺が牧野さんとまたうまくやっていくことができると思うんですか?」
ライバルともいえる男に、こんな泣き言めいたことを言いたくなかった。しかしそれがたとえ叱責でも嘲弄でも、なにかこの先を示す言葉が欲しくて、庄司は喉の奥からかすれた声を絞り出す。
「もう二度と、逢うことさえできないかもしれないのに」
情けない自分の言葉を、笑うこともできない。どうしようもない不安に耐えかねて弱音を吐き出した庄司に、長谷川は励ますでもなく貶めるでもない、静かな口調で淡々と、ただ事実だけを告げるように言った。
「昔のままの彼なら、きっと怯えきって逃げ出してしまうだろうね」
その静かな眼差しは、すでに庄司の上にはない。ここには無いものを見るような、透徹した面持ちで長谷川が漏らした言葉は、その後ずっと、庄司の胸に残って消えなかった。
「でも俺との別れで彼が変わったと、少しでも強くなってくれたんだと、俺自身も信じてみたいんだよ」
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