琥珀色【後編】

 矢岸亮輔りょうすけは荒れていた。
 不本意にもすっかり馴染みになってしまったバーのカウンター席に陣取って、一人黙々とグラスをあおる。
 飲んでいるのがビールだけで、強い酒に手を伸ばしていない点だけは、矢岸にもまだ辛うじて理性のかけらが残っていることを示していたが、なにしろその量が尋常ではない。一人で飲んでいるというのに、すでに瓶を三本ほど空けている。
「……どいつもこいつも、僕にばかり面倒を押し付けて。何で僕が身代わりにならなくちゃいけないんだ。理不尽だ」
 ぶつぶつ言いながらも、視線をちらちらと店の出入り口に向ける。あそこから待ち望んでいる男が入ってきてくれさえすれば、すぐにもこの苦行から解放されるのに。
 膝の上に置いた、小型のハンドバックの脇の部分をそっと指先で確認した。指先に触れる冷たいガラスの感触。これを使えば、誰にも気づかれることなく、スクープを物にすることができる。それなのに、肝心のターゲットはいつまでたっても姿を現さないままだ。
 あてどなく待つということは、意外に精神を疲弊させる。ましてここは矢岸にとって尋常な場所ではない。ついこぼれそうになるため息をごまかすため、手酌でビールを注ぎ足していると、隣からごつい手が伸びてきて瓶を奪い取られた。そのまま頼んでもいないのに酌をされる。
「亮ちゃん、今日はずいぶんお酒を過ごしているね。そんなに飲んで大丈夫かい? ああでも白い頬がほんのりと酔いに染まって、今日はいつも以上に可愛く見えるな」
 耳元に低い声とタバコくさい息をかけられ、矢岸は顔を引きつらせた。酔いに染まるどころか、ザッと血の気が引いていく。
 許可を取ることもなく隣の席に座ってきたのは、吉永という名の中年男だった。いったい矢岸の何が気に入ったのか、ここ数日、この店で顔を合わせるたびに近寄ってきては、熱烈なアプローチをかけてくる。
「今日は遅くなってごめんね。亮ちゃんが待っていると思ったから、これでも急いで会社帰りに駆けつけたんだよ。おかげで冬なのにすっかり汗をかいちゃって。あ、ママ、お絞りちょうだい」
 べらべらと一方的にしゃべりかけながら、吉永がカウンターの中に向かって手を上げた。三十半ばと思しき店長の秦野が、「はーい」と愛想よく応えてこちらを振り向く。そして当たり前のように矢岸の隣の席に陣取っている吉永の姿を見つけると、呆れたように嘆息した。
「吉永さんたら、もうすっかり矢岸さんにお熱ね。庄司君が来ていたときは、あんなに一生懸命口説いていたくせに」
 広げた熱いお絞りを手渡すついでに、秦野から軽く咎められた吉永は、呵々かかと笑ってみせた。
「それは庄司君は可愛かったけどね。あれだけルックスがいいと、さすがの僕にも高嶺の花よ。それより僕は、亮ちゃんみたいに優しそうで、ふっくらしたタイプといるとすごく気持ちが落ち着くんだ。僕にはこういうタイプの方が合っているみたい」
 勝手に相性を診断しないでくれと、当の本人が心の中で叫んでいるのも知らず、吉永が愛しそうに矢岸を見つめてくる。その眼が結構本気なようで恐ろしい。
 矢岸はこみ上げてくる悪寒を堪える術を知らず、必死にその眼差しを無視して酒をあおりながら、結果的に自分をこの窮地に追い込むことになった庄司をひたすら恨んだ。
 あっという間にグラスが空になり、更にビールを注ぎ足そうとする。その手を吉永が止めた。
「もうビールはいいでしょ。そろそろウィスキーにしない? 僕におごらせてよ」
 そう言うと、返事を待たずに吉永が「グレンフェヴィック」と注文する。断りたかったが、生来の気の弱さがたたってろくに言葉を発することもできないうちに、丸っこい手に強引にウィスキーのグラスを握らされてしまった。
「……乾杯」
 低い声でムーディに言われたって、胃の中に無理矢理詰め込んだビールが逆流しそうになるだけだ。ヤケになって矢岸はウィスキーの水割りを勢いよくあおった。
 これで酒量の限界を完全に超したなと頭の片隅で思ったが、歯止めなど効くはずも無かった。



「――だからねぇ、ひどいもんなんですよ。もともとは僕の仕事じゃなかったのに、上司の一存で無理矢理したくもない仕事を引き受けさせられて。こっちにも都合ってもんがあるのに」
 うんうん、そんなもんだよね、と、隣の席から吉永が調子よく相槌を打ってくる。矢岸はすでに酔い潰れる寸前で、カウンターにへばりつきながら、先ほどから延々と吉永を相手に愚痴を語り続けていた。
「大体みんな横暴なんだ。庄司君のほうが暇なんだから、今まで通り仕事を続けさせたほうがいいに決まっているのに。僕にこんな仕事
、向いているわけがないじゃないか。それなのになんだよ、不細工だからちょうどいいって……」
 うう、とむせび泣いていると、あれ? と吉永がいぶか訝しそうにした。
「なに、亮ちゃん。庄司君と一緒に仕事しているの?」
「そうですよ、それが何か?」
「あれえ、おかしいな。庄司君、学生だって聞いてたのに」
 腑に落ちない顔で吉永が呟くと、ほかの客を相手にしていた秦野がその言葉を聞きとがめて、こちらに顔を向けた。細い眉が深く寄せられる。しばらくなにか考え込むようにしたあと、秦野は棚から日本酒の瓶をひとつ取り出し、自分の失言にも気づかず呑気にグラスをあおっていた矢岸にゆっくりと近づいてきた。
「矢岸さん、今日はずいぶんいい飲みっぷりね。気持ちいいわぁ。私も一杯奢っちゃおうかしら。このお酒、東北の小さな蔵で造られて
いるものでね。滅多に手に入らないんだけど、とっても美味しいのよぉ」
 本心の見えない笑顔で陽気に言うと、秦野は用意した木のます枡になみなみと、透き通った大吟醸を注ぎ込む。
「さあ、飲んで飲んで。このね、喉越しが堪らないのよ。グイッといって」
「ええ? いいんですかあ」
 目の前に美味そうな酒を差し出され、矢岸は小さな眼をきらきらと輝かせた。
「ま、ママ、この酒量でチャンポンは、いくらなんでもやばいんじゃ」
 ずっと矢岸とともに飲んでいた吉永が驚いて止めに入ろうとしたが、すっかり酔っ払ってしまった矢岸が邪魔そうにその手を押しのけた。そして何も考えず、勧められた酒を喜んで受け取る。一気にぐいっと飲み干すと、満足そうなため息を吐いた。
「いやあ、本当に美味しいです。このね、喉越しがね、なんともかんとも」
「そうよね、喉越しよね。さ、もう一杯いかが?」
「頂きますぅ〜」
 すっかり上機嫌になった矢岸は、注がれるままに酒をどんどん飲み干していく。さらに酔いが回って、その眼がぼんやりしてきたころを見計らい、秦野が何気ない口調で語りかけてきた。
「ちょっと聞いていたけど、お仕事大変そうね。矢岸さんて生真面目そうだから、よけい色々と苦労も多いでしょう」
「そうなんですよ。本当に大変なんです。無茶な上司と、無責任な後輩に挟まれちゃって、もう本当に身が細る思いで」
 このところの過ぎる酒量のせいで、矢岸の体格はむしろふくよかさを増していたが、ストレスが溜まっているのは本当なのだろう。その愚痴は止まるところを知らない。
「仕事だって、やって成果が出るなら、それがどんな辛い取材だろうと頑張りますよ。でもねぇ、こう何も進展が無いんじゃ……」
取材の一言に、秦野の頬がぴくりと引きつる。だがすぐに物柔らかな表情を繕うと、酒を注ぎ足しながら、切なそうにため息を吐いた。
「それは辛いわねえ。私に何かお手伝いできればいいのだけれど、なかなかそうもいかないしねぇ」
「いやもうそのお気持ちだけで。あ、でも、ひとつ聞いてもいいですかぁ」
「なにかしら、なんでも聞いて」
「このお店って、芸能人の人とか来たりするんですか? 僕すっごく会いたい人がいるんですけどー」
 瞬間、秦野の瞳が凍りついた。その唇がなにか言葉を紡ぐ前に、話を聞いていた吉永が横から口を挟んでくる。
「芸能人って、ひょっとして牧野秋久のこと? それなら以前よく来てたよ。ママと親しいんだよね?」
ひどく強張った表情に気づかず、吉永が何の気なしに同意を求めてくる。秦野はぎごちなく頷いた。
「……ええ」
「でもよくそんな噂知っているね。誰から聞いたの?」
「上司からですよ。もう本当に、これが横暴な人でー」
 また延々と愚痴をこぼし始めた矢岸を、秦野はカウンターの奥から冷たい眼でじっと見下ろす。ふたりの会話を聞きながらどんどん醒めた表情になっていく彼に、酒に酔った矢岸は少しも気づいていなかった。



「――ちょっとママー、いくらなんでも飲ませすぎだよ」
 酔い冷ましの水を口に運びながら、吉永が秦野を非難するように言った。その隣の席では、すっかり酔い潰されてしまった矢岸が、カウンターになつくようにして眠り込んでいる。
 掛けられた言葉には応えず、先ほどから険しい顔で矢岸の様子を窺っていた秦野が、カウンターから出てきた。そして小柄な男が酔いながらも決して身から放さないでいたハンドバックに手を掛ける。
「ちょっと、ママ?」
 人の荷物を勝手に漁ろうとしている秦野に気づき、吉永が目を丸くした。止めようと肩にかけられた手を乱暴に振り払い、秦野はハンドバックを開く。中に入っていたいくばくかの荷物を取り出すと、無造作にカウンターの上に放り投げた。そのあまりにも非常識な行動に、見守っている吉永はもはや唖然とするばかりだ。やがて様々な小物の下から現れた代物に、秦野は大きく目を見開いた。
 小型のカメラが、ハンドバッグの片隅に固定されていた。よく見ればレンズの当たる位置に小さな穴が開けられ、そこからそのカメラで外部を撮影できるようになっている。
 苦々しく眉をひそめ、秦野は今度は矢岸の上着を探った。胸元のポケットにペンが挿してあることに気づき、手にとって検める。集音用の小さな穴がいくつも開いているそれは、すぐにペンに見せかけた、精巧なボイスレコーダーだと分かった。いざというとき、会話を録音できるように仕込んであったのだろう。
秦野は見つけたふたつを壊さんばかりの強い力で握り締めると、わけが分からずにこちらを呆然と見詰めている吉永を振り向いた。
「……吉永さん、この男、あなたが紹介した庄司君が連れてきたんだったわね」
「あ、ああ、そうだったね。彼は最近すっかりご無沙汰で寂しいよ」
 一度食ってみたかったと、しみじみと呟いている守備範囲の広い吉永に、厳しい表情を崩さないまま、秦野は問うた。
「庄司君って、あなたとどういったお知り合いなの? ここ最近のお付き合いなんでしょう?」
「いや、僕の直接の知り合いって言うわけじゃないから、実はよく知らないんだ。ただ友人から、知り合いの息子さんが性癖のことで悩んでいるから、同類が集まる店を紹介して欲しいって頼まれて。そのときに学生さんだって聞いてたんだけど、もう卒業してたのかな」
 でもまだ二月だし、と吉永が首を傾げるのに、秦野は鋭く舌打ちした。
「くそっ、やられた!」
 低い声で毒づくと、その耳慣れない声音にギョッとしている吉永を放り出して、血相を変えて事務所にしている店の奥に駆け込む。そして忙しなくどこかに電話をかけ始めた。だが単調な呼び出し音が耳元で何度も繰り返されるだけで、一向に相手に繋がる気配がない。焦れながら、秦野は汗ばんだ手で受話器を強く握り締めた。

-Powered by HTML DWARF-