琥珀色【後編】
3
――目に見える成果が出にくい仕事を延々と続けるというのは、相当に精神力を消耗するものだ。
必死に頑張っても、机の上に積み重ねたハガキの山はなかなか減ってくれない。そしてそんな庄司の姿を、ほかの部員たちは忙しそうに原稿を書いたり電話を掛けたりしながら、いったい何をやっているんだといった風の怪訝な眼差しで眺めていく。
羞恥と居たたまれなさとを奥歯で噛み殺しながら、どうにかハガキを三分の一ほどを片付けたときには、もう窓の外の日は傾きかけていた。
これはどうあがいても今日中に全部終わらせるのは無理そうだと、ため息とともに見切りをつけ、パソコンの電源を落とすと、庄司は取材に向かうために会社を飛び出た。
事前の根回しでインタビューを取らせてくれるという確約をすでに得ていた取材でもあり、大して気負うこともなく待ち合わせ場所の喫茶店に向かったのだが、上手くいかないときはなにをやっても駄目なものらしい。よりによって、土壇場で取材相手にドタキャンを喰らってしまった。
金銭面での待遇を巡って、とある人気タレントと、その所属事務所との関係がこのところこじれているという噂が流れており、その真否を探るべく事務所スタッフのひとりと接触することになっていたのだが、どうやら事務所の上層部がこちらの動きを敏感に嗅ぎつけていたものらしい。
待ち合わせ時間を過ぎても一向に現れない相手に痺れを切らし、携帯で連絡を取ってみると、「勘弁してよ、俺だってクビになってまであんたらに売りたいようなネタは持ってないよ」と早口でまくし立てられたあげく、ブツッと一方的に通話を切られてしまった。
虚しく繰り返されるコール音を呆然と聞いていた。関係者からインタビューを取れなければ、記事を書くことができない。
いまさら取材テーマを変えることはできないし、すぐにもなにか有効な方法を考えて、新たな切り口から取材を進めなければならない。こちらこそ、「勘弁してくれ」と泣き言を言いたい気分だった。
しかし嘆いていたところで、仕事が自動的に片付いてくれるわけではない。どうにか気持ちを切り替えると、庄司は猛スピードで会社に駆け戻った。まず編集長のいそやま磯山にインタビューが取れなかったことについて報告する。間髪入れずに返ってきた激しい叱責を頭を垂れて拝聴してから、今後の取材の進め方について慌しくふたりで検討した。その後、話を聞かせてくれそうな関係者に思いつく限り連絡を取り、なんとかこの先の目処がついたときには、時刻はすでに終電が出る直前になっていた。
それでも帰れるだけまだマシだと自分を慰め、酔客と疲れ果てたサラリーマンで混み合う電車に揺られながら、へとへとになって庄司がアパートに帰りつくと、見上げたところにある部屋の窓は暗いままだった。どうやら牧野もまだ帰ってきてはいないらしい。
舞台の稽古が長引いているのだろうかと思いながら、重い足を引きずるようにして外階段をのぼり、財布にしまってある鍵を取り出す。鍵穴に差し込もうとしたとき、階段を上ってくる足音が聞こえて、手を止めた。
眺めていると、下のほうから牧野が少しずつ姿を現す。彼もまた疲れているのか、ずいぶんとゆっくりした動きだった。うつむいて歩いていた牧野は、近くまで来てからはじめて部屋の前に佇んでいる庄司の姿に気づくと、びっくりしたような顔をした。
「こんなところで何してるんだ」と聞いてくる彼に、「俺もいま帰ってきたところなんですよ」と苦笑して答えると、庄司は今度こそ扉を開けて、牧野を先に中に入れてやった。慣れた様子で、すぐに牧野が部屋の明かりと暖房のスイッチを入れに行く。靴を脱ぎながら、その背中に庄司は声を掛けた。
「牧野さん、夕飯はもちろんもう食べましたよね?」
「夕飯? どうして」
「いや、もう夜食か。仕事が忙しくてなにも食べられなかったんで、俺はこれから何か作って食べようかと思うんですけど、牧野さんももし腹が空いているようなら一緒にどうですか」
「そうだな。少し減っているかな」
そう頷いた顔は、いつもよりも随分疲れているようだった。こんな時間まで立ちっぱなしで舞台の稽古に励んでいたのなら、それも当然だろう。部屋に上着と荷物を置くと、庄司は急いで台所に立った。するとなぜか牧野もその背中についてくる。
飯を作るとは言ったものの、果たして何かめぼしい材料はあっただろうかと考えながら冷蔵庫の中や棚を引っ掻き回し、なんとかうどんの乾麺と、具になりそうなかまぼこやらニンジンやらほうれん草やらを見つけ出した。
正月に買い置いていた切り餅も出てきたので、力うどんにでもするかと算段をつけたところで、台所に入ってきたまま、ぼんやり壁際に立ってこちらを眺めている牧野の姿に気がつく。
寒がりのくせに、帰ってすぐにエアコンの前に陣取らないなんて珍しいなと、庄司は内心首を捻った。「メシができるまで、奥にいたらどうですか」と勧めてみと、牧野は「別に寒くない」とぼそりと呟く。しかしそのまま引き返していったので、あちらで待つ気になったのかなと思いながら庄司が鍋に水を張っていると、台本を片手にまた台所に引き返してきて、壁にもたれながらページを繰り始めた。
思わず庄司が手を止めてまじまじとその様子を見詰めていると、「邪魔か?」と顔を上げて牧野が尋ねてきた。慌てて首を横に振ると、「そうか」とまた何事も無かったかのように本に目線を落とす。庄司はますます困惑した。
「……どうしたんですか? 牧野さん」
「なにが」
「こんなところで台本を読んでいても、集中できないでしょう。別に俺に気を使わなくてもいいんですよ」
てっきり庄司だけに台所仕事をさせることに気が咎めて、ここを離れられないでいるのかと思ったのだが、牧野は言われた言葉の意味がわからないというように深く眉をひそめた。そして淡々と呟く。
「いつもあるものがないと、逆に集中できないんだ。お前こそ気にするな」
なるほど、そんなものなのかと一応納得して料理に戻りかけた庄司だが、包丁を手にしたところで、はたとその言葉の奥深さに気づいた。
「いつもあるもの」とはひょっとして、庄司のことを指しているのだろうか。つまり牧野は、庄司がいないと台本に集中することもできないと言っているわけで……。
まさかそんなことがと思いながら、誘惑に抗えずに、庄司は牧野に聞いてみた。
「牧野さん、俺が居ないと寂しいんですか?」
どうせすぐに否定されるだろうと思ったのだが、問い掛けられた牧野はふと首を傾げた。真面目な表情で、問いを反芻するように胸に手を当て、真剣に考え込んでいる。その様子を眺める庄司の鼓動も、次第に昂ぶってきた。
これはもしかしたら、はじめて牧野から甘い言葉を聞かせてもらえるのではないか。
そんな期待を殺しきれずに答えを待っていると、ややして牧野の手が少し下方にずらされた。そして腹のあたりを押さえながらボソリと呟く。
「……そういえば、メシが食えなくなるのは寂しいな」
――俺はしょせんおさんどんか。
素っ気ない言葉に、庄司はがくりとその場で膝をついてしまいそうになった。都合のよい期待を抱いてしまっただけに、ダメージが大きい。自分をあざ笑いたい気持ちになりながら、庄司は力なく料理を再開した。
――心持ち肩の落ちたその広い背中を、牧野が無言で見詰めている。たった今、自分が発した言葉に、自分で驚くように。
お前といっしょにメシが食えないのは寂しいと、そんな意味で牧野が今の言葉を漏らしたということに、庄司は気づいていなかった。
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