永遠までの一秒
9
――自分の部屋の前に立ち、庄司がキャビネットの中から発掘してくれていた鍵で扉を開けると、控えめに灯された壁付け灯の明かりが牧野を出迎えた。
沓脱の片隅に自分のものよりワンサイズ大きい靴が綺麗に揃えて置かれているのを眼の隅で確認し、ぞんざいに靴を脱ぎ捨てて部屋に上がると、音を聞きつけた庄司がすぐにリビングから姿を現した。
「お帰りなさい、牧野さん」
少しはにかんだような笑顔で「お帰りなさい」と出迎えられるこの時が、一番相手の思いを信じられる時なのかもしれないと、牧野は丈高い相手の顔を見上げてぼんやりと思った。自分に会いたかったのだと、戻ってきてくれて嬉しいのだと思う相手の感情が、惜しみなく伝わってくる。
リビングに入ると、右奥にあるキッチンのほうから芳しいコーヒーの香りが漂ってきた。牧野の帰りに合わせて、庄司が用意しておいてくれたのだろう。少し前まで埃っぽく、雑然としていた部屋は、庄司の努力によって綺麗に片付けられ、気持ちのいい空間に戻っている。
コーヒーの香りと庄司の気配と、温かなもので満たされた部屋を見ていると、ちりっと胸の奥が痛んだ。この得がたい温かさを、たとえ束の間といえども手放すのやはり辛くて、牧野は胸の痛みに堪えるようにぎゅっと眉根を寄せ、唇を噛み締める。
「牧野さん?」
様子がおかしいことに気づいたのだろう。庄司が心配そうに表情を曇らせ、そっと手を伸ばしてくる。
肩を抱こうとしかけたその腕を避け、牧野はどさっと倒れこむようにソファに座って、鬱陶しい表情が消えてくれない顔を掌で覆い隠した。女々しい理由で弱っている顔を、庄司に見せたくなかった。
そんな頑なな牧野の仕草に、よほど疲れているものとでも思ったらしい。庄司はキッチンから運んできたコーヒーをふたつ、ロウテーブルの上に置くと、ほんの少し距離を開けて牧野の隣に座った。
掌をずらすと、こちらを見詰めている優しい眼差しと視線がぶつかる。ゆっくりと近づいてくる手を、牧野は今度は避けなかった。包み込むように抱きしめられ、ほっと息を吐く。
「なにかあったんですか」と訊いてくる庄司に曖昧に頷き、力強い腕に励まされるように、牧野は思い切って口を開いた。
「――頼みがあるんだ」
「頼み?」
「しばらく、この部屋には来ないようにしてくれ」
唐突な言葉に、牧野を抱きしめていた体がバキンと凍りついた。
あまりにも簡潔すぎる自分の言葉がどんな誤解を招くのか、ろくに考えられもしないまま、牧野は嫌なことを早く言ってしまいたい一心で、口早に話す。
「明日にでも、一度家に戻って、妻と話をしてくる。その後はしばらくお前とは会えなくなるから……」
「――奥さんと仲直りする気になったんですか?」
すっと、庄司の腕が体から離れていった。冷え冷えとした声に言葉を遮られ、牧野はハッと顔を上げる。すぐ傍らにある男の顔からは、拭い去ったかのように一切の表情が失われていた。
出会ったときからこの男のこんな表情は一度も見たことがなくて、牧野は驚きのあまり口を閉ざした。自分の言動が他人にどう受け止められるかについて、牧野はあまり深く考えたことがない。だから、自分の言い様がいかにもまずかったと気づいたのは、そのあとの庄司の言葉を聞いてからだった。
「家庭に戻るというのなら、俺はもう用済みですか?」
苦痛を堪えるような、痛ましい声だった。そして深々と吐息する。
無表情のあとを疲れ切ったような、なにかを諦めたような表情が覆っていく。その顔を見た瞬間、思い出すのも辛い過去の記憶が怒涛のように蘇ってきて、牧野はさっと蒼ざめた。
長谷川に別れを告げたとき、彼もこんな表情をしていた気がする。怒りや悔恨や苦悩や、そんなものをすべて投げ捨ててしまったような、乾ききった表情。
なにも言葉が出てこなかった。そんな牧野に、庄司も言うべき言葉が見つからなかったのだろう。沈黙が数秒続き、激しい緊張状態に耐えきれなくなった頃、不意に庄司が立ち上がった。
「……ど、どうしたんだ?」
恐る恐る牧野が問うと、低く「帰ります」と告げてくる。
「話が急すぎて何も考えられないから、今日は帰ります。頭が冷えたら、俺のほうから連絡しますから」
牧野の顔を見ずにそう言うと、まだ湯気を立てている自分の分のカップを持って、キッチンに向かおうとする。カップを片付けて、そのまま帰ってしまうつもりなのだろう。
こちらに向けられた背中に、あの日の長谷川の記憶が重なった。長谷川も、こうして牧野の側から立ち去って、そして二度と帰ることはなかった。またあの日の繰り返しになるのかと思った瞬間、牧野は咄嗟に庄司の足に飛びついていた。
「うわっ!」
バランスを崩した庄司の体が、牧野の上に倒れ込んでくる。ぶつかると思った寸前で庄司が体をよじり、辛うじて難は避けたものの、代わりにカップの中身がこぼれて、黒い液体が二人の体の上と床に派手に降り注いだ。そのしぶきの熱さに二人は同時に悲鳴を上げる。
「ふ、布巾っ」
すぐに庄司が拭くものを取りに、キッチンに駆け入ろうとする。その胴に、牧野は再びタックルを掛けた。しゃにむに抱き着いて引き止めようとする牧野に、庄司が困惑しきった顔で足を止めた。
「牧野さん、いったいどうしたんですか」
牧野のシャツにはコーヒーの大きな染みがつき、眼鏡はずり落ちかけて散々な有様だ。そんな自分の姿を顧みることもできず、牧野は必死に声を振り絞った。
「誤解だ」
「牧野さん?」
「家に戻るというのは、あの女とよりを戻すためじゃなくて、むしろその逆で」
「……どういうことですか」
焦って言い訳しようとすればするほど、舌がもつれる。いい年をした男の話し方ではないと自分でも思うが、気が急いてしまって、どこから話し始めればいいのかさえよく分からず、いっそ泣きたくなった。
ふいに優しく肩を叩かれる。見上げたところにある庄司の顔は、もう怒ってはいなかった。安堵してふっと力が抜けた牧野の肩に手を置き、「分かりましたから」と穏やかな声が言う。
「なにか事情があるのは分かりました。だからそんなに焦らないで、ゆっくり話を聞かせて下さい」
促されて、牧野は今度こそ人並みに話を進めることができた。
子どもが生まれてから、牧野に執着を見せるようになった美穂里のこと。彼女と離婚したいと思っていること。離婚が決まるまでは、周囲の騒動を避けるため、庄司と今までのように会うわけにはいかないこと。
なんとか順を追って話すうちに、庄司は次第に考え込むような顔になっていく。怒っているわけではなさそうだったが、牧野はそんな表情にさえ不安に駆られて、恐る恐る声を掛けた。
「……まだ怒っているのか?」
「いいえ」
まさかそんなと庄司はきっぱりと首を横に振ったが、それでも牧野の不安は消えなかった。
長谷川と別れた時の記憶はほとんどトラウマのように残っていて、牧野を時折ひどく臆病にする。だからつい、懇願するように言ってしまった。
「何でもするから、許して欲しい」
切羽詰まった様子の牧野に、今度は庄司が焦り出す。話はよく分かったから、自分には怒る理由なんて何もないと重ねて言われたが、牧野は到底納得できずに何度も首を横に振った。何かしなければ、何かの証を得なければ、安心することなどとてもできなかった。
頑固に同じ言葉を繰り返す牧野を、庄司もなんとか宥めようとしていたが、途中でふと、何か思いついたような顔になる。口を開いて何事かを言いかけ、しかしすぐに思いとどまって口を噤んだ。
「何かあるのか?」
何か望むところがあるなら、はっきり言ってくれと牧野は迫った。自分が人の気持ちを読むことに長けていないことは、よくよく知っている。口に出してもらわなければ、牧野は庄司の心情の機微などとても察することができなかった。
強く促されてなお、庄司はためらう素振りを見せた。それでも諦めずに言葉を繰り返していると、ようやく恐る恐るといった感じである願いを口にする。
「お願いというか、もし、もし嫌でなければ、なんですけど……」
膝の上で、庄司の両手が強く握り締められる。深呼吸するように、大きく息を吸い込んだ。ひどく緊張しているのが、その仕草から見て取れた。
「長谷川さんの……、携帯番号を」
それだけ言うのにも十秒近くかかっているのに、庄司はそこでまた口を噤んでしまった。「岳の携帯番号が何なんだ?」と牧野が尋ねても、「すみません、俺が卑怯でした」と訳の分からないことを言って、心底恥じ入ったように俯いてしまう。
「付け込んで、無理矢理してもらっても意味がないのに……」
そう小さく呟いた言葉の意味すら、牧野にはさっぱり分からない。
岳の携帯番号が一体何だって言うんだと、仕方なく独力で考え始めて、思いついたのは庄司が長谷川の携帯電話の番号を知りたがっているのではないかということだった。
長谷川は一流の俳優だ。その演技の質の高さは牧野も十分に知りぬいている。感性のみで勝負しているような牧野の演技に比べ、長谷川の演技は優れた感性に加え、深い知性をも感じさせる、より上質のものだった。
相手役との間の計り方のうまさや、役に対する研究の熱心さでは、牧野は彼に到底及ばないものを昔から感じている。長谷川の優しげな風貌に魅せられる女性ファンが多いのは事実だが、彼の演技に心酔する男性ファンがけっして少なくないのもまた事実なのである。
もしかしたら庄司も長谷川のファンのひとりで、彼の携帯番号を知りたいと思ったのかもしれない。たとえ実際に掛けることがなくても、憧れのスターの連絡先を知っておきたいと願う人間が少なくないのは、牧野も同じ業界に身をおく者としてよく知っている。
牧野のファンだと庄司は以前に明かしていたから、他の俳優、ましてや以前の恋人の携帯番号などを知りたいといえば、自分が気を悪くすると遠慮したのかもしれない。あるいは個人の連絡先を、無断で他人から知ろうとする行為を恥じたのかもしれないとも思った。
さて、そこまで見当をつけて牧野は困ってしまった。
別に長谷川の携帯の番号を教えてやるのは構わない。庄司はもう週刊誌の記者ではないことだし、自分の恋人が人の迷惑になるような電話の掛け方をする人間ではないと、牧野は信じている。
それでもなお、長谷川の番号を教えることは難しかった。しばらく悩んだものの、他にどうしようもなく、牧野は正直なところを庄司に伝える。
「岳の携帯番号なら、もう教えられないぞ。俺の携帯からは番号を削除したし、去年までのスケジュール帳も処分してしまったし……」
そこで言葉が途切れてしまったのは、庄司が物凄く驚いた顔をしたからだ。そんなに岳の番号を知りたかったのかと改めて驚きつつ、牧野は慌ててフォローを試みる。
「う、うろ覚えになってしまったが、大体の番号なら覚えているぞ。最初は暗記していたけど、携帯のメモリダイヤルを使ううちに、気がついたら忘れていたみたいで。数字の並び順にいまいち自信がないんだが、それでもいいんならすぐに教えて……っ」
今度も、牧野は最後まで言うことができなかった。いきなり庄司が強い力で、牧野を抱きすくめてきたからだ。番号を教えてもらえると聞いてそんなに感動したのかと思っていると、「長谷川さんの携帯番号を削除したって、いつのことですか?」と、思いがけないことを訊かれた。
そんなことを聞いてどうするのだろうと内心疑問だったが、別に隠すことでもないので教えてやる。
「お前にもう一度会いに行った日に」
それは、春の舞台が千秋楽を迎えたその日だった。
舞台がはねたあと、盛大な打ち上げが開かれる中、牧野は場が盛り上がってくるのを見計らって、騒ぎに紛れてそっと席をたち、庄司のアパートへ向かった。
その道の途中で、牧野は自分の携帯から長谷川の番号を消したのだ。別れたあとも大事に残してきたその番号を消すことに、躊躇いがなかったわけがない。だが牧野はその時、庄司に会いに行くのならば、その前にどうしてもけじめをつける必要があると感じていた。
庄司と再び会えば、自分が得がたいものを手にできる確信が、どこかにあった。そしてそれを手にしたいのなら、自分が今まで大事に抱えてきたものを、代わりに手放す必要があると思った。
そのどちらもが牧野にとってはあまりにも重くて大切すぎるもので、両方を同時に抱え込むことは不可能だと感じたからだ。もし無理に両方とも抱え込もうとすれば、遠からずそのどちらをも抱えきれずに落としてしまうことだろう。
そんなことになるのが嫌で、だから牧野は考えて考えて、悩みぬいた末に、とうとう決意したのだ。携帯から長谷川のメモリを消して、彼と繋がる最大の接点を自ら失うことを。そしてその後、牧野は再び訪れた庄司のアパートで、かけがえのないものをもう一度、その手に確かに掴んだ。
……庄司はしばらく言葉もないまま、牧野の顔を見詰めていた。一体どうしたんだろうと不安になるまで見つめられた後、静かにその顔が近づいてくる。
反射的に、牧野は瞼を閉じていた。掛けていた眼鏡が外される音がして、すぐさま熱い唇が重なってくる。しばしその感覚に酔いしれて、牧野がようやく眼を開けたとき、焦点が合わないほど近くにある男の顔には、堪えきれないような笑みがたたえられていた。
「どうした」
「え?」
「何で笑っているんだ」
あまりにも優しいその笑みに無性に気恥ずかしい思いに駆られて聞くと、庄司はますます笑みを深めて、牧野の頬を両手で包み込んでくる。
「嬉しくて嬉しくて、仕方がないからですよ」
意味が分からず首を捻っても、庄司は何が嬉しいのか具体的に説明しようとはしない。うろ覚えの長谷川の携帯番号を聞かれることもない。そのうちまた唇が重なってきて、牧野の思考は呆気なく蕩けていった。
舌を絡めながら、しばしゆったりと互いの味に酔う。歯茎の裏を舌先でなぞられると、ぞくぞくと快感が背筋を這い上がってきて、牧野は咄嗟に相手のシャツの胸倉を掴んだ。その動きに何を勘違いしたのか、庄司がハッとしたように体を離し、牧野の手が掴んでいるあたりに視線を落とす。
「ああ、これはもう落ちないかも」
唇を離し、コーヒーが飛び散った自分のシャツを引っ張って、庄司がため息を吐く。シャツの前面に飛び散ったコーヒーの滴の跡は、もうほとんど乾いてしまっていた。
「俺の服は安物だからいいですけど、牧野さんのは……。なんとか染みを抜けないかな」
「俺のだって、そんな高価な代物じゃないぞ」
「そうですか?」
余韻を追うように、もう一度軽く口づけられる。そして庄司は身軽に立ち上がると、リビングと繋がっているキッチンから雑巾を取ってきて、コーヒーで汚れた床をせっせと拭き出した。
「とりあえず、床がフローリングでよかったですよ」
俯いて作業するそのシャツの背に、くっきりと肩甲骨の陰が浮き上がる。抱き合ったとき、必ず指に触れるその骨の感触を思い出し、牧野は誤解が解けたことで気持ちが落ち着いてくると同時に、また腹の奥から熱い情動が湧き上がってくるのを感じた。
今日からしばらくの間会うことができないのだと考えると、差し迫った危機感すら覚え、床を拭き終わって雑巾を手にキッチンへと戻ろうとする庄司の袖を乱暴に引っつかむ。そのまま強引にバスルームへと男を連れ込んだ。
「ま、牧野さん?」
「早く服を洗わなきゃいけないだろう」
高価なものではないと言ったばかりなのにそんなことを言って、牧野は手早く身に着けているものを脱ぎ去り、洗濯機の中に放り込んだ。露になったその体に、明らかな情欲の証が兆しているのを知り、戸惑っていた庄司の顔にもたちまち飢えたような色が浮かびあがる。先に浴室へと足を踏み入れると、すぐに庄司も服を脱いで後を追ってきた。
熱いシャワーに体を打たれながら、二人は無言で激しく抱き合った。
――浴室の中でのぼせるまで互いを貪ったあと、濡れた体を拭うのももどかしく、尽きせぬ餓えをさらに癒すため、二人は寝室へ足を踏み入れた。
取り替えられたばかりの清潔なシーツが敷かれたベッドの上に、もつれるようにして倒れこむ。上がってしまった息を整えようと、牧野は必死で喘いだ。度を越えたセックスにすでに体は疲れきり、下肢は感覚さえ失いかけているのに、まだ相手を欲しがる気持ちが止まらない。
そんな牧野の体を大きく開いて、庄司が自らを突き入れてくる。シャワーの下で、浴槽の中で、すでに何回か男を迎え入れたそこは、弾力のあるきつさはそのままに、誘い込むように蠕動しながら熱く庄司を迎え入れた。
互いの体が繋がって、初めて安堵の息をつける気がする。なのにこの感覚も、これからしばらくの間失わなくてはいけないのかと思うと堪らない気持ちになり、離れがたさを伝えるように、牧野は庄司を固く抱きしめる。
「義人」と、情事の間だけ呼び始めた名前を牧野が口にすると、庄司もまた切なげに目を細めて、優しい口付けを与えてくれた。
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