琥珀色【後編】
6
明かりの落とされた部屋の中で、ブブブ……、という振動音が低く響いた。延べられた布団のすぐ近くから聞こえてきたその音に反応して、ぴったりと重なり合っていたふたりは、同時に動きを止める。
「電話が……」
布団に膝をつき、うつ伏せになって庄司を身の内に受け入れていた牧野が、官能に潤む瞳を瞬かせてぼんやりと言った。己の携帯電話に伸ばされたその手を、庄司は背後からそっと押し留めた。
「……あとにしてください」
汗ばんだ首筋に口付け、こんな状況の中で電話に出ようとした牧野を咎めるように、一層強く腰を動かす。
「あっ」
突然激しく突かれ、牧野が息を呑んで身悶えた。しかし繰り返される律動によって身の内から悦楽を引きずり出されるに従い、次第に庄司を求めて無意識に腰を動かし始める。荒い呼吸に紛れ、振動する携帯の音ももうふたりの耳に届かない。
辛抱強く主を呼び出していた機体はいつしか動きを止め、ただ着信を示すランプだけが暗闇の中、いつまでも規則的に明滅していた。
――いつになく激しかった情事が終わると、ふたりはゆるく肩を喘がせながら、しばらく快楽の余韻を味わった。呼吸が落ち着いてから庄司はゆっくり立ち上がり、部屋の明かりをつけて、まだ動けないでいる牧野の身仕舞いを整えてやる。
タオルを取りに行こうとして、庄司はふと視界の端に光るものを見つけ、手を伸ばした。布団の脇に置かれた牧野の携帯電話を拾い上げる。点滅しているランプを見て、そういえばと、情事の最中に着信があったことを思い出した。
「牧野さん、携帯。着信してますよ。急ぎの用事かもしれないし、チェックしておいたほうがいいんじゃないですか?」
さっき出ようとしたとき強引に自分の意識を逸らしたやつは誰だと、牧野が少し怒りのこもった眼差しを向けてくる。言い訳のしようがなくて庄司は苦笑いでごまかすと、だるそうな彼の上体を抱き起こして自分にもたれ掛からせるような形で支え、その片手に携帯を握らせてやった。
半分眠りかけていた牧野は、裸の胸に頭を預けながら面倒くさそうに着信履歴をチェックし、現れた表示を見て小さく呟いた。
「ママからだ……」
「えっ!?」
いい年をした男が口にするにはあまりふさわしくない呼称に、庄司はギョッとする。すぐに気づいて、牧野が不機嫌そうに言葉を足した。
「馬鹿、俺の母親のことじゃない。SARABAのママだ」 一瞬頭をよぎった「牧野マザコン疑惑」を否定され、庄司はホッと胸を撫で下ろした。
「ああ、なるほど。でも携帯の番号を知っているほど親しかったんですか?」
「劇団の同期だったんだ。俺の事情を色々知っていて、気を遣ってくれている」
そういうわけかと、庄司は納得して頷いた。これといった特徴もない小さなバーに、牧野が通いつめていたわけがようやく分かった。
そんな庄司をよそに残されたメッセージを聞こうと、牧野が携帯を片耳に当てる。詳しい話の内容までは聞き取れなかったが相手はよほど焦っていたようで、早口にまくし立てる声が庄司にまで聞こえてきた。
(……悪いことしたかな)
もしかしたら大事な用事だったのかもしれない。自分の欲望に任せて牧野を電話に出させなかったことをわずかに後悔していると、腕の中に囲い込んだ体が徐々に強張っていくのが分かった。厳しい表情になり、留守録が終わっても動こうとしない牧野に、庄司は不安を覚えて首を傾げた。
「そんなに急ぎの用事だったんですか?」
尋ねた瞬間、牧野の肩が大きく震えた。過敏な反応に驚く。問いには答えず、携帯を握り締めたまま、牧野がゆっくりと頭を巡らせた。先ほどまでは快楽に酔ったように潤んでいた瞳が、今はなんらかの強い緊張を孕んで揺れている。本当にいったい何事があったのかと庄司も緊張して、牧野の体に回していた腕に力を込めた。
「牧野さん?」
「庄司、お前……」
なにごとか問いかけようとして、だが口に出すべき言葉を選びかねたように、牧野はすぐ唇を結んでしまう。口ごもったままじわじわと視線を伏せ、密着している互いの体にふと気づいて、そのことを嫌がるように力の入らない腕で庄司の胸を押した。
わずかな隙間ができて、汗ばむほど熱かった肌がすっと冷えていく。そしてようやく牧野が口に出した問いに、庄司もまた体を強張らせた。
「お前は……、なんの仕事をしてたんだっけ」
「え……」
その話は先日もしたばかりだ。なのになぜ今またその問いが牧野の口から繰り返されるのか。疑問に思いながらもほかに答えようがなく、これまでと同じ言葉を、ぎごちない口調で庄司は繰り返した。
「本を、作っているんです。辞書とか、参考書とか」
そう言いながらも牧野の携帯に残された留守電の内容が無性に気になった。いったい秦野は、牧野になにを伝えたのか。この牧野の硬い態度の原因はなんなのか。
もっとなにか追求されるかと思ったが、牧野は「そうか」と短く呟き、庄司の曖昧な答えに素直に頷いた。そして顔を背けながら布団の中に潜り込む。
「灯かりを消してくれ」
背中を向けたまま、牧野が小さな声で言う。彼が今どんな表情をしているのか察することすらできなくて、庄司はしばらく動けずに、その無言の背をただ見詰めていた。
翌朝は、仕事が昼からだという牧野を残し、庄司が先に部屋を出た。
昨夜の一件が心に掛かって仕方なく出かけるのを躊躇っていると、昨日の緊張感を忘れたような何でもない顔で、牧野が「どうかしたのか?」と聞いてきたりする。
そのあまりにも自然な態度に、むやみに不安を感じている自分のほうがおかしいような気になってきて、庄司は小さく首を振った。靴を履きながら、何気なく部屋の中を振り返る。
いつの間にか、すっかり牧野の匂いが染み付いた部屋だ。
彼が持ち込んだコーヒーメーカーがキッチンの隅で強い存在感を放ち、はじめの頃はバックの中にすべてひとつにまとめられていた牧野の衣類や私物も、今では部屋のそこここにきちんと収納されて、馴染んでいる。
この部屋は自分だけの部屋ではない。自分と牧野の、ふたりの部屋だ。室内をぐるりと眺め回し、そのことを確認して少し安心してから、ようやく庄司は足を踏み出した。
なぜだかひどく乾く喉で「行ってきます」と声を掛けたが、かすれた声が届かなかったのかこちらに背を向けている牧野からは返事がなく、そのことに庄司はまたひとつ、小さな不安を胸に抱いた。
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