琥珀色【後編】

11

 電車を数本乗り継いで、二人は長谷川邸の最寄り駅に降り立った。目的地までそれほど離れていないということなので、駅からは徒歩で向かうことにする。車通りの激しい車道を眼下に駅前の歩道橋をわたり、ひとつ路地に入ると、そこはもう閑静な住宅地だった。
 少し歩いていくと、広い敷地を高い塀で囲った大きな邸宅が、ゆるい坂道沿いにいくつも建ち並んでいる光景に出くわす。それぞれの家の庭に植えられた樹木が枝を張り、道に複雑な影を落としていた。どの枝も今はすっかり葉を落としているが、これが真夏ならば鬱蒼と茂る緑を楽しめたことだろう。
 しかしせわしない足取りでひたすら先を急ぐふたりには、樹に葉がついていようが枯れ落ちていようが、知ったことではなかった。長く続く上り坂に少し息を切らせながら、並んで歩く安西がこちらをちらりと見上げ、尋ねてくる。
「しかしなぁ、お前一体何をしたんだ? デスクをあんなに怒らせて。しまいにゃ飛ばされるぞ」
 半ば呆れまじりの問い掛けに、庄司は沈黙で答えるしかない。
 牧野の取材に関しては、今のところ編集部内でも表立った話題にはされていない。それが特ダネになりそうなネタであればあるほど、ほかのマスコミに嗅ぎつけられ、先にスクープされてしまう危険を避けるために、極力仲間内にも話を広げないように注意されるのだ。だから堀内が執着している牧野に関する取材も、上手くすればこのまま表沙汰にならずに終わるのかもしれない。
 そして、もちろんそうなってくれることが庄司の願いだ。だから安西には何も告げられないまま、ただ苦笑いでごまかす。安西もそこらへんの庄司の苦しい心境を推し量ってか、それ以上は追求しないままケロリと言ってのけた。
「まあでも飛ばされたほうが、お前にはいいかもしれんな。向いてねえよ、お前にこの仕事は」
「安西さん……」
 自分でもあまり向いていないような気は薄々していた。しかしこうもはっきり言われてしまうと、さすがに多少複雑な心境になる。眉尻を下げて情けなさそうな顔になった庄司に追い討ちをかけるように、安西はさらに言った。
「いや、間違いなく向いてない。お前のその高すぎる身長も、良すぎる顔もな。週刊誌の記者は目立っちゃいけねえ。ひたすら気配を消して、取材対象を張り込み続けるのが仕事なんだから」
 なのに庄司は外見だけでそうすることが困難になると、安西は言い切る。
「ただ週刊誌の編集者をやっているだけなら、どんなツラだろうが関係ないがな。うちの編集部では、編集者も記者の真似事をしている。今日みたいに俺たちも取材に加わらなきゃ、雑誌自体が成り立たねえんだから」
 その言葉には、庄司も同意を示して小さく頷いた。
 女性週刊誌の編集部では、取材は全面的に外部の契約記者たちに任されるのが一般的だ。正規の編集者は雑誌の編集作業にのみ専念しているわけだが、庄司たちが属する『週刊マダム』誌だけは若干事情が異なる。他の女性週刊誌編集部ほど予算が潤沢でないため、十分な数の記者を雇いきれないのだ。
 もちろん自社の社員だけではとても手が回りきらないので、外部の記者も大勢雇ってはいるが、正規の編集者も取材に出たり記事を書いたりと、記者やライターの仕事を兼ねて働く。また取材経費も湯水のごとく使えるらしい他誌とは違って、経理部から結構うるさいチェックが入るし、予算も年度ごとにがっちり決められてしまっている。
 しかしそうして出費をできる限り抑えているために、他の女性週刊誌よりも売り上げ部数が数十万部落ちるにも関わらず利益率は常に高水準をマークしているのだから、帳尻は一応合っているといえるだろう。だがその分部員の仕事は、当然他社よりもきつくなってくる。
「編集長が『体力があって、キツイ張り込みにも十分耐えられる若手が欲しい』って、人材に掛け合ってお前を引っ張って来たらしいけど、体力以外の面も考慮すべきだったよな。顔やガタイが目立ちすぎるって難点もデカイが、何より性格がさ、お前週刊誌には向いてねえよ。まともすぎる」
「はあ……」
 自分がこの編集部に配属されたのにそんな裏事情があったとは知らず、機械的に足を動かしながらも庄司は戸惑った。たしかに国立大か有名私大卒の高学歴の者ばかりが採用されるために、同期には頭は良くても体力にはあまり自信がないというものが多く、庄司はその中では抜きん出て体格に優れていた。
「――まあ、お前もそのうちにもっと向いている仕事に回されるさ。入ったばかりの頃は、いろんな部署をたらい回されるのが仕事みたいなもんだからな。これも経験だと思っていっちょ踏ん張れや」
 懐から出したタバコを咥えながら安西が言うのに、神妙に頷く。凍えた空気の中に白い煙がふわっと生まれて、すぐ風に散らされ消えていった。鼻をすすりこみながら、安西が「さみいなあ」とぼやいた。
「張り込み中はもっと寒く感じるけどな。……っと、見えてきたぞ、あれだ」
 ひとつ角を曲がったところでそう言われ、庄司は前方に視線を向けた。数台の車が道沿いに止められたそのすぐ先に、赤茶けたレンガ塀で囲まれた、古びた門構えの洋風邸宅が建っているのが見える。
 だがただでさえ塀が高いのに加え、庭にそびえ立つ樹木に視界を遮られてしまって、外からは白い外壁の二階部分しか望めなかった。
「――ここに、長谷川が暮らしているんですか?」
 固くカーテンが閉ざされ、中の様子がまったく窺えない窓を眺めながら庄司が尋ねると、タバコの火を落としながら安西が「ああ」と頷いてみせた。
「薄暗くて辛気臭い建物だろ? まったく、可愛い嫁さん置いて家を飛び出して、何だってわざわざ男ひとりでこんな家に住もうとするかね。芸能人てやつは分からん」
 呆れたようにこぼす口調に、芸能人云々というよりも長谷川が少し変わったタイプの人間なのではないかと思ったが、黙っておいた。それにたしかにひとりで住むには躊躇われそうな、雰囲気のありすぎる建物だが、隠れ家にするには適していそうだ。そう思いながらも口に出しては別のことを尋ねてみる。
「長谷川は、毎日この家に戻ってくるんですか?」
「いや、飛び飛びだな。都内にいるのが間違いない日でも、家に戻ってこないことはしょっちゅうだし。そんなときどこで過ごしているのか、いまいちつかめないんだよなあ」
 ぼやきつつ、道沿いに止められた何台もの車のうちの一台に近づくと、安西は窓を軽く拳でノックした。
 恐らくこの一帯に止まっている車は、すべてマスコミの張り込み用のものだ。どの車も、ご丁寧に窓にスモークが貼られている。長谷川邸になにか異変があれば、車の陰から一斉にカメラのシャッターが切られるのだろう。
「おーいカネ、生きてるか?」
 安西の声に応じてパワーウィンドウが下げられる。その向こうからシートにくずおれるように座り込んで荒い息を繰り返している、えらく顔色の悪い男が現れた。
「死にそうです〜…。待っていたんですよ、安西さん。うっ、ゲホッ、ゲホゲホッ!」
 膝の上に置いたカメラを抱え込むようにしながら、いきなり兼良が激しく咳き込み出した。驚いて庄司は咄嗟にドアを開けようとしたのだが、素早く安西に押しとどめられる。
「アホっ、風邪が移ったらどうすんだ。兼良の代わりに、お前がこれからしばらくここで張り込みすることになるんだぞ!」
 そうして兼良の咳が収まるのを待ってから、ようやく安西は車のドアを開いた。それでもけっして兼良の至近距離に近づこうとはせず、車の外から声をかける。
「ご苦労さん。俺たちが代わるから、お前はとっとと医者に行け。保険証は持っているな?」
「張り込み時の必需品です……」
「よし。早いとこきっちり治してくれよ。お疲れさん」
 よろよろと車の外に出てきた痩身に労わりの言葉をかけて、安西は兼良を送り出した。張り込み用のこの一台しか車がないので、兼良はここから駅まで歩いていかねばならない。
 ふらつきながら、覚束ない足取りで去っていく背中を見送り、庄司は今更ながらこの仕事の過酷さを思い知らされたような気がした。



 車の中から風邪菌を追い出すためにと、安西の指示でしばらく換気し、それからふたりはダークブルーのライトバンの中に乗り込んだ。
 張り込み中は周辺の目に極力つかないようにと、車のエンジンを切っておくのが鉄則であるため、車内には暖房が入っていない。しかもたった今換気したばかりで、車内の空気はいっそう冷え冷えとしている。いくら寒くても外で体を動かしていればわりと平気なものだが、冷たい空気の中じっとしているのはかなり応えるものだ。
 ぶるっと肩を震わせながらホッカイロはいくつ持ってきたかなと、バッグを探っていると、後部座席に陣取った安西もなにやら荷物をごそごそやり始め、中からノートパソコンを取り出した。早速電源を立ち上げると、庄司の視線に気づいて窓の外を指差す。
「ほら、ちゃんと家のほうを見ていろ。俺はこれが終わったらすぐに戻るから。そのあとは次の交代まで、おまえひとりでここに張り付くことになるんだからな」
 頷きながらも、膝の上にパソコンを置き、窮屈そうにキーを叩いている安西をどうにも見かねてしまい、庄司は後部座席に向かって言ってみた。
「安西さんはもう戻ったらどうですか。ちゃんと見張っていますから」
 道案内を兼ねてここまで安西が一緒についてきてくれたが、このあとはひたすら家を見張るだけの辛いが単調な仕事だ。そう簡単に大きな動きがあるとも思えない以上、庄司ひとりが見張っていればことは足りる。そう思ったのだが、安西は手を止めないまま首を横に振った。
「んー、ぜひお言葉に甘えたいところなんだけどな。なるべく早いうちに記事を書き上げちまいたいんだわ。さっきこれからってところでカネに筆を折られたから、どうもすっきりしなくってよ」
 言いながらタバコの箱を取り出し、逆さにして振って、安西が「あれ?」と首を傾げた。続いて「しょうじー」と間延びした声に呼ばれる。振り向くと、顔の前に片手を立てて拝まれた。
「わりい、タバコが切れちまった。自販機かなんかで適当に買ってきてくれねえかな。その間は俺が代わりに見張ってるからさ」
 ニコチンがないと筆が進まないタイプの人間が編集部にはゴロゴロいるので、庄司は「いいですよ」と気安く請け負った。安西から小銭を受け取り、車を降りる。
「銘柄は?」
「マイルドセブン。よろしくー」
 ひらひらと手を振る安西を車に残し、庄司はとりあえず自販機かコンビニを探して歩き出した。
 ここに来る途中には両方とも見かけなかったので、とりあえず住宅街の奥のほうに向かって歩いて行くことにする。さすが高級住宅地だけあって、どの家の壁にも某セキュリティ会社のステッカーが貼り付けられていることになんとなく感心しながらそぞろ歩いていくと、三分と歩かないうちにタバコの自販機を見つけてしまって、庄司は軽く落胆した。
 どうせこのあと長時間車内に拘束されることになるのだから、できるならもう少し長く外の空気を吸いたかったと思いながら、自販機にコインを落とす。安西愛用の銘柄はすぐに見つかったのだが、あまりタバコが好きでない庄司の視線は、そのすぐ隣に並んだメンソールのパッケージについ吸い寄せられてしまう。タール1mgのボタンを押したい誘惑と戦っていると、そのとき庄司のすぐ後ろをゆっくりと、一台の車が通り過ぎていった。
 住宅街の中を走るにふさわしい丁寧な徐行運転で、その車は庄司のいる位置からほとんど離れていない家の前に停車した。何気なくそちらを見やってから、またすぐに視線を自販機に戻し、まだメンソールに心惹かれながらも、仕方なく普通のマイルドセブンのボタンを押す。取り出し口から落ちてきた箱を取り出し、さて戻ろうかと踵を返しかけ、そして眼にした光景に庄司は仰天して足を止めた。だがすぐに我に返り、すばやく自販機の陰に身を隠す。
 すぐそこにある家の中から長身の人影が出てきて、先ほど停車した車の中に今まさに乗り込もうとしていた。治まらない激しい鼓動に耐えながら慎重にその様子を窺い、車の陰にちらりと見えた姿に確信する。色素の薄い、やわらかそうな髪を目許まで伸ばした穏やかそうな横顔と、引き締まった体躯。あれは長谷川岳だ。間違いない。
 どうしてこんなところにと考えて、車が止まった家が、長谷川邸のちょうど裏手に位置することに気づいた。もしかしたら表からは見えないところでふたつの家が繋がっていて、出入りできるようになっているのかもしれないと、庄司は咄嗟に思考をめぐらした。
 長谷川の姿は、人目をはばかるようにすぐ車内に消えた。
 車が行ってしまってから、庄司はようやく自販機の陰から出て、改めて先ほど長谷川が出てきた家を眺める。この家も周囲の邸宅と同じく塀が高く、木々で視界をさえぎられるために、門前から長谷川邸の姿まで窺うことはできない。
 また、いくらこの家が長谷川邸のすぐ背後に位置しているといっても、外側からは道を大きく迂回しなければたどりつくことができない。おそらくいま長谷川邸を見張っているマスコミたちは誰ひとり、この家の存在に注意を払っていないだろう。
 ……ならばここから誰にも知られず、他人を出入りさせることも可能なのではないか。
 そう気づいた瞬間、ドクリと不安が庄司の喉元にまでせりあがってきた。
 毎日のようにマスコミに周囲を取り囲まれているような長谷川に、牧野が会いに行けるわけがない。そう思い込んでいた自分が、急にひどく間抜けに思えてくる。
 いまは閉ざされているこの門を押し開き、玄関の扉を開いて、牧野がこの邸の中に入ったかもしれない。笑顔とともに長谷川に出迎えられる牧野の姿がまざまざと眼間(まなかい)に浮かび、腹の底がカッと焼けるような、激しい憤りを覚えた。
 じっと、睨むように建物を見上げる。と、そのとき玄関のちょうど真上の位置にある、二階の窓のカーテンがわずかに動いた。その奥にたしかに人の気配を感じて、庄司は息を呑んだ。
 少しだけ開かれたカーテンの隙間から、誰かがこちらを見下ろしている。
(牧野さん……?)
 気配は感じても、布と布の間のわずかな隙間から姿まで捉えることはできない。なんとかもう少しでも見えないかと必死に二階を見上げるうちにカーテンは再びぴったりと閉ざされ、人の気配も消えてしまった。耳を澄ましても、邸内からはなんの音も聞こえてこない。ただ他者を拒むような静寂だけが、建物を包み込んでいる。
 庄司はしばらくその場に佇んでいたが、このままこうしていてもなんの変化もなさそうだとわかると、後ろ髪を引かれながらようやく踵を返した。安西の待つ車に戻ろうとしながら、首だけを後ろに向けて建物の姿をもう一度視界におさめ、そして長谷川を乗せた車が去っていった道の向こうにも、一瞬だけ視線を向ける。
 車に帰り着いてドアを開くと、「遅かったな」と待ちかねたように安西が言ってきた。詫びつつタバコの箱を渡すと、安西はすぐに中から一本取り出し、美味そうに吸い始める。運転席に座り、硬い表情でじっと何か考え込んでいる庄司には、気づく素振りもない。
 庄司もいま自分が目撃したことに関してはおくびにも出さず、ただ黙然と窓の外を見据え続けた。そのとき庄司の胸のうちには、ある決意が芽生えていた。

-Powered by HTML DWARF-