琥珀色【後編】
12
安西と交代しながら張り込みを続けるうちに、あっという間に一週間が過ぎた。どのように入り口を使い分けているのか知らないが、長谷川は自分の家の玄関からも時折普通に出入りしているようで、その彼の姿がたまに見られる以外にはこれといった出来事はなにもなく、退屈と寒さというふたつの敵との戦いに体力と精神力をすり減らしながら、庄司は車の中から長谷川邸を見詰め続けた。
その日も庄司は早朝から車に乗り込み、全身を毛布でくるみこんで、時が過ぎるままに長谷川邸を見張り続けていた。狭い車内で長時間同じ姿勢でいるために腰がすっかり痛くなり、足もだるくなってきて、体を動かせないストレスが最高潮にまで達したころに、ようやく外側から軽く窓を叩かれる。
合図に応じてパワーウィンドウを下ろすと、そこにはしばらくぶりに顔を見る兼良が立っていた。いささか痩せすぎの感がある姿は変わらないが、一週間前の瀕死の様子に比べれば、ずいぶんまともな顔色に戻ったようだった。
「カネさん! もう体は大丈夫なんですか」
待ち望んでいた瞬間がようやく訪れたことにホッとしながら尋ねると、兼良がこくりと頷く。
「お蔭さまで。ゆっくり休ませてもらったから、ずいぶん良くなったよ」
病院で診てもらったら肺炎を起こしかけているって言われて、容態が落ち着くまでベッドからどうしても出してもらえなくてと参ったよと、笑えないことを笑いながら言い、
「これからは元通り、僕と安西さんとが交代で張りつくから。庄司君には本当に迷惑をかけてしまって、悪かったね」
と、すまなそうに頭を下げられる。本当に大丈夫なんだろうかと危ぶみつつも、持参してきた残りの食料とホッカイロを差し入れて、庄司はずっと陣取っていた席を兼良に譲った。「無理そうだったら、またいつでも連絡をください」と言い置いてから、その場を離れる。そのまま庄司はゆっくりと駅の方向に歩き出した。
しかし一番はじめの角を曲がり、張り込みの車のどれからも見えない位置まで来ると、庄司は急に道筋を変えた。
駅に向かうなら真っ直ぐ行くべきところを、意図を持ってわき道に逸れる。そのままわざと遠回りをし、人目につかなそうな小道を選びながら、相当の時間をかけて長谷川邸の裏側にある、例の家の前の道まで戻ってきた。すでに夕闇が迫ってくる時間帯だが、まだ家には人が戻ってきていないようで、どの窓からも灯りは見えない。
それを確認し、庄司は家の姿を視界に収めることができて、なおかつ人目に触れない小路の陰を選び身を隠した。板塀に背をもたせかけて、そのままただじっと時が過ぎるのを待つ。やがて二時間ほどが経過したとき、遠くから車のエンジン音がかすかに聞こえてきて、庄司は少しだけ顔を出して通りを窺った。
先ほどから何度も当てが外れているため、今度もそうだろうかとあまり期待していなかった庄司の眼が、近づいてくる車の姿を捉えて急に輝きを帯びる。暗闇の向こうに透かし見えたシルバーの車体は、以前庄司がこの場所で見かけたあの車に間違いなかった。逸る鼓動を押さえて、慎重に様子を窺う。
一週間前と同じく、車は長谷川邸の裏側に位置する家の前でゆっくりと停まった。すぐにドアが開き、中から男が降りてくる。長谷川だ。その姿を確認して庄司は静かに物陰を出ると、車内にいる人物と二言三言言葉を交わしている彼に、ゆっくりと近づいていった。会話を終えて、長谷川が車のドアを閉める。滑らかな動きで車が動き出し、もと来た方向に走り去って行った。
車を見送って邸内に入ろうとした長谷川が、近づいてくる庄司の姿に気づいて足を止める。不審そうに眉をひそめてこちらを見ている彼に、庄司は緊張しながら声を掛けた。
「長谷川さんですね」
「……なにか?」
「こういう者ですが」
庄司が出版社名と雑誌名が刷り込まれた名刺を差し出すと、一瞥して、長谷川はうんざりしたような顔つきになった。そして、「別居のことに関しては、何も言うことはないから」と切り捨てるように言って、門の中に入ろうとする。
そんな彼の背に、はっきり聞こえるような声で庄司は言った。
「今日は取材できたんじゃありません。牧野秋久さんのことで、話があるんです」
「……」
わずかに肩を揺らして長谷川が振り返る。牧野の名を出しても、その表情に変化はほとんど窺えない。しかし穏やかな印象を与えるその眼の奥には、先ほどまではなかった冷え冷えとした色が浮かんでいた。抑制された低い声が問い返してくる。
「なんで俺に?」
「――あなたと牧野さんが、以前特別な関係にあったことを知っています。たち性質の悪いマスコミにかき回されて、別れることになったのも」
決定的な事実を告げられても、なお長谷川は表情を動かさず、ただこちらの出方を探るようにまっすぐ庄司の顔を見詰めてくるだけだった。こういうところが牧野にはない強さで、牧野が惚れた強さでもあるのだろうと思い、庄司はかすかな苛立ちを覚える。
「聞きたいことはひとつだけです。牧野さんは、いまあなたのところにいるんですか?」
「悪いけど、なにを言っているんだか分からないな」
やはりピクリとも動かない表情がシラを切ろうとしているように思えて、頭に血が昇った。ただでさえ、このところ思うに任せないことばかりで、どちらかといえば温厚なほうであるはずの庄司にもストレスが溜まっていた。咄嗟に感情に任せて口走る。
「あなたのところにいるのなら、返して下さい。あの人はもう俺のものだ」
挑戦的な言葉に、はじめて長谷川の表情が大きく動いた。驚いたように目を瞬く。
「……君はなにを言っているんだ?」
「俺が、牧野さんの今の恋人だと言っているんです」
率直過ぎる宣戦布告に呆気に取られたように、長谷川が庄司の顔をまじまじと見つめてくる。
庄司はさすがに感情的すぎた自分の言動を恥じて赤面したが、それでもこれだけは譲れないという気持ちで、長谷川を強く睨みつけた。
長谷川がなにか言おうと口を開きかける。しかし改めてここが天下の往来であったことに気づいたのか、少し考えるようにしてから門の内側を示した。
「――こんなところで話すことじゃないようだ。中に入ろうか」
長谷川に導かれて入った家の中は、落ち着いた上品な佇まいだった。玄関の床には一面黒いタイルが敷き詰められ、壁面は柔らかなクリーム色の壁紙で覆われていて、頭上から短い鎖で吊るされたランプの光をやわらかく照らし返している。よほど慣れているようで、長谷川は遠慮もせずに鍵を開け、中に上がりこんだ。
「友人の家だよ。マスコミよけに、たまに避難させてもらっている」
促されて靴を脱ぎ、玄関を上がってすぐのところにある応接間へと通された。八畳ほどの広さのその部屋の真ん中には小さな机が据えられており、その机を挟み込むように二人がけのソファが二つ、向かい合わせに置かれている。
長谷川は片方のソファに腰を下ろすと、庄司に反対側のソファをすすめた。そして落ち着いてから、「さて」とおもむろに話を切り出す。
「さっき、なにかわけの分からないことを言っていたようだけど……」
こめかみを指先で掻き、苦笑しながら言う。
「冗談だよね?」
庄司はムッとした。
「冗談なんかじゃ……」
「じゃあ、なんの目的で俺に話をしに来たの? 取材目的なら、君と牧野さんのことだけで、十分記事になると思うんだけど」
もっともな言い分ともいえるが、当然庄司は反駁した。
「そんなつもりで来たんじゃありません。俺は牧野さんのことを記事にするつもりなんてない」
「だったらますますよく分からないな。週刊誌の記者さんと、牧野さんが何で付き合うことになるの。しかも男同士で。大体なんだって、俺のところにその記者さんが訪ねてきたりするんだい?」
「――いろいろ、あったんです」
「いろいろ、ねえ」
おかしげに首を傾げ、長谷川は少し下がり気味の目尻に笑みを含ませながら、スッと立ち上がった。そのまま応接間を出ていってしまったので、一体どこに行ったのかと庄司がじりじりしながら待っていると、手にグラスをふたつと、ビールの缶を数本抱えてすぐに戻ってくる。
「俺がCM出演させてもらっている商品だ。たくさんあるから、好きなだけ飲んでいいよ」
こんな馬鹿げた話は、アルコールでも入れなきゃとてもできやしないなどと失礼なことを言いながら、長谷川がグラスにビールを注いで手渡してくれる。長谷川は自分の分のビールも注ぐと、それに口をつけながら促してきた。
「とりあえず話を聞かせてもらおうか。どんないろいろがあって、牧野さんと君がつきあっているなんて言うのか。万が一その話を信じられたら、俺も君の質問になんでも答えてあげるよ」
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