永遠までの一秒

 玄関の自動扉が開いた途端、夜だというのにムッとするような暑い空気が一気に押し寄せてきて、牧野は一瞬呼吸に詰まった。一日のうちで季節を一番実感するのは、いつもこの瞬間だ。まして今日は一日中過剰にクーラーのきいたスタジオにいたので、中よりも十度以上は高いだろうこの外気には、眩暈さえ覚える。
 関係者専用の出入り口の正面には、すでに倉橋が呼んだタクシーが待機していた。暑さから逃れたい一心で、牧野はものも言わずに空調の効いた車内に身を滑り込ませる。
「それじゃ牧野さん、お疲れ様でした。また明日」
「お疲れ」
 見送りについてきていた倉橋に返事をして、牧野はタクシーの扉を運転手に閉めさせようとした。しかし外側から倉橋が扉を掴んでいて、なかなか手を放そうとしない。そうこうしているうちに車内から冷気がどんどん逃げて行き、牧野は顔をしかめたが、彼が何かもの言いたげにしていることに気づいて首を傾げた。
「何だ?」
 何か言いたいことでもあるのかと聞いてみると、倉橋の顔に迷いが走る。
襟元のボタンを外した薄いブルーのシャツに、ブラックジーンズという気楽な格好の牧野に対し、きっちりとネクタイを締め、ジャケットまで着込んだスーツ姿がいかにも暑そうな倉橋は、空白地帯が広くなってきた額のあたりに噴き出す汗をハンカチでふき取りながら、言うべき言葉に迷う素振りを見せた。しかしやがて決意を固めたように身を乗り出してくると、かすかな声で牧野の耳元に囁く。
「牧野さん、奥さんのこと。いよいよ駄目そうになったら、ちゃんと僕に相談してくださいね」
「……」
「それだけです、引き止めてすみませんでした。運転手さん、出してください」
 言うなり外側から扉が閉められ、牧野に答える間も与えずに車が走り出す。バックガラスの向こうに見える倉橋の姿がみるみる小さくなっていき、すぐに視界から消えた。運転手が行く先を聞いてくるのに、牧野は小さく吐息をつくと、「市ヶ谷まで」と指示する。
 牧野の家庭の事情を一番よく知る倉橋が、ああして心配してくるのは当然の話だ。しかし、いい加減妻とのことに何らかのけりをつけろと暗に言われてしまった気もして、牧野はどうすればいいのか分からない苛立ちのまま、額にかかった前髪を手荒くかき上げた。
 倉橋には迷惑と心配を掛けて、悪いとは思う。しかし思ってはいても、停滞した状況に一度慣れてしまうと、そこから改めて動き出すのにはひどくエネルギーが要った。
 暗澹とした気持ちで吐息を漏らし、腕の時計に視線を落とす。時刻はもうすでに夜の十時を回っていた。今日はもう少し早く帰れるはずだったのにと、イライラと腕時計の表面を指先で叩く。道理で腹も減っているはずだ。あのあとも期待のアイドル俳優たちが、案の定ふたりしてNGを連発してくれたおかげで、結局収録は遅れに遅れてしまった。
 下手ならば下手なりにせめて台詞ぐらいきっちりと覚えてこいと、牧野は若い共演者たちの顔を苦々しく思い描き、そしてすぐに頭の中から締め出す。代わりに脳裏に思い描いたのは、若々しい体躯と整った容貌をあわせ持った、現在の恋人の姿だった。

* * *

 自分よりも十歳近く年下の庄司義人(しょうじ・よしひと)と奇妙な付き合いが始まったのは、去年の冬のはじめごろだった。
 はじめて庄司と出会った夜のことを、牧野は今でもはっきりと覚えている。
 学生時代からの友人、秦野(はだの)の経営するバーで、いつものように日ごろの憂さを酒でごまかそうとしていたあの夜。席に落ち着いてからふと巡らせた視界に映り込んできたのが、カウンターに座り、グラスに口をつけながら、こちらを横目で窺ってきていた庄司の姿だった。
 一目見て、タイプだな、と思った。自分よりもかなり年下のようだったが、そのわりには物腰が落ち着いていて、派手な容貌にも関わらず近寄りがたさを感じさせない。スツールから下ろされた足は見るからに長く、座っているためよく分からなかったが、身長もかなり高そうで、若々しく引き締まった体つきをしていた。
 ほかの男たちと話しながらも、時折自分のほうを彼がちらちらと気にしているのが分かり、牧野は無表情を装いながら、実は少し緊張していた。自分からももっとあの男の姿を眺めてみたい気持ちは大きかったが、相手を意識しすぎてしまうと、かえってそれが難しい。
 何で自分を見ているのだろう。ひょっとして自分に気があるのだろうかと思うと、やけに落ち着かない気分になってくる。
己の性嗜好に反した結婚をしてからというもの、肉体的な欲求も含め、人恋しさは募るばかりだった。そんな状態のときに好みの男と出会ってしまい、自意識過剰だと思いつつ、相手を意識してしまうのを止められない。
 そんな自分の浅ましさが嫌で、酔いでごまかしてしまおうと、自然に酒に手が伸びた。常にないハイペースで酒盃をあおり続ける。秦野が少しペースを抑えるようにと重ねて忠告してきたが、聞こえない振りで無視した。
 やがてカラカランッとドアベルが軽やかに鳴る音が聞こえてきて、酩酊感に浸っていた牧野は、はっと顔を上げた。酔いのせいでぼやけた視界に、店を出て行こうとするあの男の背中が映る。
 その背中の広さが、かつての恋人の面影を思い起こさせて、牧野は胸を衝かれたような気持ちになった。舌に載せる酒の味が急に苦くなる。なのにグラスに伸びる手は止められず、酒をあおるペースはますます速くなり、とうとう「飲みすぎよ!」と叱りつけられながら秦野に酒を取り上げられ、店からも追い出されてしまった。
 それでも牧野の家庭の事情を知っている秦野は、帰る場所がないなら泊まって行けと、親切にも店の近くにある自分の部屋の鍵を渡してくれさえしたのだ。おぼろな意識のまま、ありがたくその鍵を預かり、店をふらふらと出て少しだけ歩いたところで、そのまま牧野の意識は途切れた。まさか路上で行き倒れていた自分を、店で見かけたあの男が助けてくれるとは思いもしなかった。
 翌朝、見知らぬアパートの布団の中で目を覚まし、眼鏡を欠いたおぼつかない視界に傍らに立つ人物の姿をとらえたとき、牧野は夢でも見ているのかと思った。その人物のシルエットが、驚くほどかつての恋人、長谷川岳(はせがわ・がく)と似ていたからだ。そんなことはあり得ないと知りながら、牧野は一瞬、長谷川が自分を許して帰ってきてくれたのかとすら考えた。
 だから眼鏡をかけ、クリアな視界を得てはじめて相手がまったくの別人だと分かると、牧野はがっかりして気が抜けてしまった。ややして相手の男が昨日秦野の店で見かけたあの若い男だと気づいてからも、牧野の胸には錯覚だったたった一瞬の喜びが、焼け付くようにして残った。
 牧野が庄司のアパートにその後通いつめるようになったのは、その一瞬の感動が忘れられなかったからかもしれない。アパートの外廊下の隅で、帰ってくる相手のシルエットを暗がりの中に捉えたとき、牧野の胸はいつも痛いほどに波打った。

* * *

(……あの頃は、岳に会いたくてあの部屋に通っていたのかもしれないな)
 日が暮れ、ネオンの光も眩しい街並みを車窓から眺めながら、牧野はぼんやりと思う。
 一瞬のうちに流れ去っていく車の外の景色は、その光の残像しか捉えられないように、あのときの牧野もすでに残像でしかなくなっていた幸福を、無意識に求めてしまっていたのだろう。
 だから、毎晩部屋の外に座り込んで待っている牧野を心配して、庄司が部屋の鍵を渡してくれたときも、牧野は喜ぶ気持ちより、残念に思う気持ちを強く抱いたほどだった。
 もうこれで自分のもとに長谷川が戻ってくる幻想すら見ることができなくなったのかと思うと、なんだかひどく寂しかった。――今思えば、庄司に対しても失礼な話だ。
 それでも、庄司の部屋の妙な居心地の良さもまた、牧野にとっては得がたいもので、それからも牧野はその部屋に通い続けた。
 庄司が自分の長年のファンであったことを知ったのは、それから間もなくのことだった。
 部屋の主がいないときにも勝手に中に入り込めるようになったのはいいが、その日牧野は午後七時には仕事がすべて終わってしまい、例によって無趣味であるためにやりたいことも特になく、とっとと戻ってきた庄司の部屋で文字通りごろごろしていた。
 部屋の壁際に置かれているラックに整然と並べられたDVDに興味が向いたのも、たまたまだった。牧野がこの部屋に上がり込むようになってからしばらく経つのに、これほどたくさんあるDVDに庄司が手をつけている姿をまだ見たことがない。レコーダーは時折動いていて何か録画しているようなのに、撮った映像を再生しようとしないのを不思議に思っていた。
 一体こんなにたくさん、なにを録画しているんだろうと、改めてDVDの背に貼られたラベルの文字をじっくりと眺めてみて、牧野は驚いた。これまで気づかずにいた自分もどうかしていると思うが、そこにあるのはすべて、牧野が出演したドラマのタイトルだったのだ。試しに中の一本をデッキに掛けてみる。すぐに画面に流れ出したのは、つい先日、自分が主演を務めたドラマの映像だった。
 今までそれらしい扱いを庄司から受けたことがなかったので、考えもしなかったのだが、これだけ多くの映像を持っているということは、ひょっとしたら庄司は自分のファンだったのだろうかと、画面を眺めながら牧野は首を捻った。最初に秦野の店で会ったとき、やけにこちらを気にする素振りを見せていた庄司をふと思い出す。
 しかしそれにしては、今まで彼がそれらしい気配をまったく見せずにいたのに合点がいかない。それに、そうだ。この部屋にはじめて泊まった翌日、自分と付き合わないかと牧野が戯れに誘った言葉を、庄司は言下に断ったではないか。もし自分のことを好きだと言うのなら、あんな態度を取るはずがない。
 考え込んでいると、そのときちょうど庄司が帰ってきた。そして画面に流れている映像に気づいてギョッとした顔になり、見るからにうろたえる。そんな彼に牧野が問い質すと、観念したように庄司は自分が牧野のファンであることを認めた。ひどく気まずそうなその様子に、牧野は再び同じ疑問を抱いた。
 別にミーハーらしくふるまって、サインやら握手やらを求めて欲しいわけではないが、ファンであることを一言も告げなかったばかりか、はじめのころ、庄司が敢えて牧野と距離を取ろうとするような態度を示していた理由がわからない。そんな違和感が頂点に達したのは、庄司に好きな「男の」タイプを尋ねたときだ。
 返ってきた答えは、わざと言っているんじゃないかと思わず疑ってしまうほどに、何から何まで牧野とは正反対のタイプで、別にいきなり取って食おうとしているわけでもないのに見え見えの牽制を掛けられたような気がして、牧野は不愉快になった。
「……女みたいなタイプが好きなんだな」
 皮肉を込めてそう言うと、ぎくりとしたように庄司の肩が揺れる。それでこいつはひょっとしたらゲイではないんじゃないかと思った。それならば自分と違って女を抱くこともできるし、自分のセクシャリティに無用のコンプレックスを感じたことも、きっとないはずだ。
 牧野に対して馴れ馴れしく近づかないようにしていたのも、ゲイである牧野の性癖を警戒してのことだったのかもしれない。そう考えつくと、裏切られたような気分になってますます腹立ちが募った。
 ――なのにそんなどうしようもない苛立ちも、庄司の何気ない言葉でするりと宥められてしまった。
 前日の出来事に消せない腹立ちを抱えつつ、居心地のいい部屋をどうしても諦めきれず、翌日もまたアパートを訪れた牧野に、庄司が必死な顔で掛けてきた「お帰りなさい」という言葉。
 牧野の存在をまるごと受け入れる、そのたった一言を聞いて、長谷川と別れ、美穂里の許を去ってから、どれだけ自分が帰るべき場所を求めていたのか、牧野は思い知らされた気がした。ただ家に迎え入れられるということが、今の自分にとってどれほど得がたいものであるのかを。
 あのときから、庄司の部屋は本当の意味で牧野が帰ることができ、落ち着くことができる場所になった。ただ暖かい体温の側に寄り添い、静かに過ごせる空間。
 妙な言い方をすれば、庄司と牧野とは沈黙の「間」がよく合った。人が二人いれば、話したいときもあれば、静かにさせて欲しいときもある。それがずれると、互いの間に苛立ちが生まれる。
 だが牧野は庄司と一緒にいるとき、その手の苛立ちを感じたためしがない。穏やかで静かな空間に浸るうちに、長谷川との別れで負った心の傷さえ、少しずつ癒されていくように思えた。

-Powered by HTML DWARF-