琥珀色【後編】
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――冬の日も、徐々に長くなってきているようだった。
終業時間が近づいてきても、まだ日は完全には落ちきっていない。例のアンケートはがきの集計をどうにか終わらせたあとも、堀内からは時折嫌がらせめいた雑用が回ってきたがそれもほぼ片付け終わり、庄司はホッとしながら凝り固まってしまった肩をほぐすため、大きく伸びをした。
一昨日が入稿日だった編集部には、束の間ののんびりとした空気が漂っている。この分なら今日は久しぶりに早く帰れそうだと思うと、自然に笑みがこぼれた。だが、向こうから腕に余るほど大きな段ボール箱を抱えた堀内が近づいてくるのに気づいた瞬間、その笑顔も凍りつく。
「おう、庄司。これの返却頼むわ」
ドスンと重たげな音を立て、庄司の机の脇に堀内が持っていた箱を下ろした。ふー、やれやれと肩を回してぼやく。
「特に募集してもねえのに、なぜだか次々と応募してくんだよな。よほどえげつないモンでもあるならともかく、冬場に特集するようなネタでもないし困るったら。なあ?」
いきなり同意を求められても、そもそも庄司には何の話をされているのか分からない。ただ無闇に不吉な予感を感じていると、堀内が無造作に箱の蓋を開けた。中に入っているものが視界に飛び込んできて、庄司は「うっ」と息を呑む。
「ほ、堀内さん、これって……」
「あ、これ? 読者から送られてきた心霊写真」
「し、心霊写真……?」
これが全部そうなのかと、庄司は自分の目を疑った。蓋の間から覗き見える恐ろしげな写真は、うず高く積み上げられていて、まったく底が見えない。数百通はありそうな、膨大な量だった。
「すごいだろ。みんなよっぽど人に見てもらいたいみたいで、次から次へと送りつけてくんのよ。かといって使いみち途はねえし、ずっと編集部に置いといたり捨てたりするのも祟られそうで怖ぇから、基本的にこういうモンは全部送り主に返却する方針なんだわ」
そして堀内はニカッと笑い、庄司の肩を乱暴に叩いた。
「てなわけで庄司、返送の手続き頼むな。あ、開封してないヤツもあるから、一応全部開いてみて、もし少しでも使えそうな写真があったらちゃんとよけとけよ」
――言われた言葉を理解するのに、数秒を要した。
「使えそうなって、これ全部チェックして返却? あの、俺ひとりで、ですよね……」
念のため確認してみれば、さも当然とばかりに堀内が頷き返す。
「当たり前だろ。もうアルバイトの美奈ちゃんも帰っちゃう時間だし、頼れるのはお前だけなんだ。よろしくな、庄司」
と、そんな堀内の声に重なるようなタイミングで、終業のチャイムが鳴り響いた。
「お、終わりだ終わりだ。今日は早く帰らないと」
サッカーの代表戦が八時からなんだよと言いながら、堀内は慌しく帰り支度を始めた。そして似合わない、爽やかな笑みとともに片手をあげる。
「じゃ、あとは頼んだぞ、庄司」
そう言い残してさっさと帰っていく背中を、庄司は放心状態で見送った。ややしてゆっくりと視線を巡らせ、とり残された段ボール箱を見詰める。
どう考えても急ぎではない仕事だ。そして当然これも、正式な編集部員である庄司のやるような仕事ではない。そもそも芸能班に振り分けられている庄司に、こんな作業を任せること自体が無茶苦茶すぎる。こういう代物は、実用ページ班が扱うもののはずだ。
もうこれは堀内の嫌がらせ以外のなにものでもなかったが、部内で一番若く、まして堀内に多大な負い目のある庄司には逆らう術がな
かった。
結局今日もこのまま残業かとため息をつき、嫌々ながら箱から数枚の写真を取り出して、庄司は再び息を呑んだ。
ぬめぬめとした水草が生い茂る、よどんだかわも川面に浮かび上がった、女のものらしき長い黒髪。苔むした墓石のまわりを取り囲む、蛍火のようないくつもの青白い光点。
旅行中だろうか、楽しげな顔でポーズを作っている学生たちの背後の窓ガラスには、無数の血色の手形がべったりと張りついている。
背筋に悪寒が走った。無言で写真を箱に戻す。庄司はオカルトに殊更弱いほうでもないが、好きなわけでもない。そもそも心霊写真などというものを生で見たのは、これが初めてだ。テレビ番組で見ている分にはうさんくさくしか見えない代物だが、生で見ると結構クるものらしい。
そして写真のひとつひとつにクリップで留められていた手紙。きっと送られてきた写真に添えられていたものだろう。
目を通す前から、どの手紙にも怪談まがいの事件が綴られているだろうことは容易に想像できた。いったい何が悲しくて、冬場に一人心霊写真を眺めながら、怪談を読みまくらねばならないのか。しかも、終業時間後に。
「本当にもう、勘弁してくれよ……」
どうしようもなくまずい相手から恨みを買ってしまったことを今更ながら実感し、ほんの少し泣きたくなりながら、庄司は心細いため息を漏らした。
気の重い作業を、ひとり虚しく始めて二時間も経ったろうか。これだけ長時間同じような写真を見続けていれば、だんだん怖さも麻痺してくるものだ。無表情で写真をより分け、怪談話を読みまくっていると、机の傍らをふらふらと、幽鬼のように生気ない足取りの男が通り過ぎた。
驚いて顔を上げる。そこにいたのは、小さなハンドバックを小脇に抱えた矢岸だった。少し行き過ぎてから庄司の視線に引き止められたようにピタッと足を止め、ゆっくりと振り返って、暗い眼差しでこちらを見下ろしてくる。
「……それ、もしかして心霊写真?」
「え? ええ、まあ……」
「それ、どう見ても君の仕事じゃないでしょ。アルバイトさんが、やるのを嫌がったの?」
「いえ、そういうわけでは。デスクから頼まれたもので……」
「そう、大変だね……」
ふっと矢岸が息を吐いた。
「気持ちは何となく分かるよ。僕も本来は自分の担当じゃなかった仕事を押し付けられちゃったから」
そう言いながら、恨めしげに庄司を見つめてくる。明らかに牧野の取材に関する当てこすりだった。小柄な体から、本当に呪われてしまいそうな陰鬱なオーラが漂ってきて、庄司は頬をひきつらせる。
「そ、そうですか。大変ですね」
「うん、大変だよ。だって、同じような年頃の男にいきなり肩を抱かれて、『僕デブ専なんだ』なんて熱っぽく囁かれたりするんだよ。あわよくばじゃりじゃりする頬をこすり付けてきたりして。僕、これまで一度も女の人にモテた経験が無いけど、こんなふうにモテたい
なんて……、望んだことは一度も……っ」
絶望に暮れ、嗚咽混じりの泣き声で矢岸が訴えかけてくる。何しろ自分も最初は似たような経験をしただけに、こればかりは庄司も矢
岸に同情するしかない。まして彼は押しの弱いタイプだから、一度誘われたら断るのが至難の業なのだろう。
「このままじゃ、本当に男に貞操を奪われかねない。あんまりだ。この前なんて、店に向かう途中で、変な男に路地に連れ込まれかけた」
その後どんな恐ろしい思いをしたのか想像もできないが、矢岸は真っ青な顔になると、ぶるっと大きく体を震わせた。
「もう限界なんだよ。僕にはあの店の取材は無理だ! 頼むよ、庄司君。仕事を変わってくれ。大体あれは、君の仕事だったんだろう!?」
「え、ええ。それはそうなんですが……」
しかしどんなに懇願されところで、一度上司が決めたことである以上、庄司にはどうしようもなかった。
「た、たぶん、このまま牧野が店に現れなければ、取材も打ち切りになりますよ。あと少しの辛抱です。それに、あの店も悪い人ばかりじゃありませんから、慣れれば普通に会話できるように……」
「僕は慣れたくなんか無いんだよ――――!!」
せめてもの励ましの言葉は、矢岸の絶叫に遮られた。そのあまりに悲痛な声音に、庄司は掛けるべき言葉を失って絶句する。矢岸はそんな庄司を涙の浮かんだ眼でしばらく睨みつけていたが、やがて諦めたように肩を落とすと、しおしおと部屋を出て行った。恐らくこれからまた、SARABAに向かうのだろう。
罪悪感に居たたまれなくなり、庄司は矢岸の背中に向かって心の中で深く手を合わせた。そんなことをされても、彼にとっては何の慰めにもならないだろうと、よく分かってはいたが……。
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