琥珀色【後編】
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結局牧野の取材には、SARABAの取材を引き継いで矢岸と、もうひとりフリーのカメラマンが当てられたようだった。
この仕事だけはもう勘弁して欲しいと矢岸は必死になって頼んだらしいのだが、堀内がそんな泣き言を聞き入れるわけがない。尻を蹴り飛ばされるようにして、ほぼ毎日牧野の取材に出かけて行く矢岸の様子を庄司は常に樹にしていたが、相変わらずめぼしい成果はないようで、今日も今日とて矢岸は堀内に怒鳴られていた。
「だからよお、なんでおまえはただ牧野のケツを追うだけの仕事も、満足にできねえんだよ」
「僕は一生懸命やっていますよ! でも牧野は家には一切帰ってこないし、奥さん子どもが入院してる病院にも見舞いに来ないし、とにかく仕事しているとき以外の足取りがまったくつかめなくって。昨日だって一日中舞台稽古の予定だけのはずだったから、それが終わったらあとをつけるつもりでずーっと、ずーっと稽古場の出入り口に張り込んでいたんですよ!? なのにどこか別のところから抜け出しでもしたのか、結局牧野の姿を見ることすらできなくて。これ以上、もうどうしようもないじゃないですか。僕だってもう限界ですよぉ〜」
涙ぐみながら抗弁する矢岸の両頬を、堀内が思い切りつねり上げる。途端に上がった悲鳴を無視し、鼻がぶつかりそうな位置で堀内は矢岸を頭ごなしにどなりつけた。
「おまえなあ、牧野も同じ人間だぞ!? ワープできるわけでも、空を飛べるわけでもないんだ。ちゃーんと見ていればなぁ、絶対見つかるはずなんだよ!」
そんなあ……、と頬を押さえながら、矢岸はしょぼしょぼと背を丸めてしまう。
「ま、家にも病院にも顔を出していないってんなら、それはそれで記事になるがな。おい、矢岸! この仕事は粘りが肝心なんだからな。とにかく徹底的に牧野に引っ付いて引っ付いて、なにがなんでもスクープをものにしろよ」
堀内にバシンと強く背中を叩かれて、矢岸が疲れ切ったような顔つきで、また取材に出かけて行く。彼らのやりとりをそれとなく見守りながら、どこまでも牧野に喰らいつこうとする堀内の執念に、庄司は苦々しいため息を殺すことができなかった。
このまま牧野が見つからないでいてくれればいい。心底そう願いつつ、一方ではどうしても牧野の行方が気に掛かる。
一体どこへ……、と思いを巡らしていると、ふいに見知った顔の編集部員がばたばたとフロアに駆け込んできた。妻と別居中の長谷川岳を取材しているはずの、安西という名の男だ。
フロアの一番奥にある編集長の席までまっすぐ駆けて行くと、安西は「やっと動きがありましたよ!」と声を弾ませて磯山に報告した。長谷川と、その妻である女優の葉山綾乃との別居問題は、『週刊マダム』誌上でも今もっとも力を入れている記事のひとつであるだけ
に、安西の言葉を聞いて部内に一瞬ざわめきが走る。
「さっき、長谷川の家を葉山綾乃が訪ねてきたんです。長谷川が出迎えて、中で小一時間ばかりなにか話してたようです」
吸っていたタバコを慌てて灰皿で捻り潰すと、磯山も興奮したように机から身を乗り出した。
「葉山が? ちゃんと写真は抑えたか」
「ばっちりですよ。今も兼良が長谷川邸前で張っています」
長谷川と葉山が別居してからもう数ヶ月経つが、こちらもこれといってめぼしい成果がこれまでなかっただけに、些細な動きでも安西は嬉しくて仕方ないらしい。喜色満面といった表情だ。その肩を、ねぎらうように磯山が叩いた。
「よし、よくやった。……しかしそうすると、問題は家の中でなにが話されたかだな。とうとう離婚が決まったのか、このままずるずる行くのか」
思案げに言いながら、安西に指示する。
「とにかく分かっているところまですぐ記事に起こせ。今ならまだ来週号に間に合う。兼良にはそのまま、長谷川邸の前から離れんように伝えとけよ」
「了解」
おどけた仕草で敬礼すると、安西は機嫌よさそうに口笛を吹きながら軽快な足取りで自分の席に戻って行く。その姿を視界に捉えながら、庄司は一縷の希望の光を見た気がした。
(そうか。牧野さんは少なくとも、長谷川の家には行っていないんだ……)
もし牧野が長谷川邸を一度でも訪れていたら、家の周りにずっと張り付いているマスコミたちにその姿を見られなかったはずがない。なのにこれまで長谷川関連の情報で牧野の名を一度も聞かなかったということは、それだけふたりが接触した可能性が低いことを物語っているのではないか。
もちろん会うだけならどこでだって会える。ふたりが関係をやり直す可能性はゼロではない。ゼロではないが……。
無意識のうちに、指先がポケットの携帯電話を探る。習性のように、繋がることのない番号を呼び出しかけたとき、手に持った携帯ではなく机上の電話がいきなり鳴り出して、庄司は目が覚めたように慌てて受話器を取り上げた。
「っはい、週刊マダム編集部です」
『……もしもし、芸能班の兼良です』
しゃがれて聞き取りづらい鼻声が、スピーカーから流れ出してきた。
「あ、お疲れ様です」
兼良は安西と組んで長谷川の取材に当たっているフリーの記者だ。またなにか長谷川関連で動きがあったのだろうかと、緊張して受話器を握り締めた庄司に、鼻をすすりこむ音とともに兼良がかすれ声で言った。
『ずびません、安西さんはいますか……。なんか急に熱が出てきて長く持ちぞうにないんで……、ズビッ! 悪いけど至急張り込みを、交代しでくれるように……、うっ、ゲホゲホゲホッ!』
急にものすごい勢いで兼良が咳き込み始めたので、庄司は驚いた。
「だ、大丈夫ですか!?」
呼びかけても応えがない。ただ荒い喘鳴だけが聞こえてくる電話を急いで保留に切り替えると、庄司は立ち上がって安西に声を掛けた。
「安西さん、カネさんからのお電話、三番です! 何でも取材中に熱が出てきたんで、至急張り込みを代わって欲しいとのことで……」
「なに――!? 俺だって、十一時間ぶりにやっと現場を離れられたところなんだぞ」
愕然としながら、それでも安西は電話を取る。鬼気迫る形相で兼良としばし言葉を交わし、最後には諦めたような顔で「わかった。そっちに着くまであと一時間、なんとか持たせてくれ」と言って受話器を置いた。
重いため息を吐いてガリガリと頭をかきむしると、安西は椅子から立ち上がり、再び編集長の席に向かった。電話の内容はもう聞こえていたようで、磯山も弱ったような顔になっている。
「編集長、兼良がぶっ倒れました。すぐに交代しに行きますが、お願いですから誰かひとりヘルプを付けてください!」
机に両手をついて懇願する安西の迫力に押されながら、磯山が落ち着けというようにその肩を叩く。
「仕方ないな。――おい、今手の空いている奴はいるか!」
部内を見渡して磯山が声を張り上げると、すぐさま堀内が「はい」と手を上げた。てっきり自ら張り込みの交替を志願するのかと思ったが、まったく違った。
「それなら庄司がいいですよ、編集長。ちょうど今ろくな仕事がないようだし」
ろくでもない仕事ばかり押し付けているのは自分なのだがそれは棚に上げ、嫌みたらしく堀内が助言する。実際のところ、今編集部内でこれといった仕事を抱えていないのは庄司だけで、磯山も軽く頷いて言った。
「そうだな。庄司、安西の仕事を手伝ってやれ」
「長谷川……、岳の取材ですか」
思わぬ展開に戸惑いながら確認する。胸の鼓動が一気に早くなるのを感じた。
「そうだ。分かっているだろうが、今は絶対に目が離せん状況だ。安西とふたりがかりで家の前に張り付いて誰か訪ねてこないか、愛人でも囲ってないか、厳重に調べろ。兼良が復帰してくるまで、悪いが頼んだぞ」
「……分かりました」
愛人でもという磯山の言葉に、嫌な汗が手のひらに滲むのを覚えながら頷く。そんな庄司のもとに堀内が寄ってきて、耳元で囁いた。
「おい! もし万一長谷川のところに牧野が来るようなことがあったら、今度こそ絶対逃がすなよ」
ひじで強く小突かれ、曖昧に庄司は首肯した。気のなさそうなその様子に堀内は不満げに鼻を鳴らし、しかしもう庄司に積極的な期待はしていないのか、それ以上はなにも言わずに離れていく。代わりにコートを片手に持った安西が歩み寄ってきた。
「おい庄司、すぐに出かけるぞ。ぼやぼやしてると、カネがくたばっちまう」
急かされて庄司は自分も椅子の背に掛けてあったダウンジャケットを着込むと、とりあえず必要そうなものをかき集めてバッグに放り込んだ。そして五分後には庄司は安西と連れ立って、編集部を後にしていた。
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