琥珀色【後編】
7
部屋を出るときに散々ためらったせいで、思っていたよりも会社に着くのが遅くなった。これをネタにまたねちねちと堀内にいびられるのかと思うと、胃が痛くなってくる。
ただでさえ、昨日の電話のせいでわけが分からないほど大きな焦燥を抱えてしまっているのにと思いながら、鈍る足を強いて動かして編集部に入りかけたとき、いきなり何ともいえない叫び声が聞こえてきた。「ぎゃあぁ」というか「ぎょえぇ」というか、とにかくそんな感じの音だ。
ぎょっとして室内を覗き込むと、堀内と、その正面に向かい合わせに立つ矢岸の姿がまず目に映った。
気まずげなおどおどした様子で、下ばかり向きながらなにか言い訳らしきことを呟いている矢岸に対し、堀内はそんな言葉も耳に入らない様子で、絶望したように天を仰ぎ、芝居がかった動作で両手で顔を覆って嘆いている。
尋常でないその様子に、各々の机で仕事をしていた部員たちも、あっけに取られた様子でふたりを窺っていた。
近くにアルバイトの女の子がいるのを見つけ、庄司は近づいていって「何かあったの?」と尋ねてみた。だが彼女もなにも知らないらしく、「さあ……」と首をひねるばかりだ。
とそのとき、顔を覆っていた両手をようやく外した堀内が、庄司の姿を捉えた。その途端、「しょうじぃいいい――!!」とものすごい怒声を発して、こちら目掛けて駆けてくる。傍らに立っていた女の子がその迫力に怯え、「きゃっ」と小さな悲鳴を上げて後ろに飛びのいた。
「どうしてくれんだよー、お前のせいだ!!」
勢いのまま庄司の襟首を締め上げ、堀内がいきなり庄司に怒鳴りつけてきた。何のことか分からずに戸惑っていると、物凄い力で引きずられ、編集部の奥にある会議室に無理矢理連れ込まれる。立ち竦んでいた矢岸も「お前も来い!」と堀内に怒鳴りつけられ、慌ててあとを追ってきた。
会議室の扉を乱暴に閉めると、堀内はひとりどっかりと椅子に腰を下ろし、まずは気を落ち着かせようというのか胸ポケットからタバコを取り出した。
ライターで火をつけようとするが、ガス欠を起こしているのかなかなか炎が出ない。よけいに苛立ちを募らせたように「くそっ!」と吐き捨てて、堀内はまだ吸ってもいないタバコを、灰皿の上で捻り潰した。
「おい、矢岸!」
尖った声で名を呼ばれ、庄司の隣に立っていた小男が震え上がった。
「庄司に説明してやれ。昨日SARABAであったことを!!」
SARABAの名を聞いて、庄司は瞠目した。昨日の夜の電話を思い出す。そして秦野からの留守録を聞いてから、急に態度が固くなった牧野のことも。胃がずしんと重くなるような嫌な緊張感を感じながら、庄司は不安な眼差しを矢岸に向けた。
堀内から指名を受けた矢岸は、冬だというのに大量の汗をかいていた。袖口で額を拭い拭い、小声で事態の説明を始める。
「だ、だから、僕はゆうべもちゃんとSARABAへ取材に行ったんですよ。でも牧野はやっぱり姿を現さなくて、そうこうしているうちにホモのサラリーマンが隣に座ってきたりして、とてもシラフじゃ耐えられなくなっちゃってですね……」
そこまでをほとんど息継ぎ無しに喋り、矢岸はシャツの袖でもう一度額の汗を拭う。
「で、飲んでいるうちについ酒量の限界を超えてしまったみたいで……。いや途中から店のマスターが奢りだっていってポン酒なんかを勧めてくるし、またそれがうまい酒で、ついつい量を過ごすうちにいつの間にか……」
意識を失っていたのだと、矢岸は言う。マスターとは店主の秦野のことだろう。そして矢岸は手に持っていた小さなバッグを、ふたりに見えやすいように掲げた。その手がぶるぶると震えている。
「それで、ようやく目が覚めたらマスターが鬼のような形相で僕の前に立っていて、このバッグと、隠していたはずの盗聴器とカメラを
並べられてですね、ものすごいどら銅鑼声で『二度とこの店に来るな、お仲間にもそう伝えておけ!!』って……」
堀内と庄司、ふたり分の険しい視線に見詰められて、矢岸の声はどんどん尻すぼみに掠れていく。庄司はガンガンと騒がしい音が頭の中に響く錯覚に、思わず耳を庇うようにして手を当てた。思考がまとまらない。頭がぐらぐらする。SARABAのママに、矢岸の正体が知られてしまった。そして彼を店に紹介した自分の正体も、必然的に……。
昨夜、牧野あてに掛かってきた電話はそのことを伝えるためのものだったのだと悟り、庄司は小さく呻いた。いったい牧野は、秦野からのメッセージを聞いてなにを思ったのか。彼は庄司になにも問い詰めなかった。なにも、聞いてくれはしなかった。
絶望する庄司の心中など知る由もなく、怒気もあらわに堀内が絡んでくる。
「これで俺のお膳立ては全てオジャン。何もかも水の泡だ! 結局牧野が現れたのはおまえが取材に行った初日だけだった、と」
なあ、庄司ぃ〜と、堀内が引きつった笑みを浮かべ、また胸倉をつかんでくる。
「お前だろ? お前が何かドジ踏んだから、牧野が店にこなくなったんだろ? 大体お前が、初日にもうちょっと実になる取材ができていれば、もうなんぼかマシだったんだ。どうしてくれんだよ、これまでの取材経費、人件費、交通費、その他諸々、全部パーッだぞ! パーッ!!」
パーッと言いながら、堀内が両手を広げて嘆く。その声もすでに耳に入らず、庄司はポケットにしまった携帯電話を指先でまさぐった。
――今、きちんと説明をすれば、あの人は分かってくれるだろうか。自分を、信じてくれるだろうか。
今朝部屋を出るとき、最後に見た牧野の背中を思い出す。自分を拒むようだったあの背中を。
嫌な予感が襲ってきて、体がゾッと冷える。まだなにか言っている堀内の手を無理矢理振りほどき、庄司は身を翻した。
「すみません。急用を思い出しましたので、失礼します」
「はあ!?」
呆気に取られている堀内を放って会議室を飛び出す。荷物もジャケットも机に置き去りにしたまま、庄司はフロアを駆け出した。その背中を、我に返った堀内の怒声が追いかけてくる。
「ふ、ふざけんな庄司――! てめえ、マジでクビになりたいのか、このご時勢に!!」
電車が駅に着くまで、あまりのもどかしさに気が狂いそうだった。牧野の携帯に連絡を取ろうと何度も試みるのだが、一向に繋がってくれない。それがより一層不安を煽った。
ようやくいつもの駅に着くと電車を飛び降り、昼どきで混み合う駅前の雑踏を掻き分けるようにしながら、庄司は自分のアパートを目指して一直線に道を駆け抜けた。
まだ間に合うかもしれないと呪文のように願う。あと一歩、もう一歩早く帰り着くことができれば、今にも部屋を出ようとしている牧野に追いついて、話をすることができるかもしれない。早く、少しでも早く戻らなければ。
激しい呼吸に喉が焼けるようだった。汗をかいているのに、緊張のためか手足はやけに冷えている。無我夢中で駆け続けて、庄司はようやくアパートの前にたどり着いた。学生や独身のサラリーマンばかりが入居している建物には、この時間には人気がまるでない。
その静けさにさえ怯えながら、庄司は階段を一気に駆け上がり、部屋の扉に手を掛けた。鍵が掛かっている。焦りでうまく動かない手に苛立ちながら、財布に入れてある部屋の鍵を取り出し、乱暴に鍵穴に差し込んだ。焦るあまり開いた財布の中から数枚の小銭が床に落ちたが、高い音を立てたそれらを拾うことすら思いつかず、庄司は壊さんばかりの勢いで扉を開けた。
部屋の中には誰の姿もなかった。まだ呼吸が整わないまま庄司は靴を脱ぎ捨てて室内に上がろうとしたが、ふと足元に違和感を感じてその場に立ちすくんでしまう。
牧野がこの部屋に持ち込んできたたくさんの靴。いつでも二三足は置きっ放しにされていて、狭い玄関にこんなに置かれてしまっては困ると庄司が何度注意しようがお構いなしだった。
その靴が一足も見当たらない。残っているのは、庄司自身の靴だけだ。
ざっと血の気が引くのを覚えながら、部屋の中を見回す。
牧野が二回めにこの部屋に泊まったときから部屋の隅にずっと置きっぱなしだった、着替えを詰め込んだ大きなバッグが姿を消しているのがすぐに分かった。
それだけでなく読みかけのままラックの足元に伏せられていたはずの本も、一昨日の晩チェックしたあと、畳の上に放り出されていたはずの牧野の仕事関係のDVDも、今朝までは当たり前にあったはずの牧野の私物のすべてが、姿を消していた。
残っているのは、元からあった庄司の物だけ。いっそ残酷なまでに、部屋の中は牧野と出会う前の状態に戻されてしまっていた。
よほど急いだのだろうか。片付け方は荒っぽくてよく見れば端々に名残は残っていたが、この部屋から去ろうとした牧野の意思だけははっきりと伝わってくる。掃除は嫌いだったはずなのにと、空白になってしまった頭の片隅で庄司はぼんやりと思った。
日の光が明るく差し込む窓際に、なぜか布団がシーツを剥がした状態で延べられていた。これで布団を干したつもりだろうか。外に干してしまえば部屋の主が戻るだろう時間まで取り込まれることがないことを、懸念したのだろうか。
部屋の中は、まだわずかに人の熱が残って暖かいようだった。その熱を感じながら、あとどれだけ早く戻ってくれば自分は間に合ったのだろうかと、ただ呆然と、庄司はそんなことばかりを考えていた。
その夜、牧野は結局帰ってこなかった。庄司は一睡もできないまま、太陽の匂いのこもる布団の上で、まんじりともせず夜明けを迎えた。
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