永遠までの一秒

10

 朝からやかましいほど元気いっぱいに鳴いている蝉の声を背に、牧野は自分の背丈よりも高い門扉と向かい合って立っていた。門の左右に続く塀の向こうからは青々と茂った木々が枝を伸ばし、牧野の足元にまで濃い影を落としている。
 絡まり合うツタを象った鉄製の門扉の先には、あまり手を入れていないのか、いささか伸びすぎた感のある芝に混じって夏の草花が茂りかけた庭があり、そのさらに奥には瀟洒な洋風邸宅が建っていた。築一年をいくらか過ぎたほどのその建物は、白一色で塗られた外壁が眩い陽光を弾き、目に痛いほどだ。
 上部がアーチ型を描く一階の窓にはすべてレースのカーテンが掛けられ、中の様子を窺うことはできない。二階から張り出したバルコニーにも人気はなく、その奥に見える窓もきっちりとカーテンが閉ざされていて、外の世界を拒むような頑なさだけが漂っていた。
 一応建前としては、ここが牧野の本宅ということになる。しかしこの家で暮らしたのは結婚後のほんの二、三ヶ月ほどで、すでに年単位で帰っていないとあれば、もはや他人の家も同然だった。今となっては、都内でこれほど立派な構えを誇っている家が、自分の持ち物であるとはとても信じられないくらいだ。
 今後美穂里との離婚が成立したとして、財産分与がどうなるかはまだ分からないが、もし自分に権利が残れば、この家は速やかに売り払うことになるだろう。こんな家が自分の身の丈に合った持ち物であるとは到底思えないし、そもそも構えからして牧野の趣味ではない。結婚当初はつくづく周りが見えなくなっていたんだなと、今更ながらに思った。
 額をつうっと滑り落ちてきた汗を、目に入る寸前に指先で拭う。体に纏いつく蒸し暑さに、牧野は辟易した。
 日中まともに外を出歩いたのも、考えてみれば久しぶりだ。仕事がある日は冷房のきいたスタジオ内にこもりきりだし、たまに仕事がない日もやはり空調の入った自分の部屋か、庄司のアパートで過ごすのが常だから、久々に味わう熱湯の中で茹でられているのかと錯覚するほど息苦しい真夏の空気は、昨夜のハードな運動で消耗した体には相当こたえた。
 さっさと中に入らせてもらおうとインターホンに指を置きかけ、ふと背中に視線を感じて、牧野は背後を振り返った。数メートル先の路地の角を、人影がすっと過る。
(もしかして、もう来ているのか?)
 周囲に視線をやり、苦々しく眉を寄せる。
 昨日の楽屋での騒動を聞きつけたマスコミが、家の近くで張っているのかも知れない。この暑い中、早朝からご出勤とはご苦労なことだが、牧野にとってはもちろん傍迷惑きわまりない話だった。心の中で悪態を吐きながら、今度こそインターホンを強く押す。
 呼応して、家の中でチャイムが鳴り響くくぐもった音が聞こえた。しかしすぐには応答がない。もしかしたらまだ寝ているのかもしれないと思ったが、これ以上この場で夏に蒸し焼きにされるのはたまらず、牧野は二度三度とインターホンを続けて鳴らした。
 牧野だって、だるい体を無理矢理引きずるようにしてここまで来たのだ。相手をたたき起こすことに罪悪感はない。
 四度目にインターホンを鳴らしたとき、ようやくマイクを通じて聞き取りにくい陰鬱な声が「……はい」と応えた。それが美穂里の声であることはすぐに分かったが、牧野はいささか戸惑いを覚える。美穂里の金切り声や泣き声は聞いたことがあっても、こんな疲れ果てたような声を聞いたことはなかった。
 インターホンに唇を寄せて、「俺だ」と言うと、スピーカーを通じて息を呑む音が聞こえてきた。頭上に設置されたカメラを見上げ、こちらの顔がはっきりと映るようにしてやると、すぐにインターホンが切れる。
 程なくしてガチャガチャと家の鍵を開ける音がし、家の中から飛び出すようにして美穂里が姿を現した。すでに起きてはいたようで、寝巻きではなくこざっぱりした室内着を身に着けていたが、化粧を施していないその眼の下には、疲労が浮き出たような濃いクマができている。
 門扉越しに向き合い、待ち焦がれていた男の訪問が信じられないように立ち尽くす美穂里に、牧野は気まずく言った。
「中に入れてくれないか?」

◇ ◇ ◇

 家の中に一歩足を踏み入れた瞬間、冷やりと乾いた空気に包まれる。
暑さから解放されてほっとする一方で、その乾ききった空気がひどくよそよそしくも思え、中に立ち入ることを拒まれているような気になる。光が降り注ぐ外と比べ、カーテンが閉められたままの室内は薄暗く、閉鎖的だった。
 綺麗にされているのに、どこか陰のある空間。広さがあるから、余計にその物寂しさが際立つ。こんなところに生まれたばかりの子どもと二人っきりで暮らしていれば、気がおかしくなってしまうのではないかと、牧野は久々に眺める室内を見渡しながら思った。
 美穂里に導かれて居間に入ると、ソファセットの傍らにベビーベッドが置かれていて、中にあの赤ん坊が寝かされていた。眠っているのかと思って覗き込むと、いきなりぱちっと目を開ける。無垢な眼差しにまじまじと見つめられ、咄嗟に取るべき表情の選択に迷っていると、その強張った顔が怖かったのか、赤ん坊が急にぐずりだした。
「秋則」
 息子のむずがる声に呪縛を解かれたように、美穂里がベビーベッドの傍らに駆け寄った。小さな体を抱き上げ、優しく揺すると、一転して赤ん坊が楽しげな声ではしゃぎ出す。その変わり身の早さはどういうことだと、つい抗議したくなったほどだ。昔から牧野は子どもとペットには好かれたためしがなかったが、こうもあからさまだと多少傷つく。
「……最近、ベッドの外に出してあげると、寝返りしながらどこまでも転がって行っちゃうの」
 子どもをあやしながら、美穂里がぎごちなく笑んだ。
「離乳食も、もう始めているのよ。少しずつ固めのものも食べられるようになってきて、そろそろハイハイだってできそうなの。そうしたら部屋のどこにでも行ってしまうだろうから、今よりも気をつけて見てあげないと……」
 必死でしゃべり続ける美穂里を、牧野はさえぎることはしなかった。ただ黙ってその顔を見詰めていると、沈黙に耐えかねたように徐々に美穂里の声がか細くなり、やがて途絶える。その言葉の余韻すら宙に消えたとき、牧野ははっきりと彼女に告げた。
「――美穂里、俺はその子どもを自分の子どもだとは思えない」
 息子の顔に視線を据えたまま、美穂里の動きが止まる。
「お前のことも特別な存在だとは思えないし、この結婚自体、間違いだったと思っている。お前を巻き込んで、振り回してしまったことはすまないと思うが……」
 牧野が一言話すごとに、細い体が小刻みに震えだす。はしゃいでいた腕の中の子どもが、母親の異変を感じ取ったようにまたぐずりだした。それを再びあやすこともできず、牧野の言葉から逃げるように懸命に顔を背けている彼女に、短く告げた。
「離婚して欲しい」
 ひくっと、美穂里の喉が息を吸い損ねたように、苦しげな音を立てた。ゆっくりとこちらに頭をめぐらせると、どこか上の空の口調で「……いやよ」と拒む。
「わたしは、あなたを愛している。この子のことをあなたが愛せないのも、この子のことをまだよく知らないからよ。一緒に暮らしていないから、いろんなことがうまくいかなくなってしまうのよ。ねえ、この家に戻ってきて。私たちと家族として、一からやり直しましょう」
「無理だ」
 言い募る彼女に残酷なほどはっきりと牧野が言い渡すと、美穂里は数度瞬きし、やがて震え出した唇をぎゅっと噛み締めて、泣き出しそうになるのを堪えた。彼女が泣くたび牧野がうんざりしたような反応を返すのを、気にしてのことだったのかもしれない。
「やり直すも何も、何かが始まったことさえないだろう。この関係を続けていくことは、俺は無意味だと思う」
 まして、美穂里が自分を愛しているなどと言うことはありえないと思う。牧野が長谷川と別れる口実を求めて彼女に近づくまで、二人の接点はそう多くなかった。仕事でたまに顔をあわせる程度だった彼女を、たまに食事や酒に誘うようになってから初めて、会話らしい会話をしたくらいだ。
 実際牧野はあのとき、堂々と交際できる女でさえあるなら、付き合う相手は誰でもいいと思っていた。それまで深い付き合いもなかったのに、すぐにプロポーズを受け入れた美穂里もまた、似たような気持ちでいると思っていたのに、それは間違いだったのだろうか。
「……無意味なら、だったらどうして私に結婚を申し込んだの?」
 綺麗に伸ばした爪先を掌に強く食い込ませながら、美穂里がいつかと同じ問いを投げてくる。
「何の感情もないなら、どうして。それなら結婚なんてしなければ良かったじゃないっ」
 ついに耐え切れなくなった彼女の頬を、ぽろりと涙が伝い落ちた。ぽろり、ぽろりと、堰を切ったように涙が次々と溢れ出てくる。
「秋則が、あなたの血を引いていないのがダメなの だったら何で私を抱こうとしてくれなかったの! あなたがあんな風でなければ、私だって……」
「お前を抱けなかったのは、俺がゲイだからだ」
 端的すぎる言葉に、何を言われたのか咄嗟に分からなかったのだろう。「え?」と呆然と呟いた美穂里に、牧野はもう一度繰り返した。
「俺はゲイだ。そのことをマスコミに嗅ぎつけられて、カモフラージュのためにお前に結婚を申し込んだ。お前を抱くことができなかったのも、そのせいだ」
 改めて言葉にすると、我ながら最低の理由だと思う。しかし偽りを言ったところで美穂里の怒りを宥められるとは到底思えなかったから、牧野はただ事実だけをありのままに、彼女に教えた。
「何それ。わたしを……、利用したの? そのためだけに、結婚したって言うの?」
 信じられないように聞いてくる彼女に、牧野がただ頷きを返すと、呆けていた顔がみるみる怒りに染まり出した。
「ふ、ふざけないでよっ。そんな、そんな理由で結婚されて、私のことを何だと思っているの しかもその挙句に、離婚しろだなんて」
「すまなかったと思っている」
「そんな言葉ですまされるわけがないでしょう! この一年、私がどんな思いであなたを待っていたか……」
 言いながら、気が抜けたようにその場にへたり込む。ショックのあまり涙も止まってしまったようだった。
「ゲイだったなんて……」
 呟きながら、首が重たくてたまらないようにうなだれた。「馬鹿みたいだわ」と呟く。何度も何度も「馬鹿みたい」と繰り返し、なんとか落ち着こうとするように息をついて、ふらふらとさ迷った視線が、腕に抱えている息子の顔に最後にたどりついた。
 その瞬間、混乱しきっていた眼差しがすっと冷静さを取り戻す。「女」のものだった顔が、ゆっくりと「母親」のそれへと変わっていった。
「それだって……」
まだ唇が震えていたが、牧野を見上げる眼差しは、先ほどよりもしっかりと強かった。
「それだからって、やっていけない理由にはならないわ。あなたにだって家族がいてもいいでしょう。元々カモフラージュのために結婚したって言うのなら、なおさら」
「……それで、お前は幸せになれるのか?」
 問い返すと、美穂里はまた言葉を失う。だが、たとえ美穂里がそれでいいと言っても、牧野は頷くわけにはいかない。この家を出た時と今とでは、状況が違う。自分が一緒にいたいと願う相手は、彼女ではなかった。
「恋人が、いるんだ。俺はあいつと一緒に生きて行くつもりだ」
 だから繕うことなく告げると、美穂里は目を見開いた。
「……恋人までいるの? 何て勝手な人」
 呆れたように言ってから、「それは私も同じね」と自嘲するように笑って、幼い息子の小さな手を撫でる。この子どもは、彼女が夫以外の男と通じてできた子だった。
ふうとため息を漏らし、上げられた美穂里の視線は、先ほどまでとはどこか違う光をたたえていた。
「結局、私が憧れていたあなたの姿は、全部虚像だったっていうことなのね……」
「憧れていた?」
「憧れていたわ。むかし、撮影所で仕事を始めたばかりの頃」
 美穂里の目が、過去を思い出すように宙をさ迷う。
「たまたま、あなたの演技を直接見る機会があったのよ。でも、それが演技だなんてとても思えなかった。あなたは血の繋がっていない子どもを引き取って育てる父親の役で、子どもを本当に愛しそうに眺めていて」
「――『僕たちなりのしあわせ』っていうやつか?」
 倉橋の言葉を思い出しながら言うと、美穂里は驚いた顔になる。
「覚えていたの?」
「全然、忘れていた。そんなドラマがあったことさえ、覚えていなかった」
 まして、自分が演技中にどんな顔をしていたかなど、まったく覚えていない。演技は演技だ。自分の役が子どもを可愛がる父親だったと言うのなら、そのように牧野は演じただけだった。
 陰のある表情で、美穂里が「そんなものなのね」と呟いた。
「あの撮影を見たときから、こんな人と結婚したら、きっと幸せになれるだろうって思いこんでいたわ。普段は無口で表情が少なかったけど、それさえ格好よく見えて、直接会えたときなんか、緊張で口が聞けなかった。あなたと付き合うようになって、結婚まで申し込まれたときには、夢でも見ているかと思ったけど」
 まさかカモフラージュにされていたなんて、と美穂里はまた自嘲する。
「結婚の話までしているのに、あなたは婚約中もキスは顔をしかめながらするし、私の体にまともに触れようともしてくれなくて……。よほど私に女としての魅力がないのかと焦った。だから自信をなくして落ち込んでいたときに、男の人から誘われたときは素直に嬉しかったわ。まさか子どもができてしまうなんて、その時は思わなかったけど」
 言いながら、愛しげに息子の頬を指先で撫でる。その感触がくすぐったかったのか、赤ん坊が小さな手で美穂里の指を握り返しながら、きゃっきゃっとはしゃいだ。強張っていた美穂里の頬が、ふっと和らいだ。
「結婚してすぐ、この子ができたことがわかった時も嬉しかった。たとえ血の繋がらない親子でも、これであのドラマみたいに完全な形の家庭が手に入ると思った」
「完全な形?」
「ずっと憧れていた人と結婚できて、立派な家があって、可愛い子どもがいて。……あなたは馬鹿みたいだと思うかもしれないけど、私はそんなものがとても、どうしても欲しかった」
 美穂里が家族縁に薄かったことを、牧野はその言葉で思い出す。彼女の両親は早くに他界し、兄弟は元々いない。そんな彼女だからこそ、自分に与えられなかったものを必死で手に入れようとしたのだろうか。「夫」としての牧野を執拗に欲しがった彼女が描いていた夢は、一体どんなものだったのだろう。
牧野にとっては、面倒くさい親戚づきあいがないこと自体が、美穂里と結婚する上での大きなメリットだったのだが、互いに望んでいたものがまったく違っていたことを改めて知る。美穂里もそれはもう分かったのか、「そろえたパズルの一ピースを、私は完全に間違えてしまったと言うことなのね……」と疲れ果てたようなため息を吐いた。
 それでも無邪気な顔ではしゃいでいる息子の顔を見るときだけ、美穂里は少し表情を緩めた。少なくとも、手許に残ったたったひとつのピースだけは、彼女が求めたとおりのものだったらしい。
「……ねえ、さっき話していたあなたの恋人って、男の人?」
「ああ」
「結局男の人じゃなきゃ、ダメだったって言うこと? 私が女だから、暮らしていけないっていうことなの」
ほんの少し考えて、牧野は「いや」と首を横に振った。もちろんそれもあるだろう。自分がゲイでなければ、庄司に惹かれることもなかったと思う。しかしだからといって、それはもちろん誰でもいいというわけではなく……。
「あいつだから、一緒に暮らしたいと思ったんだろう」
その言葉に、美穂里は疲れたような顔で、もう一度「馬鹿みたい……」と呟いた。
 結局その日、美穂里から離婚を受け入れるというはっきりとした言葉は聞けなかった。しかし家を後にするとき、最後に見た彼女の瞳からは、それまで牧野に一途に向けられていた熱のようなものは、跡形もなく消え去っていた。


 ――その後しばらくして、美穂里から一通の封書が、事務所宛に届けられた。
開けると中には美穂里の署名と捺印の入った離婚届、そして「そちらの都合のよろしい時に届け出てください」という短い言葉がしたためられた、一葉の便箋が入っていた。
 離婚届が届いたのと前後して、美穂里は広尾の家を出たらしい。
倉橋がその後噂を聞きつけて、牧野に教えてくれたところによると、美穂里は東京を去り、知人の伝手を頼って、関西で再びスタイリストとして仕事を始めたという。自分の力だけで、子どもを育て上げる決心をしたのだろうか。それとも新たな土地で、まったく新しい人生を築こうとしたのか。
 慰藉料を求める言葉は手紙にはなかったが、離婚の正式な手続きを始める前に、牧野は倉橋に頼んで、彼女の口座宛てに毎月一定の額の金が振り込まれるよう手配してもらった。もしこれが必要ない金だとしたら美穂里からなんらかの連絡が入るだろうし、もし暮らし向きに困るようなことがあれば、そのときは彼女の好きなように使ってもらえればいい。
 美穂里やその子どもに未練があるわけでも、際立った関心があるわけでもない。しかし彼らに不幸になって欲しいとは、牧野は少しも思わなかった。

-Powered by HTML DWARF-