琥珀色【後編】
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「――今日も遅くなるのか」
部屋を出る寸前に牧野が尋ねてきたのに「たぶん……」と頷き、庄司は眉を少し曇らせた。実際最近虚しいほど仕事が忙しくて、なかなか早い時間に戻ってくることができない。「虚しい」という表現にはちゃんと理由があるのだが、それは牧野には言えなかった。
「お前、何の仕事だっけ。学参作っているって言っていたか?」
「ええ、まあ……」
嘘である。庄司は大手出版社の雑誌編集部で、女性週刊誌を作っている。だが、まさかその取材対象ともなる、というか、取材対象そのものである目の前の男に正直にそう告白するわけにはいかず、かと言ってまるきり本来の仕事とは違う職業を名乗るのもボロが出そうに思えて、結局庄司は堅い出版社で学生用の学習参考書を作る仕事をしていると、微妙な嘘を牧野に吐いていた。
「そういえば、今ごろはちょうど受験シーズンか。そういう感覚ってどんどん無くなっていくものだな。すっかり忘れていた」
……俺も、すっかり忘れていました。
とはまさか言えなかったが、庄司も牧野に言われてはじめて、今がちょうど受験シーズン真っ只中の二月だということに気がついた。いや、中高生にとっては受験シーズンだろうが、小学校受験や中学校受験をする子たちにとっては、一体いつぐらいが入試の時期なんだ!?
保育園から大学までを全て国公立で通し、高校と大学受験の経験しかない自分がそのことをよく知らないことに気づき、庄司は内心冷や汗をかく。
あとでネットででも調べて置かなければと、心のメモ帳に書き込みながら、この話が続くのは著しく危険性が高い気がして、庄司は何気ない顔で話題を変えた。
「牧野さんは今晩、早く帰れるんですか?」
「俺も今日は遅いかな。撮影のあと、舞台の稽古があるから……」
言いながら、牧野が腕の時計に視線を落とした。まだ朝の六時前で、冬の遅い日は昇ってもいないような時刻なのだが、すでに撮影の時刻が迫っているのだろう。少し焦った顔になり、履きかけていた靴の紐を結び始めた。だがもとから不器用な上、朝の冷たい空気で指先がかじかんでいるのか、うまく結ぶことができずに手間取っている。
アイレットに靴紐の先が通らず、もたついている彼を見かねて、庄司は手を伸ばした。
「貸してください。俺が結びます」
窮屈な思いをしながら狭い玄関にかがみ込み、牧野の代わりに靴紐を結ぶ。それにしても足元がごちゃごちゃしていて邪魔だと、庄司は眉をしかめた。
「――牧野さん、頼むからここに置く靴は二足までにしておいてください。足の踏み場がなくて、本当に困るんですが」
すっかりこの部屋に居付いてしまった牧野は、着替えや洗面用具だけでなく、自分用の靴も予備を含めて数足持ち込んでいる。下駄箱も無いような狭い玄関口にはこの部屋の本来の主である庄司の靴も含め、男用の大きな靴が何足も並び、とっくに飽和状態に陥っていた。しかもいま牧野が履こうとしている靴も、庄司にとってははじめて見るものだ。
「その日の服装に合うように、靴も変えるのが当たり前だろう。二足や三足で足りるか」
居候の身でありながら、庄司の苦情を素っ気なくしりぞけて、牧野が立ち上がった。靴のつま先を床につけて軽く伸び上がり、履き心地を確かめる。程よく締められた紐に満足したように、少し機嫌の良さそうな顔になった。
「じゃあ、行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
相変わらずマイペースな男に肩を落としつつ、ともに暮らしているからこそ当たり前のように交わせる挨拶がこそばゆくも嬉しくも感じて、庄司はそれ以上文句も言わずに牧野を送り出した。惚れた弱みとはこういうことかと、彼に甘すぎる自分自身に、半ば呆れながら。
――庄司が部屋を出たのは、それから二時間ほど経ってからだった。私鉄と地下鉄を乗り継いで職場の最寄り駅に降り立ち、改札を抜けて地上への階段を上りはじめる。途端に上方にある出入口から強い風が吹き下ろしてきて首をすくめた。すぐ前にいたOL風の女性も風にくしゃくしゃに髪を掻き乱され、慌てて手櫛で直しながら、口の中で小さく愚痴らしきものをこぼしている。
二月半ばとあって、今朝は一際冷え込みが厳しい。冷たい風が、じかに肌に突き刺さってくるようだ。
今にも白いものがちらついてきそうな灰色に濁った空をうんざりと見上げ、庄司は地下鉄出口のすぐ目の前にあるビルのエントランスに駆け込んだ。まだ学生のような若い受付嬢と挨拶を交わし、四基あるエレベーターのうちのひとつに乗り込む。暖房のきいた社内は今度は逆に暑いほどで、職場のある階につくまでに、庄司は着ていたダウンジャケットを脱いだ。
軽い音を立ててエレベーターが目的の階に止まる。荷物を全て左脇に抱え込み、庄司はフロア内に足を踏み入れた。腕の時計をちらりと見れば、時刻はまだ一〇時前だ。ほっとする。これならあの男にも因縁をつけられないだろうと、安心しかけたそのとき。
「おう、庄司」
と、待ちかねていたような声が背後から掛かってきて、ギクリと肩を揺らした。逃げたがる気持ちを押さえつけ、恐る恐る背後を振り向く。
「……おはようございます。堀内さん」
週刊マダム編集部デスクの堀内が、皮肉をたっぷりと混ぜ込んだ薄い笑みを口許に貼りつけてそこに立っていた。身長差があるため、わざわざ伸び上がるようにして庄司の肩に腕を回す。
「おお、いい朝だな。ところで早速だが、昨日頼んだお仕事はどうなったかな?」
問いの形なのに、返答を待たずわざとらしく庄司の机を覗き込み、山と積まれている紙の束を見て驚いたような声を上げる。
「おいおい、まさかまだ終わっていないのか。こんな簡単な仕事が!」
四大出が泣くぜ、と堀内が言う仕事とは、編集部宛に寄せられたハガキの集計作業だった。それこそ四大出の正社員が行う仕事ではない。こういう雑務を任せるためのアルバイトも、編集部には数人いる。にもかかわらず、堀内は「庄司を見込んで」この作業を押し付けてきたのだ。
先々週号の「週刊マダム」誌上で実施されたアンケートに寄せられたハガキの枚数は、それがプレゼントが当たるクイズの回答ハガキを兼ねていたこともあり、およそ三〇〇〇通近い膨大な量になっていた。そして、アンケートの項目は五つ。堀内から任された仕事とは、これを項目ごとに集計して結果を出し、さらに都道府県別と年齢別のデータも打ち込んでいくという気の遠くなるような仕事で、確かに作業自体は単純だがたった一人で、しかも半日やそこらで終わらせられるようなものでは到底なかった。ましてや庄司には当然、ほかにもたくさん仕事があるのだ。
昨日も見かねたアルバイトの女の子が、時間を見ながら少し手伝ってくれたのだが、それでもハガキの山はまだ半分も片付いていなかった。
「おまえが普通の取材じゃ物足りないみたいだから、わざわざ見繕ってやったお仕事なんだぜ。ちゃんとやってくれよぉ」
……これがわざわざ見繕って頂くような仕事だろうか。あまりにも大人気ない嫌がらせに、さすがに憤りを堪えかねてこめかみをひくつかせる庄司に、堀内がさらに皮肉のつぶてを投げつけてくる。
「おまえが放棄した仕事を代わりに押し付けられた矢岸は、可哀想に毎日ゲイバーでオカマちゃんたちに囲まれながら、それでも頑張って取材しているんだぜ。あーあ、ひでえもんだ。神も仏もこの世にはないのかってんだ。なあ、庄司?」
ふたりの会話が聞こえたのか、フロアの端のほうの席に座っている小太りの男が、おどおどと気の弱そうな仕草でこちらに視線を寄越した。途端に胸に罪悪感がこみ上げる。
矢岸は部内一の低身長と小太りの体格、そしてその地味を極めた性格から、こいつなら男にもモテないだろうと堀内に太鼓判を押され、また非常に目立ちにくい点を買われて、庄司の代役に選ばれてしまった男だ。
庄司が牧野の取材に失敗したことから、敢えてまったく逆のタイプを選んだのかもしれないが、突然仕事を、しかもとんでもない潜入取材を、任されてしまった当人としては、迷惑もいいところだったろう。
「矢岸は男に襲われる危険も顧みず、古き良き時代の特攻精神をもって、マメにあの店に通ってるってえのに。それに引き換え、仕事ひとつまともにこなせない無責任な自分が恥ずかしくなってこないか、ああ?」
偏見に満ちた堀内の言葉に、顔には辛うじて出さなかったものの、庄司は強い反発を覚えた。SARABAには同性愛者はいるが、女装趣味の男はほとんど来ない。またモーションくらいは掛けてきても、男と見れば見境なく喰らい付いてくるような客もいない。
そもそもそんな仕事を庄司や矢岸に押し付けた張本人である堀内に、果たして恥だの何だのを云々する資格があるのだろうかと思うが、自分が中途半端に放り出してしまった仕事のあおりを、矢岸が喰らってしまっているのは紛れもない事実だ。それに関しては弁解の余地がまったくなく、よって庄司はただ黙って頭を垂れ、堀内の説教を拝聴しているしかない。
「しかも矢岸がそこまで頑張っているってのに、肝心の牧野は相変わらず店に現れないときている。取材始めてから、もう何ヶ月めだ? やっぱりお前だろ。お前がなんかヘマでもして、それでヤツが店に来なくなっちまったんだろ! あの店にお前らを潜りこませるために、俺がどれだけ苦労したかはもう話したよな? どうしてくれんだ、え、庄司」
どうもこうも無い。いい加減諦めてはくれないだろうかというのが、庄司の本音だ。しかし堀内は庄司の無責任な態度がどうしても許せないらしく、小姑のごとくねちねち、ねちねちと毎日のように絡んでくる。よほどこのネタに掛けていたようで、そのしつこさは尋常ではなかった。一〇〇回かき回した納豆だって、ここまで粘っこくは無いだろう。
そもそも、いまさら牧野が店に現れるはずがないのだ。矢岸がSARABAに赴いている時間、彼はいつも仕事をしているか、庄司の部屋でくつろいでいるのだから。しかしそんなことは間違っても口に出せない。万一このことが堀内の耳に入れば、プライバシーの侵害など歯牙にもかけず庄司を尋問して、牧野の同性愛、および不倫疑惑について一大キャンペーンを張るに決まっている。また、それが女性週刊誌というものだ。
被害に遭うのが自分だけならともかく、牧野の人生まで台無しにさせることは絶対にできない。それが平気だったら、今頃こんな事態にはなっていない。
(俺は亀だ。亀になるんだ)と、拷問に耐えるような気持ちで自己暗示をかけ、庄司は必死に黙して語らずの姿勢を貫いた。
そんな庄司の態度を不遜なものに感じたのだろう。また何かを口に仕掛けた堀内だったが、そこに新たに出社してきた部員の姿を見て、くるっと矛先を変えた。
「おおはらーーー!」
いきなり名前を叫ばれてギョッとする部下にものすごい勢いで駆け寄ると、堀内は唾を飛ばしてまくしたてた。
「お前、俺にとんでもないサービス券つかませやがって! なーにが『本物の女子高生がいっぱい! 全身でサービスし・ちゃ・う♥』だ、このやろ。昨日行ってみたら、オッパイたるみかけの自称女子高生たちにサービスされて、俺がどんなに侘しい想いを味わったか。分かっているのか、ああ?」
言いながら胸に当てた両手を上下させ、たるんで下がったオッパイを表現する。出社早々に因縁をつけられてしまった大原は、必死の顔つきで反論しようとした。
「ほ、堀内さんが勝手に、俺から券を奪い取ったんじゃないですかっ。『女子高生とスケベなことして、大事な部下の両手が後ろに回るのは忍びない』とか親切ごかしに言って! まさかそのあと、一人で店に行っているなんて思いませんよ。全部堀内さん自身の責任じゃないですかぁ!!」
「うるせー、うるせー! なんだあ、おまえ。上司に恥かかせようってのか? いい度胸しているじゃねえか、コラ。この恨みは一生忘れねえからな。覚悟しとけよ、こん畜生」
もうほとんどチンピラヤクザのノリである。そんな理不尽な! と叫ぶ、大原の悲痛な声が聞こえた。
フロア中の女性の白い目にも気づかず、不毛な言い争いを続けるふたりをよそに、とりあえず難を逃れた庄司はそそくさと自分の机に逃げ戻った。そして山積みのハガキに改めてげっそりしながら、とにかく一刻も早く片付けてしまおうとパソコンを立ち上げる。ヤケクソ気味にばしばしキーボードを叩いていると、ふと横顔に視線を感じた。
何気なく顔を上げると、離れた席に座っている矢岸と目が合う。彼は恨めしそうに、じっとこちらを見つめていた。束の間、空気が凍りつく。庄司はぎくしゃくと顔をモニタに戻した。そして何も気づかなかった振りで、懸命に仕事に打ち込んでいる素振りをする。それでも肌に突き刺さってくる視線は、一向に離れる気配がない。
もとから気の弱い矢岸には、かつての庄司以上にSARABAの取材が負担になっているらしかった。そのせいか、時折こうしてこちらを睨んでいることがある。庄司にも後ろ暗いところがあるだけに、気まずいなどというものではない。
それにしても堀内に憎まれ、矢岸に恨まれて、一体何の因果なのかと悲しくなりながら、庄司はふと、自分が今年厄年であったことに気づいた。
今からでは遅いかもしれないが今度暇を見て寺社に厄落としにでも行こうかと、一時的に信心深さを取り戻しながら考え、虚ろな気分で庄司はハガキをめくり、キーボードを叩き続けた。
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