永遠までの一秒

 ――いつまでも、このままでいられるわけがない。
 美穂里からの連絡をすべてシャットアウトしながらも、牧野は見過ごしにはできないほど悪化しつつある状況を鬱々と思い、ため息をついた。
 明らかに今の状況は不自然だ。それははっきりしている。さらに悪い事態を招いてしまう前に、なにか手を打っておくべきだというのは、さすがの牧野にも分かっていた。サポート役の倉橋にもずっと心配を掛け通しで、悪いと思わないでもない。
 それでもすぐに動き出す気にはなれず、そもそもどうすれば事態が改善するのか分からなくて、牧野はそのうち一度倉橋や事務所の社長と相談してみようと考えながら、結局はいつもどおり仕事に行っては演技に没頭する日々を送っていた。
 しかしすぐに、そんな悠長にしている場合ではなかったと、思い知らされる羽目になる。
 その日は朝から仕事が立て込んでいた。午前中に秋の単発ドラマの撮影があり、昼ごろから同じスタジオ内でテレビ雑誌の取材を一本こなして、すぐに今度は連続ドラマの撮影のため、別のスタジオに移動した。
 慌しくスタジオの廊下を歩きつつ、倉橋とこの先のスケジュールについて確認し、用意された楽屋の扉を何気なく開いて……。
 そこで待っていた思い掛けない人物の姿に、牧野は咄嗟に自分の目を疑った。
「おつかれさま、秋久さん。倉橋さんもご無沙汰しております」
 朗らかな、やや高めの声。親しみに満ちた笑みを浮かべて牧野たちを迎えたのは、清楚な装いに身を包んだ、まだ年若い女性だった。ほっそりとした腕には、健やかな寝息を立てて眠る幼い子どもを抱えている。
「美穂里さん!?」
 真後ろにいた倉橋が牧野の肩越しにその姿を見て、ギョッとしたように上ずった声を出した。牧野は口を利く気にもなれず、ひたすら腹立たしい思いで目の前の女を眺めやる。
 書類上は、自分の妻である女。しかし彼女とこうして顔をあわせたのは、ほぼ一年ぶりだ。それなのに、まるで今朝牧野を家から送り出したばかりというような彼女の挨拶は、違和感ばかりを伴った。
「どうしてここに。いったいどうやって……?」
 表情を強張らせて押し黙る牧野と、にこにこと微笑み続ける美穂里の顔を見比べ、困惑しきっている倉橋の問いに答えたのは、美穂里ではなく、部屋の奥でデリバリーの食事を配膳をしていた女性スタッフだった。見覚えのある顔だ。たしか倉橋のアシスタント的な役割をこなしている、事務所の新人スタッフだったと思う。
「奥様から事務所にお電話を頂いたんですよ。どうしても牧野さんのお仕事ぶりを見たいとおっしゃられたので、こちらにお連れしました」
 気が合ったのか、にこにこと明るい笑顔を美穂里と交わし合う彼女に、倉橋は苦々しさを隠し切れない顔で、楽屋の扉を後ろ手に慎重に閉めながら問いかける。
「僕にはなにも連絡がなかったようだけど、これは君の独断で?」
「え? 独断というか……。奥様のお電話をお取りしたとき他に誰もいなかったし、私もこちらのスタジオに来る用事があったので、ちょうどいいかと、思いまして……」
 楽屋内に漂う険しい雰囲気をさすがに肌で感じ取ったのか、しどろもどろに言い訳する彼女を庇うように美穂里が一歩前に進み出た。牧野の顔を媚と怖れが微妙に入り混じった顔で見上げる。
「秋久さんの携帯に突然電話が掛からなくなったから、心配になってしまったの。それに久しぶりに秋久さんの仕事場を見てみたかったし、事務所の方にお願いしてみたら、快く承諾して下さって」
 お邪魔だったならごめんなさいと、電話での金切り声が嘘のように穏やかな声で、殊勝げに俯く。牧野の家庭が崩壊寸前であることは、事務所内でも慎重に隠されている。多分倉橋のほかには、社長くらいしか詳しい状況を知らないはずだ。彼女を連れてきた事務所のスタッフも、まさかこの夫婦の仲が最初から冷め切っていて、一年間も別居したままだとは思いもよらなかったのだろう。
 しかし連絡がつかなくなったからと言って、こんなところに子供まで連れて押しかけてきて、にこにこと笑っている女が、牧野には薄気味悪くて仕方なかった。厳しい顔で黙り込む牧野を見て、何の事情も知らないスタッフも、不安そうに顔を曇らせていく。そんな彼女に、倉橋が穏やかな顔を繕って、何気なく声を掛けた。
「香奈枝(かなえ)ちゃん、ちょっと第七スタジオまで行って来てもらえるかな。撮影の準備がどの程度進んでいるか、確認してきてくれる?」
「え、でも……」
「いいから。早く」
 声音の優しさとは裏腹な強引さで彼女の肩を抱き、扉の外に連れ出す。すぐには戻ってこられないように、他にもいくつか細々とした用事を頼んで彼女を送り出すと、倉橋は一人だけ部屋の中に戻ってきて、もう一度慎重に扉を閉じた。
 パタンというその音はごく静かなものだったが、もともと眠りが浅かったのだろう。美穂里の腕の中で眠っていた子どもが急にむずがりだした。小さな拳を固く握り締めて、手足をばたばたさせながら泣く子どもを、美穂里は宥めるように優しく揺すり上げる。
「あらあら、どうしちゃったの? お父さんに会えて、興奮しているのかしら」
 ホームドラマの脚本をなぞるような台詞。自愛に満ちた眼差しを注ぎながら、美穂里は腕に抱えた子どもを牧野によく見えるようにする。
「秋久さん、抱いてあげて。あなたの子どもよ」
「――ふざけるな」
 押し殺した低い声が、唇からこぼれた。女の白々しい態度に、自分の作り上げた設定の中に無理矢理牧野をはめ込もうとするかのような言葉に、ただただ違和感と苛立ちばかりが募る。
 それ以上言葉を掛けてやる気にもなれず、牧野は無言で身を翻した。楽屋から出て行こうとドアノブに手を掛けたが、扉を開く前に、急に余裕をなくした美穂里が追いすがってくる。
「待って! ねえ、抱いてあげてよ。よく顔を見てあげて! 可愛いでしょう、あなたの子どもなのよ」
 ぐいぐいと、胸のあたりにやわらかな赤ん坊の体を押し付けられる。その乱暴な扱いに、ぐずっていた子どもが激しい声で泣き出した。
「ほら、秋則だって、寂しいって泣いているじゃない。お父さんが抱いてくれないから、さみしいさみしいって泣いてるのよ。せめて顔をちゃんと見てあげて」
「いい加減にしろ!」
 たまらず、牧野は怒鳴りつけた。大声に怯えた赤ん坊がさらに激しく泣き叫ぶ。火を煽がれたように、牧野の苛立ちもいっそう強くなった。
「その子どもの父親は、お前が見境なくセックスした、どこかの馬鹿な男だろう! 父親役が欲しいなら、その男なり、別の男なりにまた股を開いて頼んでこればいい。俺はお前にもその子どもにも一切関わるつもりはないし、興味もない。二度とこんな場所に図々しく顔を見せるなっ」
 みるみる蒼ざめていく女に、容赦なく怒鳴りつけた。どんなに距離を置き、離れようとしてもまとわりついてくる、羽虫のようにしつこい女に、本気で嫌悪を覚えた。
 血のつながりもない子どもを牧野に見せ、可愛がって抱きしめろといい、一体それで何が生まれ得るというのか、いっそ教えて欲しい。
 凍りついたような沈黙に覆われる空間に、赤ん坊の泣き声だけがこだまする。真っ赤な顔でわめく我が子を固く抱きしめ、棒立ちになった美穂里に背を向けて、牧野は苛立ちを殺しきれない声で倉橋に言った。
「五分、出てくる。その間にこの女をどこかに連れて行ってくれ」
 ひくっと喉が鳴る音が聞こえた。次いで、嗚咽が追いかける。子どもの泣き声ではない。悲痛な、女の泣き声。
「……なんで」
 ぽそっと、乾いた声が枯葉のように空間に落ちた。
「どうしてそんなに冷たいの? 家に帰ってきてもくれないの……?」
 思わず振り返る。美穂里は頬を涙の粒で汚しながら、じっと自分の足もとを見詰めていた。
「家があって、子どもがいて、他になにが必要なの? なにがあったら満足なのよ。『血の繋がりのあるなしなんて関係ない』って、『家族の笑顔さえあれば幸せだ』って、あんなに優しい顔で言っていたのに。あたしもあんな家庭を作りたかったのに……っ」
 なにを言われているか分からず、牧野は目を瞬かせた。そんな言葉を美穂里に掛けてやった記憶はない。ずっと自分のことだけに夢中で、美穂里には結婚前から優しい振る舞いひとつ、ろくにしてやった覚えがないのに。
 呆然と女の泣き顔を眺めていると、傍らで倉橋が「あっ」と、なにか思い当たったような声を上げた。
「『僕たちなりのしあわせ』か……」
「なに?」
 その言葉を、どこかで聞いたことがあるような気はした。だが、すぐにはそれが何か思いつかない。倉橋に問い質してみたかったが、彼は美穂里に憐れむような視線を向けたまま、口を閉ざしてしまった。
 狭い室内に、ふたつの泣き声がユニゾンで響き、止む気配もない。金属的な声に怒涛のように襲われて、牧野は絶え間なく殴られているかのような頭痛を覚えた。
(一体これをどうしたらいいんだ……)
 泣き声は楽屋の外まで漏れているだろう。このあと、これがどんな騒動に発展していくかと思うと頭が痛くなる一方で、美穂里のあまりにも悲痛な慟哭に、牧野の中にも彼女に同情する気持ちが次第に湧き上がってくる。
 場所柄もわきまえず泣く女をうとましく思う気持ちは、もちろんあった。しかしこれほど美穂里が傷ついていたとは、牧野はこれまで考えたこともなかった。ただ女特有のヒステリックな感情で、苛立ちを牧野にぶつけようとしているだけだと思っていたのだ。
 美穂里の不貞が明らかになってからは、一方的に自分の尊厳を傷つけられたような気になって家を出てしまったが、元はといえば牧野の過ちが発端で、ほとんど勢いのまましてしまった結婚だ。
 自分の都合に巻き込まれて、こんな泥沼の事態にはまり込んでしまった彼女に、初めて牧野は同情と罪悪感の入り混じった想いを抱く。自分の都合ばかり考えていた牧野に放っておかれることで、一体どれほど美穂里は傷ついてきたのか。
 今頃になってようやくそのことに思い当たり、牧野は言葉を失って、その場にただ立ち竦むしかなかった。

* * *

「――美穂里さん、相当切羽詰っていますね……」
 ステアリングを切りつつ、倉橋がポツリと呟いた。人気がないせいか、昼間よりもはるかに広く感じる道路を、牧野のマンションを目指して車が走っていく。
 夜の闇の中に、乗っている車の音だけがどこまでも響いていく気がする。疲れた体を後部座席に投げ出しながら、牧野は「そうだな」と短く答えた。
 あの後すぐに撮影が始まると香奈枝が知らせに来たため、話が中途半端なまま牧野は楽屋を出た。
 スタジオに向かう途中の廊下では、楽屋での騒ぎをもう漏れ聞いたのか、通りすがりの人間が幾人も、意味深な眼差しで牧野の様子をチラチラとうかがってきていた。この分では遠からず話に尾ひれがついて広まり、マスコミにいいように書き立てられることだろう。今から目に見えるようだ。
 泣きすぎて、その後糸が切れたように黙り込んでしまった美穂里と子どもは、撮影中に倉橋が自宅まで送り届けてくれた。この男もまた、思うところが多いのだろう。先ほどから難しい顔でフロントガラスを見詰めている。
 彼が見つめているのと同じ方向をただ何となく眺めながら、牧野は昼間の美穂里の姿を思い出す。
 彼女の行動が、牧野にはまったく読めない。一体彼女が何を求めて必死に自分に付きまとってくるのか、その理由が分からないから、牧野は戸惑うしかなかった。
 一方で、このままこの状況を放置しておくことに、言い知れぬ危機感も覚えている。このまま美穂里がさらに思いつめていけば、やがて何か取り返しのつかないことが起こるのではないかと思われた。
(――結局、もう逃げている場合じゃないということか)
 今日の騒ぎがマスコミに取り上げられれば、どの道問題に直面しなければならない日が必ずくる。何より、ここまで事態が悪化してしまった原因は、これまで美穂里と真剣に向き合おうとしなかった自分自身にあるように思えた。
 大きく息を吐く。そしてようやく牧野は覚悟を決めた。
「明日の撮影は、午後からだったな」
 聞くと、倉橋は手帳を取り出しもせず、すらすらと答えた。
「そうです。午後二時に今日と同じく連ドラの撮影があって、夜からは事務所で来年クランクインする映画についての打ち合わせを……」
「なら、明日の午前中、あいつと話してくる」
 流暢だった倉橋の言葉がぴたりと止まった。後部座席を振り返ろうとして信号の色が変わったことに気づき、慌てて車を発進させる。
「あいつって……、美穂里さんとですか?」
「ああ」
 バックミラー越しに倉橋と視線が合った。本気なのかと訊いてくるような眼差しに、牧野は小さく頷きを返す。倉橋は落ち着かない眼差しでなおもバックミラー越しに牧野の顔を眺め、なにか言葉を探し、結局思いつかなかったように口を噤む。そして運転に集中しようとするように、一度ぐっと強くハンドルを握った。
 やがて前方に、周囲の建物よりも突き抜けて高いマンションが見えてきた。あの中の一角に、牧野の住む部屋がある。
 引っ越してからも、寝に帰るためだけにあった部屋。だが、今日はそこに庄司が来ていて、牧野の帰りを待っているはずだ。スタジオを出る前に一度連絡を入れたので、彼がもう部屋に着いていることは分かっている。
 先日鍵を渡してから、庄司が牧野の部屋を訪れてくるのはもう数回目になる。彼のアパートに牧野の物がたくさん置かれているように、牧野の部屋にもここ数日で庄司のものが少しずつ増えてきた。
 たまに互いの都合が合わず会えないときでも、部屋に色濃く残る相手の気配が、牧野に言い知れぬ安堵と安らぎを与えてくれる。陳腐だが、こういうのを幸せというんだろうと考え、牧野はふと先ほど聞いたまま、心に引っ掛かっていた言葉を思い出した。
「――なあ、『僕たちなりのしあわせ』って、何だっけ?」
「え? あ、ああ」
 唐突な質問に倉橋は戸惑った顔になりながらも、すぐに答えを返してくる。
「ドラマのタイトルですよ。……牧野さんの主演作なんですけど、相変わらず自分の作品のこと、よく覚えていないんですね」
 台詞はすぐ覚えるくせに、忘れるのも本当に早いんだからと、呆れたように倉橋に言われても、やはりピンと来ない。牧野は首を捻った。
「俺のドラマ?」
「四年くらい前に、実話を元にしたホームドラマの父親役をやったじゃないですか。たしか二時間の単発だったかな。美穂里さんが言っていたのは、その中の一シーンの台詞のはずですよ」
 そこまで言ったところで、車はマンションの前に到着した。地下の駐車場に続く急坂を滑らかに下り、ややして停車する。牧野はもう少し詳しくドラマの話を聞きたかったのだが、車を停めた途端、一息つく間も置かずに倉橋が心底心配そうな顔で尋ねてきた。
「それより牧野さん。本当に明日、美穂里さんのところにひとりで行くんですか? 何なら僕も付き添いますけど……」
「馬鹿。お前がついてきてどうするんだ。ガキじゃあるまいし」
 確かになりは子どもではないが、無条件で信頼できるほど中身が大人なわけでもない。
 そんな牧野をよく知っている男がなおも不安げな視線を注いでくるのを無視し部屋へ向かおうとして、牧野はふと、そういえば自分はこいつにも、面と向かってきちんと話をしたことがなかったんだなと思いついた。
 倉橋が持ち前の鋭敏さで牧野の行動を読んでくれているのに甘えて、思えばちゃんと自分の性癖について話したことさえなかった。そんな自分が、きちんと美穂里と話し合うから安心しろと言って、たやすく信用できるはずがないことに思い当たる。
 だから、この忠実なマネージャーを安心させてやるために、牧野は口を開いた。
「今まで言ったことがなかったが……」
「はい?」
「俺はゲイだ」
 前置きのないカミングアウトに、こちらを振り向こうとしかけたまま、倉橋が硬直する。
「だから美穂里のことは抱けなかったし、あの子どもも俺の子じゃない。そのことで、お前に迷惑を掛けたことは悪いと思っている」
 そう口にしてから、先日庄司に、昔の自分は何をしてもらっても絶対礼を言わない人間だったと言われたのを思い出す。あの時は失礼な、と思ったものだが、ひょっとしたら自分が礼を言っていないのはこのマネージャーに対しても同じだったかもしれない。
 だから素直に頭を下げ、礼を言った。
「すまなかった。ありがとう」
 言った瞬間、倉橋が絶句した。息を止め、この世の終わりとばかりに凍りついた彼に、牧野は大いに機嫌を損ねる。
「――俺が礼を言うのは、そんなに珍しいか」
「はい」
 瞬時に返ってきた答えにますますむっとして、車を降りようとドアを開ける。しかしもうひとつ、倉橋にまだ教えていない大事なことがあったのを思い出し、牧野は運転席を振り返った。まだ呆然としている倉橋に、付け足しのように言う。
「最近、新しい恋人ができたんだ。その内お前にも紹介してやる」
「恋人……」
 倉橋の唇が機械的に動く。そしてにわかに戸惑った顔になって、聞き返してきた。
「すみません。オトコですよね、当然。その人……」
「当たり前だ。今まで何を聞いていたんだ、お前」
 たった今自分はゲイだと言ったばかりなのに、女を選ぶわけがない。複雑な顔で黙り込む倉橋に、牧野は当然のごとく言い放った。
「わざわざ教えてやったんだから、マスコミにこのことがばれないように、お前もしっかりと協力しろよ」
 とても人に協力をこいねがっているとは思えない尊大な態度で言ってくる牧野に、倉橋は頭痛をこらえるように額に手を当てた。「牧野さんって、本当に……」と、何やらぶつぶつ呻いている。
「何だ?」
 何か文句でもあるのかと顎を逸らすと、倉橋は諦めたように「いいえ」と首を振ってみせた。しかしすぐに気を取り直し、冷静な顔になって牧野と視線を合わせてくる。
「でも牧野さん、しばらくはその恋人の方とも会わないようにして下さいね。少なくとも、美穂里さんとの離婚が成立するまでは」
 言われて、一瞬息が止まる。だが牧野は、「分かっている」と答えるしかなかった。今日の昼間の騒ぎを聞きつけたマスコミが、美穂里との別居を調べ上げれば、遠からず身辺がうるさくなってくるのは間違いない。
 まさか長谷川と葉山の別居の時ほど騒がれることはないだろうが、週刊マダム誌がしつこくネタを取ろうとしてきたように、役者として知名度の高い牧野には、取材対象としての価値が十分ある。
 当然マスコミは別居の理由を探ろうと手を尽くすだろうし、万一牧野が男と不倫をしているなどということが明らかになれば、どんな騒動になるか。想像もつかない。
 庄司が元々女性週刊誌の記者だったことも気になる要素のひとつだった。牧野と庄司に肉体関係があることまでは分からなくても、庄司が牧野と親しい関係にあることを嗅ぎ付けられれば、いずれ庄司に意に染まぬ命令が下る可能性は、部署が変わった今でもないとは言えない。少なくとも、牧野に近づく手引きをしろ、くらいのことは簡単に言われてしまうだろう。
 庄司と一時的にでも距離を置く。先のことを考えるなら、それは絶対に避けられない事態だった。
「分かっている……」
 自分に言い聞かせるため、牧野はもう一度繰り返した。どうすることが最善なのかは、考えずとも分かる。だが、ようやく手に入れた穏やかな日々をまたしばらく失わねばならないのかと思うと、気が滅入るのはどうしようもなかった。
 以前庄司と会わずにいた期間は、わずか二ヶ月ほどの間だった。なのに、まだ互いの思いもはっきりしていなかったあの頃でさえ、物寂しい気持ちは牧野に常につきまとって離れなかった。
 今度はそんなに短い期間ではとてもすまないだろう。だがその辛さを乗り越えなければ、今手の中にあるものも失ってしまうことになるのだ。
 今牧野にできることは、一刻も早く美穂里との関係に決着をつけること。ただそれだけしかなかった。

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