琥珀色【後編】
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ツーッ、ツーッと虚しい音を繰り返す携帯を、庄司は力なく閉じた。今日もまた牧野の携帯に電話せずにはいられなかった。庄司には、ほかに牧野に近づくどんな手段もないのだから。
この部屋を牧野が去ってから、もう何日めだろうか。今日あたりはもう三月の舞台の最後の準備に追われて、忙しくしている頃だろうかと考える。牧野は今も当たり前にこの世界に存在しているのに、まともに連絡を取る方法も思いつかない自分が情けなくて、庄司は磨り減るほどに歯を食いしばった。
牧野の自宅が広尾にあることだけは知っているが、詳しい場所は知らない。調べることは容易だが、折り合いの悪い妻が暮らしている家に、そもそも牧野は帰っていないはずだ。
もちろんSARABAにも、当分は自分や矢岸を警戒して現れないだろう。牧野が寝泊りしそうな場所もまったく知らない。毎日自分の部屋に帰って来る牧野を当然のように思って、これまではそんなことさえ聞かなかった。
あとはもう、仕事先に直接押しかけるしか手段はないのかと考えて、庄司は思わず天を仰いだ。女性週刊誌の記者という立場は伊達ではない。その気になりさえすれば、つて伝手をたどって牧野のスケジュールを調べることも可能だ。彼に会うだけなら、たとえ今すぐにだってできるのだ。
しかしそうすることは、自分が週刊誌の記者であることを、声高に触れ回るようなものだった。そんな方法で会いに来た男を、再び牧野が信用してくれることが果たしてあるのだろうか。
庄司にはそれが何よりも怖かった。記者として牧野のもとを訪れれば、牧野も庄司のことを記者として扱うだろう。それは二人の関係に今度こそ決定的な亀裂をもたらすように、庄司には思えてならなかった。
拳を握り締めながら、庄司は暴走しそうになる心を抑え、「焦るな」と必死に自分に言い聞かせた。焦って先走れば、何もかもが終わってしまう。庄司が職業を偽ったのは事実だが、それ以外には何ひとつ嘘をついていないし、牧野に害が及ぶようなことをしたわけでもない。
多分今はじっと動かずにいることが、もっとも明瞭に自分の身の潔白を明かす方法なのだろうと思う。時間が経っても牧野に関する記事が誌面を飾ることがなければ、牧野も庄司が取材目的で近づいたのではないと、自然に分かってくれるはずだ。
それでも、心が焦って仕方ないのは。ただ動かずにいるだけのことがこんなに辛いのは。
牧野の心が、まだ自分のものではないからだ。
庄司は一度も牧野から、告白めいた言葉を聞かされたことはない。庄司から離れても、牧野のほうは何ら心に痛痒を覚えていないかもしれない。庄司がどんなに牧野の不在を辛く思っていたところで、同じ感情を彼にまで求めることはできなかった。
そして自分から離れた牧野が向かうべき場所はどこなのか。それを考えるたび、庄司は不安でどうしようもなくなる。またバー通いをして酔っ払った末に、どこかの男について行くかもしれない。庄司以外の男に、温みと癒しを求めるのかもしれない。そして、もしかしたら……。
――牧野は、もう一度長谷川の許に向かうかもしれない。
その考えが頭を過った途端、ズキリと胸に痛みを覚えた。長谷川は、一度は牧野とよりを戻すことを拒絶した。しかし二度三度と牧野が訪ねて行って過去の裏切りを真摯に謝罪すれば、気持ちが変わることだってあるだろう。
牧野の心の中で、長谷川がどれだけ大きい位置を占めているか、庄司は知っている。そして長谷川とやり直すことができたなら、牧野が自分を必要とすることはおそらくもう二度とないだろうという、絶望的な確信がある。
牧野は、長谷川の身代わりとして自分を必要とした。本物が手に入れば、偽者は惨めに捨て去られるだけだ。
この数ヶ月で得たものは、牧野の体だけだった。そしてわずかな信頼と。
そのふたつともをあっけなく失ってしまった今となっては、庄司は牧野にとっての自分の存在価値を、まったく信じることができなくなっていた。考えれば考えるほど、思考は暗い方向に向かうばかりで、不安と疑念とで気が狂いそうになる。
じりじりとする心を押さえつけ、庄司は財布の中に丁寧にしまい込んだ一枚のチケットを取り出して見詰めた。それはもう来月に迫った、牧野主演の舞台チケットだった。鮮やかな原色に黒字で公演の名称が大きく書かれただけの、シンプルなデザインの薄っぺらい紙片。今の庄司にとっては、これが唯一の救いだった。少なくともこの公演の日には、同じ劇場内で間近に牧野の姿を見ることができる。
チケットの表面に並んだ出演者たちの名前。その一番最初に書かれた人の名前を指先でそっとなぞり、ぼんやりと思考をさ迷わせていると、いきなり後ろから乱暴に肩を叩かれ、驚いて振り返る。
「――牧野の舞台のチケットじゃねえか」
堀内だった。庄司の手の中のチケットを覗き込み、怒りも露に声を荒げる。
「なんだぁ、しかもS席かよ。豪勢なもんだな」
ふんっと、堀内は忌々しげに鼻を鳴らした。
「そういや、お前牧野のファンだったんだよな。すっかり忘れていたぜ。しかもずいぶん熱烈なファンだったようで」
「……」
「お前、それでわざと取材に手ぇ抜きやがったな!?」
責め立ててくる言葉を否定することができず庄司が口をつぐんでいると、その態度によけいに苛立ちを募らせたのか、堀内が手を伸ばしてチケットを奪い取ろうとした。
「親兄弟だって、ネタになるなら記事にしなきゃなんねえのが俺たちの仕事だぞ! ふざけてんじゃねえっ」
「……やめろっ!」
チケットを守ろうとして、庄司は反射的に堀内の手を捻り上げてしまった。「いでででで!」という悲鳴を聞いてハッと我に返り、慌てて手を離す。
「っなんだおまえその態度はっ!!」
激怒して堀内が怒鳴りつけてきたが、庄司も同じくらい頭に血が昇っていた。今はこのチケット一枚が仕事よりもなによりも大切に思えて、それを守りたい一心で堀内を睨みつける。険しい視線がぶつかり合い、ひねられた腕を痛そうにさすりながら、白けたような口調で堀内が言った。
「……あーあ、よーく分かりましたよ。おまえの腑抜けたいい加減な仕事ッぷりはな。新年度になる前に気づけたのが不幸中の幸いだぜ。この間からの怠慢と背信行為は俺が、この俺がっ! しっかりと編集長にも人事にも報告しといてやっからよ。せいぜい楽しみにしておけ!!」
捨て台詞とともに堀内が踵を返しかける。だが、ふとなにかに気を取られたように足を止めると、フロアの片隅に常につけっぱなしの状態で置かれているテレビを見た。つられて庄司も同じ方向に目線を流し、そして息を呑んで思わず身を乗り出す。
『――俳優の牧野秋久さんに、待望の第一子が誕生しました』
はきはきとした女性キャスターのよく通る声が、鼓膜を突き抜けて脳内に飛び込んでくる。
流れているのは朝のワイドショーだった。最近そのテレビ局で放映され、牧野も出演した単発ドラマの映像を背景に、キャスターがもう一度同じ言葉を繰り返す。
『俳優の牧野秋久さんに、待望の第一子が誕生しました。元気な男の子で、予定よりも一ヶ月ほど早い出産でしたが、母子ともに健康であるとのことです。話題の舞台を今春に控えた牧野さん。父親となったことで、今後いっそう深みを増した演技が期待できそうです』
途中で画面がドラマの映像から、牧野がマスコミ各社に送ったというファックスの映像に切り替わる。子どもの誕生を報告しただけの、ワープロ打ちのそっけない文書はおそらく事務所の人間が牧野に代わって作成したもので、牧野本人は関わっていないだろう。不義の子の誕生に、彼がわざわざ喜びの言葉を寄せるとは考えにくい。
年も三〇歳をとうに超し、ベテランの風格さえ漂い始めた牧野に子どもが生まれたというニュースは、客観的に見ればそれほど意外性がなかったようで、部内のほかの人間はテレビにまったく注目していない。牧野に関するニュースはものの二分ほど扱われただけで、ワイドショーもあっという間に別の話題に移ってしまった。
ただ堀内ひとりが興奮したような顔で、「とうとう生まれたか」と爛々と目を輝かせている。
「果たして誰の子どもかな……」
そう独りごちてその場を立ち去りかけ、思い出したようにちらりと庄司を振り返った。
「安心しろ。牧野の取材はもうお前には振らねえよ。俺からは今後一切、お前には仕事を任せんから」
冷たく言い捨てて、すぐさませかせかと編集長の机に向かう。しばらく牧野の周辺取材のために人員を割いて欲しいと直談判し、雑誌に取り上げるには話題性が薄すぎると嫌がられているようだった。
そのやり取りを虚ろに聞きながら、投げられた痛烈な捨て台詞もろくに理解できないまま、庄司はテレビ画面からいつまでも目が離せずにいた。
妻のことを語るとき、常に怒りに満ちていた牧野の瞳を思い出す。妻のいる家は自分の家ではないと言っていた牧野は、今どんな思いでいるのか。そして、いったいどこにいるのか。考えるとどうしようもないほど心がざわつく。
彼の力になることなど望むべくもない今の自分が庄司にはもどかしく、悔しくてならなかった。
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