琥珀色【後編】
8
カチカチカチ……と、携帯のボタンを押す音が、虚しく室内に響く。
今日だけでもう何度牧野へ電話をかけ、メールを送ったかわからない。しかしメールはすべて送信先エラーの表示が出て戻ってきてしまい、電話も一向に繋がってはくれなかった。
庄司の携帯番号を牧野が着信拒否していることはもう疑いようがなかったが、どうしても諦めきれず、何度も何度も連絡を試みては失望することを、庄司は昨晩からずっと繰り返していた。
日はすでに高く上っていたが、忘れ物でも思い出してもう一度、牧野がこっそりとこの部屋に戻ってくる可能性があるかもしれないと考えると、部屋を出ることがどうしてもできない。
もし戻ってきてさえくれれば、その体を腕の中に捕らえてもう二度と離さないのにと、庄司は部屋の扉から目を離せないまま思った。扉には鍵が掛かっている。開けることができるのは、合鍵を持っている牧野だけだった。
寝不足と空腹で体がひどく冷えていたが、そのことに辛さは感じない。感じるような余裕がない。ただ無意味に携帯電話を取り上げては、疲労にかすむ目で何度も何度も着信はないかと確かめていると、不意に手の中の電話が甲高い音を立てて鳴り出した。
驚きのあまり機体を取り落としそうになったのを慌てて持ち直し、受信ボタンを押す。牧野からの連絡かと期待した。しかし庄司がなにか言う前にスピーカーから怒鳴りつけてきた野太い声は、まったく別人のものだった。
『まだ家にいたのか、庄司――!! お前いい加減にしねえと本気でクビにすんぞ、オラ!! 三〇分以内に出社して来い。サボりなんて絶対に許さねえからなっ』
「堀内さん……」
気が抜け、呆然と庄司は呟く。
『おうとも、ありがたいデスク様からのモーニングコールだ。昨日も大事な話の途中で早退しやがって、あまつさえ今日は遅刻かよ。俺の堪忍袋の緒を、いったい何本まとめてブチ切りたいのか知らねえがな。なんでもいいからまずとっとと出て来いっ。でなきゃ俺が直接、解雇通知を持って家まで押しかけてやるからな』
われ鐘のような凄まじい声で罵って、一方的に電話を切られる。携帯を耳に当てたまま、庄司はしばらく虚脱して、動くこともできなかった。
仕事を辞めていればよかったのかと、不意に思った。
牧野に秘密を知られる前に会社を辞めていれば、彼もこの部屋を出て行ったりはしなかったのに。こみ上げてくる激情を奥歯で噛み殺しながら、いまさら悔やんでも仕方のないことを悔やむ。
強い力で小さな機体を握りつぶしそうになり、すんでのところで指の力を緩めて畳の上に携帯を置いた。そしてもう一度、虚ろな視線で部屋の中を眺める。牧野の姿が、今ここに本当にないことを確かめるように。
堀内に区切られた三〇分をはるかに過ぎてから、庄司は惰性のようにして、のろのろと会社に行く支度を整え始めた。いつもの倍もの時間を掛けて服を着替え、髪の毛はぼさぼさのまま、ろくに顔も洗わずに部屋を出る。
これ以上この部屋にひとりでいれば、よけいなことばかり考えてどうにかなってしまいそうだった。それならば出社して、堀内に怒鳴られていたほうがまだましだと思えた。
――結局編集部には正午を大幅に回った時刻に到着した。フロアに一歩足を踏み入れた途端、目ざとく庄司の姿を見つけた堀内が、ヤカンのように頭から湯気を立てて駆け寄ってくる。だが早速怒鳴りつけようと大きく口を開けた堀内は、ようやく現れた庄司があまりにも生気のない顔をし、眼の下には濃いクマまで作ってやつれ果てているのを見て「うっ」と息を呑んでしまった。
「……なんだ、お前体調でも崩したのか? だったらきちんと連絡すれば」
「すみません」
調子が狂ったような顔で言う堀内に静かに頭を下げると、庄司は重い足取りで自分の机に向かった。だが席についても、上着を脱ぐ気力すら湧いてこない。ただ頭を空っぽにしたい一心で、庄司は残っていた写真の返却作業に取り掛かった。
暖かい室内でジャケットを着込んだまま、機械のような無表情で心霊写真を整理し、封筒に詰めていくその異様な姿に、堀内はもちろん他の部員たちも声を掛けることすらできず、薄気味悪そうにしながら遠巻きに眺めている。そんな自分を取り囲むいくつもの視線にも気づかないまま、いったいどうすれば牧野に連絡が取れるのか、そして話をすることができるのかと、作業を続けながら庄司はただ悶々と悩み続けた。
――どうしても諦めることができず、仕事中にも庄司は何度か牧野の携帯に連絡をとってみたが、結局すべての努力が徒労に終わった。昼ごろに出てきたせいもあって時間はあっという間に過ぎ、気づけば終業時間を大きく回っている。
黙々と作業していたせいで、もうしばらくは掛かるだろうと踏んでいた返却作業は一通り片付いた。差し迫った仕事もなく、いつもなら雑用を嬉々として運んでくるはずの堀内も、今日は庄司の妙な迫力に押されたものか、何も言ってはこない。
庄司は使いすぎで充電の切れかけた携帯を嘆息とともにしまうと、帰り支度を整えた。荷物を手にゆっくりと立ち上がろうして足がよろけそうになり、とっさに手近な机に片手をつく。なぜか体に力が入らなかった。どうしてだろうと考えて、そういえば昨日の朝からろくに食事もしていないことにようやく気づく。
あまりに腑抜けた自分に苦笑しながら、なにか食べなければなとぼんやり思った。けれどそれは半ば義務感めいた感情で、面倒だと思う気持ちのほうが強い。
……胸のうちから大事な何かが欠けてしまったようだった。
いったいこれからどうやって牧野に連絡を取り、彼に謝ればいいのか、分からなくて闇雲に考え込みながら庄司はふらつく足をこらえて歩き出す。
牧野が芸能人であるという分かりきったことを、最近の自分が忘れかけていたことに今更気づいた。普通の恋人同士とは違う。謝りたいことがあっても気軽に相手の家を訪ねていけるような、そんな関係ではないのだ。しょせん牧野が部屋を訪ねてくるのを待つだけの、一方的な関係だったのだと思い知らされる。
今日帰ったときに、アパートの部屋に灯りがともっていればいいと、都合よく願う気持ちを抱いてしまうのはどうしようもない。けれどそんなことはありえないということも、庄司は心のどこかで分かってしまっていた。
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