永遠までの一秒
3
妻の美穂里が身ごもっていることを牧野が知ったのは、入籍してから二ヶ月ほどが過ぎた頃だ。
新婚早々子どもに恵まれた牧野に、周囲の人々は口々に祝福の言葉を送ってきた。端からは、まるで絵に描いたように幸せな家庭を牧野が築きつつあるように見えたのだろう。しかし真実はまったく逆で、美穂里の妊娠はそのまま新婚家庭の崩壊に繋がった。
同性愛者である牧野は、結婚前も結婚してからも、結局一度も美穂里を抱けずにいた。そんなふたりの間に子どもができるわけがない。美穂里の妊娠は、彼女が犯した不貞を牧野に大声で教えているようなものだった。
別に牧野も、はじめからセックスレスの夫婦生活を送るつもりでいたわけではない。むしろ自分の性癖に強い劣等感を持っていた牧野は、それを解消するためにも、なんとかごく普通の結婚生活を送ろうと、当初は似合わない悲壮な決意まで固めていたのだ。
それでも柔らかい体を抱こうとすると、途端に気持ちが萎えてしまい、結局ペッティングまでがせいぜいで、それ以上の行為に進むことはどうしてもできなかった。
愛撫の手もどこかなおざりで、心がこもっていないことが美穂里にも自然と伝わってしまったのだろう。結婚当初は控えめながら時折牧野に行為を求めてきた彼女も、次第になにも言わなくなった。
そのことで気持ちは楽になったが、抱え込んでいたコンプレックスはいや増すばかりで、いい加減鬱屈がたまっていたころに、よりによって牧野は美穂里自身の口からでなく、周りからの口伝えによって、自分の妻が妊娠していると知らされたのだ。
どんな男が妻を孕ませたのかはまったく分からなかったが、それは別に気にならなかった。美穂里に対して愛があったわけではないから、嫉妬めいた感情も一切生まれてこない。ただ牧野はこの結婚を決めてから、今に至るまでの自分のあまりの不様さに、激しい恥辱を覚えて震えた。
これほど間抜けな話があるだろうか。
スキャンダルを怖れ、安っぽいかりそめの安心を得るためだけに長年の恋人を切り捨てて、愛のない結婚をした。なのに結局妻を抱くことすらできず、知らぬ間に妻は誰とも知れぬ男の子を孕み、一方でかつての恋人はそんな自分をあざ笑うかのように、あっさりと別の女と結婚して、今は幸せそうにやっている。
いったい自分はなにをしたかったのだろう。本気で分からなくなり、ただ自分の間抜けさから目を逸らしたくて、牧野は妻のいる家を出て、毎晩夜の街をさ迷うようになった。もう二度と美穂里の顔も見たくない気分だった。
自分が出て行けば、美穂里はきっと孕んだ子どもの父親とよろしくやるのだろう。それで構わない。さっさと別れ話を切り出してきてくれ。いつでも離婚届に判を押してやる。美穂里に対して思ったのは、そんな投げやりなことだけだ。
それなのに美穂里は妊娠発覚後も、そして子どもが生まれたあとも、けっして自分の不貞を認めようとはしない。あくまで自分が産んだ子は牧野との間にできた子だと言い張り、牧野に夫として、そして父親としての義務を果たすようにと求めてくる。
牧野は今やそんな美穂里を持て余し、途方もなくうんざりしていた。子どもの認知だって別に好きでしたわけがない。ただ、生まれてきた子どもの本当の父親が誰なのか分からないから認知はしたくないなどと、世間に公表するわけにいかなかっただけだ。
子どもに関する手続き上のことも、すべて所属事務所と美穂里に任せ切りだった。美穂里はともかく、プライベートのことで迷惑をかけてしまった事務所、ことにマネージャーの倉橋にはすまなく思っているが、とにかく今は自分を守ってくれる人々の好意に甘えて、目の前の問題から目を背け続けているような状況だった。
* * *
――つくづく馬鹿げたことをしたと思う。
撮影開始の合図を待ちながら、牧野は何度も繰り返してきた悔やみごとを今また胸中で転がしていた。
この結婚は一体何だったのだろう。求めていた「まっとうな」生活は牧野に何ら精神的な充足感をもたらさず、むしろ殺伐とさせるだけだった。今になって牧野が感じるのは虚しさと、そして言いしれない苦い後悔だけだ。
立ち位置の確認が終わり、スタッフがセット内からはけて、監督のキュー出しとカチンコの音とともに撮影がスタートする。内に抱いている感情とは裏腹に、カメラに向かって馬鹿みたいに明るい笑顔や怒った顔を作りながら、妹役の女優に優しい言葉を掛けているうちに、牧野は次第に自分の思考が薄らぎ、頭が真っ白になっていくのを感じた。
演技中はいつもこうだ。手足が自然に動き、唇からは台本どおりの台詞がこぼれだして、自分の思考を別の人間に占拠されているような状態になる。どんな厄介ごとからも、演じている間だけは逃げることが許される。
『何よ、兄さんの働いている大学だって知っていたら、絶対受けたりしなかったわ! 言っておくけど、絶対にキャンバスの中では、私の半径一〇〇メートル以内に入らないでね』
『おまえ、自分の兄貴に対してそんな口聞いていいと思ってんの
か レポートも試験勉強も手伝ってやらないぞ!』
『いいわよ、手伝ってくれなくて。だからもう放っといて。大学生にもなっていい年した兄さんにつきまとわれてたら、彼氏の一人もできなくなっちゃう』
『単位を取りやすい楽な授業だって、俺ならいくらでも教えてやれるぞ! 図書館の席取りだって、学食の席取りだって、彼氏を作るよりも俺のほうがよっぽど役に立つっ』
『それが鬱陶しいっていつも言っているのよ! もう頼むから、私が大学に通っている間は何があっても絶対にっ、あ……』
間抜けなため息とともに、テンポよく進んでいた台詞が唐突に途絶える。一瞬の沈黙のあと、「ごめんなさ〜い」と気の抜けるような甘え声がスタジオに響いた。ワンテンポ置いて、「はい、カーット!」と監督がカメラを止めさせる。
すっかり役に入り込んでいた牧野は中途半端に現実に引き戻されて、意識がはっきりしないまま目の前の小さな頭を見下ろした。
「頭から台詞が飛んじゃって……。すみません、もう一度お願いしま〜す」
愛らしい笑顔とともに共演のアイドル女優が気軽にそう言ってのけ、スタッフが一斉にため息をこらえるような顔になった。今のシーンはカットがなかなか入らない長回しの場面で、もうあと少しで撮り終えるところだっただけに、こういう失敗をされるとがっくり来る。すでにNGは六回めを数えており、みんな「今度こそ!」と拳を握っていただけに余計だった。
牧野も苛立ちを押さえきれずにため息をついた。リテイクが繰り返されるごとに頭が冷え、だんだん役に入り込みづらくなっていくだけに、NGが重なると集中力を保つのに非常に苦労する。しかもこれまでの六回のNGはすべて、この目の前の女が叩き出したものだ。
これだからやり直しのきくような撮影は嫌なんだと、憮然とする。その点舞台はいい。客席との一体感と、常に見られているという緊張感。どんな公演もその場限りの一発勝負だからこそ、役をやり遂げたときの充足感は言いようがない。
きついライトに照らされ続けているせいで、目がひどく疲れ、眼底に痛みすら覚えた。イライラしながら眼鏡を外し目頭を揉んでいると、その隙にすばやくスタッフが駆け寄ってきて、ものも言わずに牧野のメイクを直していく。
気持ちを立て直すため、一度深呼吸してから眼鏡を再び装着していると、アイドル女優とふと眼が合った。それまでリテイクを何度繰り返してもあっけらかんとしていた彼女が、不機嫌な牧野を恐れてか、少し緊張したような顔つきになっている。
にこりともせず、冷たい眼差しでその顔を見返すと、牧野の無表情に怯えたように、ピリッと背筋を強張らせて能天気な女がぎごちなく視線を逸らした。メイク係が戸惑ったようにふたりの顔を見比べているが、牧野は表情を取り繕う気もなく、ただ黙然と撮影の再開を待つ。
素人同然の女優に優しく話しかけ、緊張をほぐしてやるような甲斐性は、あいにく欠片も持ち合わせていない。むしろ面と向かって怒鳴りつけないだけ、よく堪えていると褒めて欲しいくらいだ。
それにしても、この調子で今日の撮影は一体何時に終わるのかとうんざりしながら、スタッフの指示に従って、牧野は再び立ち位置に戻った。
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