永遠までの一秒
7
それまで周到に隠されていた庄司の真実の職業が、よりにもよって女性週刊誌の編集者であると知ったことが、彼からの連絡を断った直接の原因だった。庄司が嘘をついていることを、古くからの友人である秦野から教えられてすぐに、牧野はすっかり居ついていた庄司の部屋を飛び出した。
互いに結婚する以前、十年も恋人として付き合った長谷川と別れるきっかけを作ったのが、週刊誌の記者だった。興味本位で長谷川との関係を暴き立て、口を噤む代わりにと金をむしり取っていったような相手と、庄司が同じ穴の狢だったと知ったからには、これ以上ここにいることなどできるはずがなかった。
どうせ庄司も牧野の性癖を暴露し、面白おかしく記事に書きたてるために近づいてきたのだろうと秦野は言ったし、牧野もそう思い込んだ。そんな卑劣な男に気を許し、あまつさえ肉体関係まで結んでしまったのかと思うと、腹立ちのあまりどうにかなってしまいそうなほど、悔しくて仕方なかった。
二度と会うまいと携帯に着信拒否の設定を施し、庄司のアパートの近くには足も向けず、いつ自分のスキャンダルが週刊誌の表紙を毒々しい見出しで飾るのかと、怯えながら毎日を過ごした。だが庄司の下を去ってから何日経っても、何かが起こる気配すらなく、そのうちいくらか気持ちが落ち着いてくると、次第に牧野は取材が目的だったというには、庄司の行動はあまりにおかしかったのではないかと疑うようになった。
庄司がその気になっていれば、それこそ出会った日の翌日にも、泥酔して道端で眠り込む、無様な牧野の写真が週刊誌に掲載されていたはずだ。その程度のことでも記事になるだけの知名度が、牧野には一応ある。
ネタをためこんでおいて、あとから大々的に取り上げるつもりだったのかとも思ったが、牧野が抱え込んでいる事情のほとんどを、庄司はすでにほとんど知ってしまっている。情報の速さが命の週刊誌で、これ以上の材料をそろえる必要があるとはとても思えなかった。
それに、そうだ。そもそも、牧野自身が強引に庄司のアパートに押しかけていなければ、出会ったその日限りで二人の縁も切れていたはずなのだ。ただの取材対象に部屋を提供し、コーヒーや食事を出し、あまつさえ夜一緒に寝てくれるなんてことがあるだろうか。仕事でそんなに親切にしてくれる編集者の話なんて、牧野はついぞ聞いたことがない。
……そんな風に、ついつらつらと庄司を庇うような材料を探してしまう気持ちの裏には、あの部屋を離れてからずっと抱き続けている、牧野自身の言い知れない寂しさもあった。
唯一落ち着ける場所を失ってしまった辛さは、日が経つごとにじわじわと牧野に重くのしかかってきている。寄る辺なく日々を過ごしながら、何かあるたびに機嫌を悪くしたり、塞ぎこんでしまう自分を倉橋も心配しているのが分かったが、どうしようもなかった。
こんな風な状態になるのは、それこそ長谷川と別れたとき以来で、自分にずっと嘘をつきつづけてきた庄司の存在が、いつの間にか自分の中で長谷川と同じほどの重みを持っていたことに牧野は気づき、そのことに大きな衝撃を受けた。
(だったら俺は、岳みたいにあいつのことを好きなんだろうか?)
考えてみたが、分からなかった。ただ、長谷川だけでなく、あの存在までも失ってしまうのかと思うと、体の芯が折れてしまうような、どうしようもなく不安な気持ちになる。
何で自分にこんな思いをさせるのかと、庄司に対する八つ当たりじみた怒りさえ抱いた。
そんな風に複雑な想いを持て余しながら、それだからこそなお、自分の取るべき道が分からずに庄司からの連絡を一切拒んでいた牧野に考え直すきっかけを与えたのは、自身の主演する舞台に届けられた庄司からの祝いの花束と、それに添えられていた一通のメッセージだった。
その日は舞台の初日だった。もうまもなく幕が上がるという時間になり、牧野は少々強張っている気がする体をほぐそうと、楽屋で最後のストレッチをしていた。ここしばらく事務所に無理を言って寝泊りさせてもらっていた稽古場のベッドは、狭い上にマットレスが固くて、体のあちこちが凝ってしまっている。
自宅に戻る気はなく、庄司のアパートにも行けず、かといって以前のようにふらふらと出歩く気には何故かなれなくて、このところほぼ毎日舞台の稽古があるのをいいことに、牧野はすっかり稽古場に居ついてしまっていた。今日も劇場のすぐ近くにある稽古場から、直接ここまでやってきた牧野である。
そうやって常に仕事場に居座っているような状態だったことが、牧野の所在を逆にくらまし、しつこく付きまとっていた週刊誌の記者から彼の身を守ることにも繋がったのだが、そんなことはもちろん牧野の関知できるところではない。
体をほぐしつつも役に入るべく次第に集中力を高めていた牧野は、扉の外から聞こえてきた甲高い声に、つと眉をしかめた。楽屋の外に女性スタッフたちが集まっていて、なにかを見ながらきゃあきゃあと騒いでいるらしい。
「すごーい熱烈! なんか愛の告白よりも全然すごくない」
「『永遠に変わらない』って、その確信はなんだー って感じよね」
「あたし、この花束プレゼントした人、見てたんですよ。それがすっごいかっこいい人で、あたしもこんなこと言われてみたいー、なんて思って!」
最後は言いながら身もだえしているような声だった。こんな大事な時間に、無神経に楽屋前で騒ぐ女たちに、牧野は怒鳴りつけてやりたい気持ちになる。
むかむかしながらストレッチを続けていると、ややしてようやく会話に一段落ついたらしく、ドアをノックする音に続いて女性スタッフが三人ばかり、打って変わって神妙な様子で楽屋内に入ってきた。
あんなでかい声で騒いでいたのが中まで聞こえなかったとでも思っているのかと、じろりと睨むと、居心地悪そうに身をすくめながら、女たちが次々と室内に花束や花かごを運び込み始める。
「あの、牧野さん、お疲れ様です。ファンの方たちから、花とメッセージがたくさん届いていますよ」
「見れば分かる」
無愛想に答えた牧野に、女は少し鼻白んだようだ。だがすぐに気を取り直すと、張り詰めた空気を緩めようとしてかぎこちない笑顔を作り、果敢にも手に持っていたメッセージカードを、牧野の前に差し出すようにして見せてきた。
「このメッセージとか見て下さいよ。すごく熱心なファンの方がいらして、あたしまで感動しちゃって……」
まだ何か続けて喋ろうとする馴れ馴れしい女をうざったく感じながら、それでも差し出されたカードに何気なく目を落として、牧野は読み取ったそのメッセージに目を見開く。
「――勝手に読んだのか」
「え? あ、すみません。でも中に変なものが入れられていないか、チェックさせて頂くように指示されていて……」
「必要ない。集中したいんだ、早く出て行ってくれ」
言い訳しようとする女を邪険に追い払い、静かになった楽屋で、牧野は手の中に残されたカードを改めてまじまじと見詰めた。力強く大胆だが、生真面目さも同時に伝わってくる丁寧な筆跡が、そこに並んでいる。初めて見る文字。それでもそのカードを誰が書いたのか、牧野は教えられなくても分かる気がした。
『あなたは常に僕の憧れであり、今では僕の中のどんな価値観よりも大切な人です。それだけは永遠に変わりません』
紙片の下には、小さな封筒が重ねられていた。ひっくり返して見て、そこにあった署名に、このメッセージが誰によって書かれたものなのかを牧野は確信する。そういえば、この舞台を見に来ると、以前男が言っていたことを思い出した。しかしまさか、初日から来るとは思ってもいなかった。
カードに書きとめられたメッセージから、男のひたむきで真摯な思いが伝わってくる。どんな気持ちで、彼はこのカードを書いたのだろう。彼の中の他のどんな価値観よりも、牧野が大切だというのは本当だろうか。仕事よりもなによりも牧野が大切だと、そう言うのだろうか。
信じたい気持ちと、信じられない気持ちが入り混じって、牧野の思考をかき混ぜ、混乱させる。
『永遠』という、あまりにもあてどない言葉。この言葉を見て、さっきの女たちは笑っていた。牧野だって、そんな言葉を信じているわけではない。ただその言葉の持つ甘さは牧野の中にじわりと染み入り、彼の心をひどく酔わせた。
やがてスタッフが舞台袖にスタンバイするよう伝えに来るまで、牧野は小さな紙片を食い入るように見詰め、そこに書かれた言葉を心の中で何度も反芻し続けていた。
舞台の上で、牧野は客席を見るまいと自分を戒め続けた。あんな短い言葉だけで気持ちを乱されてしまっているようでは、直接彼と目を合わせてしまった瞬間に、たやすく篭絡されてしまいそうで嫌だったのだ。
それでも舞台を終え、楽屋に戻ってもう一度カードと向き合うと、男に連絡を取りたい気持ちがこみ上げてきて、矢も盾もたまらなくなる。悩んだ末、結局我慢することができなくて、牧野はずっと着信拒否していた番号を解除し、通話ボタンを押した。
あのとき、電話越しに久しぶりに聞いた庄司の、痛みに満ちた声が忘れられない。あの電話をかけたことで、牧野の中に根強くあった庄司を疑う気持ちは急速に薄らいだ。それでも牧野はその時、庄司をすぐに受け入れることはできず、有耶無耶なままに通話を切ってしまった。その後すぐに電話が掛け直されてきたときも、通話ボタンを押すこともできず、着信ランプが瞬くのをただ呆然と見詰めることしかできなかった。
そんな頑なな牧野の心に杭を打ち込み、ひびを入れて無理矢理こじ開けようとするように留守録に吹き込まれた、どうしようもなく必死で切ない告白の言葉。結局あれが、牧野の心を陥落させた最大の要因だったのだろう。
* * *
ぼんやりとそんなことを考えていると、正面から伸びてきた腕に抱きしめられて、牧野ははっと我に返った。
「ごめんなさい。気を悪くしましたか?」
急に黙り込んでしまった牧野を、心配そうに庄司が覗き込んでいた。余計な口出しをしたと後悔しているような顔に首を横に振り、牧野は相手の体を軽く抱きしめ返す。
「俺も、色々思い出していただけだ」
自分を包み込んでくれる、温かい体温を再び手に入れられたことが素直に嬉しい。かけがえのない言葉を惜しみなく捧げてくれた男の顔を牧野は見上げ、ふと思いついて口にしてみた。
「なあ、あの言葉、もう一回言ってくれないか」
「あの言葉?」
何のことだと首を傾げた男に、牧野は自分の携帯にまだ残してあった録音メッセージを、その場で再生して聞かせてやる。
「?」
怪訝そうに庄司が牧野の携帯に耳を近づける。深く眉を寄せ、やがて変なものを呑み込んでしまったような顔になって、ぱくぱくと口を喘がせた。
「こ、こんなのまだ残してたんですか」
いま再生されているのが、かつて自分が必死の思いで吹き込んだメッセージだと知り、庄司が耐えきれないように叫んだ。みるみるうちに、その精悍な顔が真っ赤に染まっていく。
「こんな面白いメッセージを、そうそう消せるか。でも久しぶりに生の声で聞いてみたい」
「……生でって、俺は結構言っているじゃないですか……」
自分は全然言ってくれないくせにとぶつぶつ呟きながら、赤みが引かない顔を牧野の首筋に隠すようにして、庄司が小さく告白の言葉を囁く。文字にすれば一行にも満たないようなその短い言葉に、どうしてこれほど心が揺さぶられるのか分からない。
その言葉が与えてくれる熱に、自分を抱きしめる男の体温に、ひどく心地よい気持ちになりながら、牧野は男の耳元に「俺も」と、かすかな声で囁き返した。
相手の言葉に便乗した卑怯な牧野の告白だったが、それでも庄司を驚愕させるには十分で、すぐにより一層強い力で牧野を抱きしめてきた彼がその日の仕事に結局遅刻し、会議の資料作成を間に合わせるために四苦八苦したのは言うまでもない。
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