永遠までの一秒
5
そんな折、普段はなるべく思い出さないようにしていた長谷川が、妻と別居したと言うニュースがワイドショーで流れ、牧野は愕然となった。すでに修復不可能な状況に陥っている自分の家庭とは違い、長谷川は彼の妻とうまくやっているのだろうと、漠然とそう思い込んでいたからだ。
長谷川は誠実な男だ。自分のように、建て前のためだけに結婚できるような男ではない。
彼が女と結婚したというなら、それは本当にその女のことを愛したからだと思い、だからこそ、自分が長谷川とよりを戻せる可能性など、もう万に一つもないだろうと思っていたのに。
それもすべて思い込みだったと言うのか。それとも単純に、結婚後に長谷川と葉山の関係が冷めたのか。
これから長谷川はどうするつもりだろうと考えると、牧野はにわかに落ち着きを失った。妻と距離を置いたという長谷川の中に、牧野に対する思いはまだ欠片でも残っているのだろうか。それがひどく気になって、ともすれば上の空になってしまう。そんな自分に、庄司が敏感に気づいているのが分かったから、なおさら落ち着かない気分になった。
そんなかすかな期待のようなものが当の長谷川によって打ち砕かれたのは、それからほんの数日後のことだ。その日牧野は雑誌の取材を受けるため、都内のスタジオにいた。そして取材帰り、スタジオの廊下を歩いていたときに、長谷川と偶然行き合わせたのだ。
すれ違った瞬間、長谷川が自分を無視してくれればまだ良かった。牧野がすぐ傍らを通ってもなにも気づかないような顔をしてくれていれば、かえって彼もまだ自分のことを意識しているのだと、思い上がることができた。
だが、長谷川は牧野と眼が合うと、昔と少しも変わらない穏やかな顔で笑いかけ、そしてごく自然に「久しぶりですね」と話しかけてきた。
「お子さんがもうすぐ生まれるそうですね。おめでとうございます」
なんのわだかまりもない口調でそう言われた瞬間、牧野は咄嗟にその顔を殴りつけそうになった。作った覚えもない子を妻に孕まれ、ささくれ立った気持ちを抱えている今の牧野にとって、なにも知らないとは言え、長谷川の言葉は嫌味以外の何物でもなかった。
その場は、結局牧野のほうがなにも話すことができなくて、気まずいままに別れた。
結局意識していたのは自分だけだったのかと思うと、ひどく惨めでたまらなくて、その日も逃げ込むように牧野は庄司のアパートを訪ね、抱え込んだ重いものを全て吐き出そうとするかのように、過去の出来事を洗いざらい彼にぶちまけた。
全てを打ち明けたあと、庄司は自分のほうが辛そうな顔で、じっと牧野を見詰めていた。慰めの言葉ひとつ言うわけでない。だがその眼差しの強さに、痛ましそうな表情に、牧野はあのとき確かに癒されていた。
世界中で唯一庄司だけが、牧野と痛みを分かち合い、安心できる場所を与えてくれる。
じくじくといつまでも疼き続けるこの胸の痛みも、彼の許にいればきっと癒すことができると、牧野はなんの根拠もない確信を抱いていた。
そして直感だけで生きる獣のように、自分を傷つけない庄司に身をすりよせ、それまで以上に彼の側にいるようになった。そこには、牧野にとって得がたい安らぎがあった。
――――なのに、牧野が寄りかかり、体重を預けきっていた庄司が、あの日どうして長谷川に会いに行くようにと突然言ってきたのか、牧野には今でも分からない。
言われた瞬間は、行ってどうするのかと思った。もう長谷川の中には、自分に対する気持ちなど残っていない。それはこの前スタジオの廊下ですれ違ったときに、嫌と言うほど思い知らされたばかりだ。それなのに、何故。長谷川に会って、今度こそはっきりと過去の恋を清算してこいということなのだろうか。
今までずっと自分の傷を癒してくれていた庄司が、どうしてそんな残酷なことを言うのか分からなかった。ひょっとしたら、庄司にとって自分がここに入り浸っていることは迷惑だったのだろうか。だから、自分にこの部屋を出て行って欲しいと、暗にそう言っているのだろうか?
そう思い至ると、急に体の芯からふっと力が抜けていった。かわりに全身が暗い絶望に浸される。長谷川との関係には完全な終止符を打たれ、今また庄司にも愛想をつかされた。拠り所を失う恐ろしさに、牧野は心臓を直に握りこまれたような苦しさを覚える。
庄司の勧めに素直に頷いたのは、珍しくどこかイライラした風の彼の言葉に逆らうのが怖かったからだ。いつまでも図々しくこの部屋に居座るならいっそ出て行って欲しいと、もしそう言葉を続けられたらと思うと、氷を落とされたように背筋が震えた。
長谷川に会いに行ったところで、なにが起こるとも思えない。だがそれで庄司が満足するのなら。
ただその一心だけで、牧野は小さく頷いた。
ひどく久しぶりな気がする番号に電話を掛けると、長谷川はさして待たせることもなく電話口に出た。そして話があるから会えないかと牧野が言うと、ほんの少し迷うような間のあと、待ち合わせの場所と時間を向こうから指定してきた。
庄司に促されて連絡したとはいえ、長谷川が今更自分と会おうとするとは思わなかった牧野は、正直言って驚いた。だが、長谷川は長谷川で、牧野との中途半端だった別れに、何らかの区切りを付けたいと思っていたのかもしれない。
久しぶりに二人きりで会った長谷川の表情にかつてのような甘さは一切なく、そして今度こそはっきりと、牧野は彼から別離の言葉を言い渡されたのだ。仕事以外で、二度と牧野に会う気はないと。
あそこまではっきりと言ってくれたのは、長谷川が最後に自分に与えてくれた、せめてもの優しさだったのかもしれない。彼への思いをこれ以上引きずらないように。過去を断ち切って、牧野が再び前へと歩き出せるようにと。
しかしその時はとてもそこまで考えを及ぼすことができなかった。その場から逃げるように立ち去った牧野にとって、帰れる場所はやはりひとつしかなく、哀しさと憤りを抱えて駆け込んだ部屋で、牧野は恥も外聞もなく庄司にすがった。
自分を抱いて、全てを忘れさせて欲しい。牧野が願ったのはそれだけで、そして庄司はそんな牧野の願いに応えてくれた。
◇ ◇ ◇
大通りを一本脇道に入り、目指すアパートからは少し離れた、街灯が少なく人気があまりない場所でタクシーを停める。昔からある古びた風格のある家と、安っぽいアパートが交互に建ち並ぶ蒸し暑い夜の町を、牧野は忙しない足取りで歩いた。
昼間は晴れていたと思うが、夜になってから雲が出てきたようだ。闇に色づけされた淀んだ雲のところどころで、わずかに群青がかった空が暗い色を覗かせている。大理石の表面に似た、薄曇りの空。空気は重ったるく湿気をはらみ、ひどく蒸し暑い。時折気まぐれに吹きつけてくる涼しい風に、救われたような気分になった。
ろくに木も植わっていない、滑り台とブランコくらいしかない小さな公園が見えてきたところで、牧野は角を曲がった。そのまま一ブロックほど歩くと、目の前に広い駐車場が現れる。
庄司もスペースを借りている駐車場で、ここを通り抜けるのがアパートへの近道だった。遮るもののない駐車場からは、庄司の住むアパートの姿も望むことができる。下から見上げると、二階の一番奥にある彼の部屋には、もう温かな黄色みを帯びた光が灯っていた。その明かりが目に入った瞬間、急に気が急いて、牧野は更に足を速める。
駐車場を抜け、アパートの入り口に回りこんで、あたりにとめられた自転車を邪魔に思いながら、灰色の階段を早足で上る。外付けの階段の塗装はあちこち剥がれかけて、その下から赤い錆びが浮いているのが窺えた。下手に手すりをつかめば、ちくちくと表皮にささりそうだ。
もとは白かったはずの外壁も、雨の染みや汚れがこびりついてすっかり薄汚れてしまっており、この建物が建てられてからの年月を物語っていた。
引越し作業が面倒だし、特に不自由もないからと言って庄司はいつまでもこのアパートに住み続けているが、それなりの給料をもらっているのだろうし、もう少しいいところに移れないものかと、手すりをつかまないように注意しながら、牧野はこれまでも何度か思ったことをまた考えた。
通路の一番奥にある部屋の前まで行くと、扉のすぐ向こうに人の気配を感じた。玄関脇にダイニングキッチンがあるので、きっと部屋の主が何かを作っているのだろう。その証拠に、換気扇から吐き出される空気に乗って、食欲を刺激するいい匂いが辺りに漂っている。
牧野は扉を片手でコツコツと軽く叩いた。目当ての人物は本当にすぐそこにいたようで、小さなノックの音に反応して、部屋の向こう側からすぐに扉が開かれる。
「お帰りなさい」
いつもの言葉をくれながら、中から均整の取れた長身が現れた。普段はきりっと引き締まっている口許をほころばせ、この部屋の主である庄司義人が、牧野を招き入れるためにさらに扉を大きく開けてくれる。
「うん」
素直に「ただいま」と返すのが今更ながらなにやら恥ずかしくて、曖昧な言葉を返し、牧野は板敷きの部屋の中に上がり込む。古びた庄司のアパートは、それほど冷房の効きがよくない。外よりも多少はましだが、キッチンで火を使っているせいもあり、部屋の中も汗ばむ程度には暑かった。
室内に入った牧野の腰に手を回し、すぐさま抱き寄せてきた庄司の額にも、軽く汗が浮いている。額に前髪がはりついているのを牧野が指先で直してやると、はにかんだように男が笑った。
「すみません。料理をしてたら、暑くって」
「ああ……」
曖昧な相槌を返し、牧野は間近にある男の唇に自分のそれを寄せていく。意図を察して受け入れるように開かれた唇に、するりと舌を差し込んで絡めた。
すぐに口付けは熱を帯び、しばらく夢中で互いの口中を味わってから、牧野は舌先に感じた塩辛い味にふと眉根を寄せた。
「――しょうゆ」
「え?」
その味を分析した結果、導き出された調味料の名前を思わず口に出して呟くと、目の前の男はキスの余韻も吹っ飛んでしまったように、困惑しきった顔になる。
「お前の舌、醤油の味がする」
「ああ」
庄司がキッチンの上を指で示した。
「ちょうど今、味見をしてたところだったんです」
指差されたほうに目をやると、なにかの煮物が入った鍋が、コンロの上でことこととリズミカルな音を立てていた。刺身にでもするつもりなのか、狭いシンクに無理やり置かれた小さなまな板の上にも、見るからに新鮮そうなアジがさばきかけで置いてある。
どうやら先ほどドアの外までいい匂いを漂わせていたのはこの鍋だったらしいと牧野が見当をつけていると、その視線を追った庄司が「しまった」と言って、慌てたように身を翻した。危うく煮立つ寸前だった鍋の火を弱火にし、蓋を少しだけ開けて中を確認してから、放り出されていた包丁を手に取る。
「もうすぐできますから。牧野さんは荷物を置いてきてください」
そう言いながら、アジの解体作業に再び取り掛かり始めた。
この春、所属部署が女性週刊誌から釣り雑誌の編集部に異動になってから、庄司は意欲的に料理に取り組むようになった。
取材先で知り合った漁師から、船の上で直接魚のさばき方を教わったり、港町独特の大胆な料理法を聞くうちに、すっかりはまってしまったらしい。先日も、「電気コンロじゃないだけマシだけど、せめてガスバーナーがもう一口欲しい」と、料理をしながらぼやいていた。
そもそも、まな板を置く場所にも苦労するほど狭いキッチンは、大柄な庄司にはいかにも使い勝手が悪そうで、彼が料理に凝れば凝るほど、不満を強くしているらしいことが分かる。
(俺の部屋なら、もう少しキッチンも広いのに)
ステンレス製のガスコンロにはバーナーが四口あるし、火力も強い。ただ、牧野自身は全く自炊をしないため、調理器具が今のところなにもないのが致命的だった。あるのは辛うじてヤカンくらいだ。
(別に一から全部揃えたっていいけど)
しかしそんな手間をかけるくらいなら、どうせなら調理器具ごとこの男が引っ越して来ればいいのにと、ちらりと思う。わりあいマメな庄司のことだから、同居することになれば、混乱を極めているあの部屋も掃除してくれるかもしれない。
牧野のマンションは今いるこのアパートとは違ってオートロックだし、管理人と守衛が常駐していて、セキュリティもしっかりしている。同居できるだけの広さもある。
地下にある駐車場からは、直接エレベーターで上に上がることが出来るので、出入りするときも目立たずに済むし、マンションはここからそう遠くない場所に建っているので、引っ越してくるのも楽だろう。 考えれば考えるほどいいことだらけに思えてきて、牧野は今度この話を庄司に切り出してみようと思った。家事に関しては一切を相手に委ねようと考えている点、非常に打算に満ちた提案なのだが、そのことに関しては本人は特に悪いとも思っていない。
思いついた名案に気をよくして、牧野は軽い足取りで奥の畳の間に入った。ほんのわずか開いていたカーテンを、隙間のないようにきっちりと閉めてから、抱えていた小さなバッグを壁際に放り出す。そして、庄司の簡易クローゼットに間借りさせてもらっている自分の着替えを取り出すと、汗ばんでしまった体を流すために風呂場に向かった。
どうせ食事のあとは行為に雪崩れ込むに決まっている。ならば先に体を洗っておいたほうが手っ取り早い。
たとえ庄司にその気がなくても、今日は自分から押し倒してやろうと、牧野は心に決めていた。何しろここしばらく互いに仕事が忙しく、会う機会が減っていたので、すっかり欲求不満が溜まってしまっているのだ。
「あれ、風呂に入るんですか?」
ユニットバスの扉は、ダイニングの壁にある。料理を続けている庄司の傍らを着替えを抱えて通り過ぎると、まさか牧野がそんな生々しいことを考えているとは思いもしない男が、のんきに問いかけてきた。牧野が頷くと、「すぐに夕飯ができますから、あまり長湯はしないで下さいね」と言って寄越す。
こんな狭い風呂で長湯ができるわけがあるかと思いながら扉を閉め、便器の傍らの狭い空間で苦労して衣服を脱いだ。畳一畳分もない狭い湯船は、未だ使うたびに牧野の苛立ちを煽ってくれる。
頭から勢いよくシャワーを浴びながら、やはり庄司を自分のマンションに同居させようと、牧野は改めて心に誓った。隣の部屋との薄い壁に、狭い風呂。快適なセックスのためには、このアパートはあまりにも環境が悪すぎる。
体をざっとシャワーで洗い流してから、Tシャツとスウェットを着込み、さっぱりした気分で風呂から出てくると、もう部屋には食事の用意が整っていた。卓袱台の上に綺羅星のごとく並んだ手料理の数々に、牧野は思わず生唾を飲み込んでしまう。ここしばらく、ロケ弁かコンビニ飯ばかり消化させられていた自分の胃が、喜び勇んで活発に動き始めたのが分かった。
「いくら何でも早く出てきすぎですよ」
十分と掛かっていない牧野の入浴時間に呆れながら、庄司は最後の仕上げとばかりに冷蔵庫から缶ビールを取り出し、牧野にも一本手渡してくれた。そして自分も一本持つと、軽く缶の口を合わせて乾杯する。ビールを一気に半分ほど呷ってから、牧野はいそいそと魚がメインの料理に手を伸ばした。
今朝釣り上げられたばかりの魚は、どれも表皮がピカピカと光り、身には弾力があって、ただの刺身までもがやたらと美味い。庄司も嬉しそうに、「これがイサキで、こっちはヒラマサといって」と色々解説してくれる。旬の魚の味わいを楽しんでいると、途中で庄司が席を立ち、冷蔵庫から陶製の小降りの器を出してきて、卓上に置いた。
「これは何だ?」
中に入っている得体の知れない料理を見て、牧野は眉をしかめた。味噌を濃いめに溶いた冷水の中に、アジの身を細かく叩いたものが入っているようだ。
「――アジの味噌汁?」
しかも冷たい味噌汁だ。ゲテモノくさくて牧野が嫌そうに聞くと、庄司は自分も器を手に取りながら教えてくれた。
「『水なます』って言うんです。別名『ガラガラ』とも言うそうですけど」
「……何だそれ。ヘビか?」
微妙な名称によけい躊躇しながら、恐る恐る椀に口をつけて一口味わい、次の瞬間牧野は目を見開く。
「どうです? 美味しいでしょう」
嬉しそうにその表情を見詰めながら庄司が聞いてくるのに、思わず素直に頷いてしまう。確かに見た目よりははるかにさっぱりしていて、美味い。夏場に食べるにはぴったりの料理だ。汁の中に入っているアジのたたきは、作る際にシソやショウガを一緒に混ぜ込んでいるらしく、魚の生臭さも一切感じなかった。
「今日地元の漁師さんから教えてもらったんですけど、意外なくらいに美味かったんで、ぜひ牧野さんにも食べて欲しくて」
言いながら、次々に他の料理もすすめてくる。どれも初めて見るようなものばかりで、牧野はすすめられるままに、うきうきと箸をのばした。
魚やイカ、それに野菜などを豪快にぶつ切りにして煮込んだぶっこみ鍋も、やはりアジをたたいて作ったさんが焼きもみんな美味くて、気づいた時にはいささか食べ過ぎてしまっていた。
缶ビールも立て続けに三本ほど空けてしまい、牧野は満腹と酔いがもたらす幸福感のまま、片付けの手伝いもせず、その場にごろりと横になる。
低くなった視界からちらりと見上げると、庄司はテレビを見ながら、ビールに口をつけていた。スポーツニュースが気になるらしく、世界水泳がなんたらとアナウンサーが言っているのを熱心に聞いている。そういえばこいつは元水泳部とか言っていたっけと、寝転がりながら牧野はぼんやり思い出した。道理でやけに均整の取れた、引き締まった体格をしているはずだ。
こんな角度から見ても見映えのする、男のまっすぐ通った鼻筋や、鋭角的な顎のラインに何となく見惚れていると、視線に気づいた庄司がこちらを振り返った。「どうかしましたか?」と尋ねられたが、答えずにそのままぼんやり男の顔を見つめていると、やがて「疲れているんですか」と顔を覗き込んでくる。
ゆっくりと首を横に振ると、上からふわりと大きな手が下りてきて、額に触れられた。温かな体温が心地よくて、牧野は目を閉じたままその手を取り、そっと自分の頬に押し当てる。男らしい、しっかりとした手の甲の感触を指先で楽しみ、顔を傾けて、その掌に自分の唇を落とした。
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