琥珀色【後編】

 一度だけだろうと思っていた。
 相手が自分にそういった意味での関心を持っていないのは知っていたから、ただ一度だけ、自分がどうしてもこの行為を欲していたあのときに、求めに応じてくれただけで十分で、感謝さえしていた。
 なのに、今も自分に触れてくる手を、彼は不思議に思う。
 最初口先でこの行為に誘ったときは嫌そうな顔さえしたのに、ほんの少し前のそんなことが嘘であったかのように、今目の前にいる男は優しく自分を抱く。初めてのときはいささか乱暴なくらいの抱き方をしたのに、体を重ねる数が増えるごとに、男の触れ方は情を増した。
 自分の体がそんなに気に入ったのだろうかと思いながら、高まっていく互いの熱に徐々に思考はまとまりを無くし、それでも、かすむ視界の中に映った相手の瞳が、いっそ切ないほど真摯に自分の姿を映していることを知って、思わず息を呑んだ。
 分かっているはずだ。
 自分も相手も、ただこの行為にのめり込んだだけ。
 思いがけず相性のよかった互いの体に、今は夢中になっているだけだ、と。
 それなのに――――……。
 失いかけた意識の中、男の手に、瞳にこもる優しさを感じながら、ぼんやりと彼は思う。
 まるで。
 まるで、愛されているようだ、と……。

* * *

 熱い吐息とともに、腕の中に抱きしめた牧野の体がゆっくりと力を失い、庄司の胸の中に倒れ込んできた。
 体の中心で彼の熱を感じながら、伏せられた薄い瞼の上に、そっと庄司は唇を落とす。
 意識が飛んでしまっているのに、まだ牧野の息は荒い。その肌は流れる汗で滑らかさを増し、やけに艶っぽく見えた。
 こうして牧野と抱き合うようになって、もうひと月が経とうとしている。思いがけず始まった体の関係は、その後も様子も見せず、ともすれば毎夜のように続いていた。
 牧野が積極的に求めてきたのは、一番はじめのあのときだけだ。ただあれから何かたがが外れたように、二人きりでいると決まってそんな雰囲気になってしまう。
 牧野の傷心に付け込んでいる自分のことを、庄司は自覚している。
 彼の心が過去の恋にずっと縛られていることを知り、それが無性に悔しくて、昔の恋人にすげなくされた牧野が自分を求めてきたことに夢中になった。二度と彼を離すまいと必死に体で繋ぎ止めようとするかのように、最近の自分の行為には歯止めがない。
 そしてそうしているうちに、まだはっきりとした形を成していなかった、自分の中にあった牧野へと寄せる思いも見る間に膨らんで歯止めを失い、あっという間に彼のことしか見えなくなってしまった。
 牧野に触れるたびに、胸が熱くなる。抱きしめるたびに愛しいと思う。恋人もどきのこの関係に自分ばかりが夢中になり、すがり付いているようであるのが、おかしくなるほどに。
 情事を終えて火照った肌が落ち着いてくると、意識を失ったままの牧野が小さく体を震わせた。汗が引いてきた体に、二月の夜気は冷た過ぎたのだろう。慌てて庄司は牧野の上から体を引き、シーツの上に静かにその体を下ろして、上掛けで包み込んだ。布団の上から自分の腕を回すと、あどけなさすら感じさせる顔で眠り込む人の前髪を、指先で軽く梳き下ろす。
 もう何度も体を重ねたが、未だに牧野にこの想いを告げたことは無い。牧野の中で自分がどんな位置にあるのかも、ひどく気にはなっていたが、まだ聞いたことがなかった。
 庄司にも今はまだ自分たちの関係がひどく危ういものだということは分かっていて、何かのきっかけでこの微妙な均衡が崩れてしまうことを何よりも怖れていた。自分から一歩踏み出すことで、この脆い関係が固まる可能性がないわけではない。しかし、全てが崩壊し、無くなってしまう可能性だってあるのだ。
 そして、庄司にとって、賭けに出るにはこの勝負はあまりにも分が悪すぎた。
 牧野の心の中には自分と出会うずっと前から、誰よりも大きな存在感を持つ過去の恋人、長谷川が住みついている。自分は彼の身代わりにはなれたかもしれない。だが、自分が牧野にとって、長谷川以上の存在になれたと自惚れることなど到底できなかった。
 少し伸びた前髪に、伏せられた瞼に、庄司はそっと唇を落とした。暗闇を透かして、牧野の寝顔をじっと見詰める。それでも牧野は今、こうして自分の腕の中にいる。無防備に体をゆだね、穏やかな表情で眠ってくれている。
 だから今はこのままでもいいと、庄司は思った。今は体だけの関係でもいい。体だけの関係がいずれ心も含んだそれに変わる日が来ないと、一体誰に言えるだろう。牧野が毎日戻ってくる場所は自分のこの部屋だけで、今はそれで十分だと、庄司は本心から思っている。
 思えばここに至るまでの時間が速すぎたのだ。自分と牧野が直接知り合うようになってから、まだ半年も経っていない。たったそれだけの付き合いしかない庄司が、一〇年にも及んだ長谷川と牧野との関係に比肩できると考えること自体に無理がある。
 ふたりが一〇年かけて想いを育んだのならば、自分は二〇年、三〇年時間をかければいいのだと思った。それだけ続けることができれば、牧野の中にもきっと庄司に対する何らかの、揺るぎない想いが形づくられていることだろう。
 二〇年後に自分たちが迎える年齢を考えて、庄司は思わず苦笑してしまう。それだけ経てば、外見の割に幼い中身を持つこの男も、多少は老成するのだろうか。……多分、あまり変わらないままでいるような気がする。それでもいい。そんなこの人を、自分は愛してしまったのだから。
 それでも自分はその頃には長谷川のように、いや、長谷川以上に、頼りがいのある男になっていたいと願う。牧野が、全ての体重を自分に預けてくれるような、そんな人間になっていたかった。
 牧野はこんな自分の想いを知らない。気づくこともない。ただ静かな寝息を立てて、今は深い眠りの中で安らいでいる。その裸の肩をゆるい力で抱き寄せ、耳元に唇を近づけて、庄司はそっと囁いた。
「……愛していますよ」
 想いを込めた言葉を、正気の牧野に告げることはまだできないが。
 それでも触れ合う肌から互いの思いが自然と伝わるような、そんな穏やかで確かな恋になればいいと、庄司は切ないような気持ちでただ願った。

-Powered by HTML DWARF-