永遠までの一秒
2
牧野秋久には、これといった趣味がない。
タレント名鑑などで、一般に公開されているプロフィールには、趣味の項目に「映画鑑賞とテニス」などと記載されているが、大嘘もいいところだ。派手さはないが無難に整ったいかにも育ちの良さそうな容姿に加え、眼鏡をかけているせいなのか、理知的な男というイメージが世間に浸透している牧野にあわせて、事務所が適当にでっち上げた趣味だった。
実際にはテニスなんて学生時代に三、四度、体育の授業でやっただけで、サーブもろくにラインに入らないし、牧野は俳優のくせに、自分の出演作が放映されているときでさえ、ほとんどテレビをつけることがない。もともと出不精な上、人に騒がれるのが嫌で、映画館まで足を運ぶこともない。
別に趣味があろうが無かろうが普段はなんとも思わないのだが、こういう待ち時間にはやることが何もなくて困るなと、すぐ目の前で行われている撮影をぼんやりと眺めながら、牧野は思った。もっとも、趣味が映画鑑賞とテニスでは、どちらにしろこんな場所でできることは何もないのだが……。
牧野が今いるのは、テレビ局の中にある撮影スタジオだ。中央部にカフェを模したセットが組み上げられ、天井からぶら下げられたいくつものライトに皓々と照らされながら、先ほどからドラマの撮影が続けられている。
もちろん牧野もドラマに出演するキャストのひとりなのだが、次の出番まではもう少し間があるため、のんびりと待機しているところだった。
一応手に台本を持っているが、中身はすでに完全に覚え込んでしまっている。従って、空き時間には寝るくらいしかやることがない。しかし下手に眠り込んでしまうと、思考がぼやけて演技の勘を失ってしまうことがあるため、よほど待ち時間が長いとき以外は、牧野は自分の出番がないときもこうして撮影を眺めているのが常だった。
『何で今日は店長さん来ていないの〜?』
初々しい唇を尖らせ、ヒロイン役の女優がスピッツの鳴き声を連想させる声を出す。上目遣いが似合うきょろりとした大きな瞳と、くるくるとよく変わる表情が目を惹く、現在巷で大人気のアイドル歌手なのだが、ただし台詞は棒読みだ。
『今日来る予定だって聞いてたのに! 早く呼んできてよぉ、店長の榊さん』
『だ、だから店長は今日は急に予定が入って……』
肩を怒らせながら、媚びるように体をくねらせて文句を言う彼女に、たじたじと答える店員役の青年はまだ十代後半の若さで、放つ台詞はこちらも棒読みもいいところだ。いささか身長が足りないが、甘く整った顔立ちの彼もまた、普段はアイドルグループの一員として歌ったり踊ったりしているという。
大手の芸能事務所が満を持して送り出してきた人気アイドルのふたりは、互いに演技をするのは今回がほとんど初めてらしく、大方の予想をまったく裏切らない、低レベルな演技が先ほどから繰り広げられていた。これは学芸会かと、牧野はだんだん眺めているのが馬鹿らしくなってきて、ついにセットから目を逸らしてしまう。
ドラマのシーンとしては、カフェの店員である主人公と、後に彼と恋に落ちる客の女子大生が、初対面から喧嘩になりながら密かに互いの存在を気に掛けるようになるという、かなり重要な場面なのだが、傍らで撮影を眺めている牧野にしてからが、すでにドラマに入り込めない。演技がお粗末過ぎて、ドラマの筋に集中する前に、つい主演陣に突っ込みを入れたくなってしまう。
人気アイドルの共演ということで放映前から話題を集めているドラマだが、脚本もトレンディドラマにありがちなありふれた内容だし、これは放送一回目だけ視聴率がよくてその後は尻すぼみというお決まりのパターンに陥りそうだなと、共演者にあるまじき冷たいことを牧野が考えていると、背中側からふいに肩を叩かれた。
「そんな仏頂面をさらしているくらいなら、大人しく楽屋で待っていて下さいよ。まったく」
周囲に聞こえないよう、小声で話し掛けてきたのは、牧野のマネージャーである倉橋だった。牧野とはほぼ同年代で、髪をきっちりとセットし、殊更高くも安くもないスーツに身を包んだ、ごく普通のサラリーマンとしか形容しようのない容姿の男である。
もっとも外見は地味でも、中身はかなりの切れ者として、業界内でもそれなりに名が通っているらしい。
「主演陣の演技はお粗末ですけど、話題性はばっちりだし、枠はゴールデンタイムだし、捨てたもんじゃないですよ。制作側も少しでもドラマの質をアップさせようと、牧野さんの出演を土下座せんばかりの勢いで頼んできたんですから、それはそれで責任重大ですよ。頑張って下さい」
牧野はふんと鼻を鳴らした。自分が演じるわけではないからといって、好き勝手によく言うものである。
ちなみにこのドラマでの牧野の役どころは、ヒロインの年の離れた兄という設定だ。妹の通う大学の非常勤講師を勤めるインテリである一方、少々シスコン気味な男で、何かにつけて主人公とヒロインの恋路を邪魔するという、出番はそれなりに多いものの多少三枚目的な役回りだった。
別に三枚目だろうが四枚目だろうが、牧野自身は役にこだわりがないが、あんな頭の悪そうな女を猫可愛がりする兄貴役かと思うと、待機中からうんざりしてくる。気がつけば手に持っていた台本を力任せに丸め、雑巾のように引き絞っていた。どうせ中身はもう頭に入っているのだから、大事にしてやる必要もない。
「ちょっと、何をしているんですか。ホンが台無しでしょ」
倉橋が呆れたように牧野の手から台本を取り上げる。逆向きにくるくると巻き直して紙についてしまった癖を取りながら、牧野の顔を見下ろしてふと首を傾げた。人目を憚るように心持ち身を屈めて牧野の耳元に口を寄せ、より一層潜めた声で聞いてくる。
「牧野さん、今日はいやに不機嫌ですけど。……もしかして、また奥さんと何かあったんですか?」
日ごろ牧野のもっとも身近にいて、必然的に牧野の家庭の事情にも詳しい倉橋ならではのその問いに直接答えはしなかったものの、自分の顔がさらに不機嫌に歪んだのは牧野にも分かった。その仏頂面を見下ろして、倉橋が「はぁ」と重いため息をつく。
「なんか……、これを言うのも今さらなんですけど、何で結婚しちゃったんでしょうね、牧野さんは」
「……」
やっぱり身を挺してでも止めるべきでしたと、倉橋がぼやくのに、牧野は返す言葉も無く、むっつりと唇を引き結んだままふてくされた顔で沈黙した。妻の妊娠発覚以来、ろくに家にも帰らなくなった牧野のことは、倉橋も当然承知している。そもそも別居のため、牧野が今住んでいるマンションを探し、契約から入居まですべての手配してくれたのも彼だった。
面と向かって宣言したことはないものの、倉橋は牧野が同性愛者であることに間違いなく気づいていると思う。事務所に所属する前から、十年にもわたって男の恋人と付き合っていたのだから、気づいていないほうがおかしい。そして、牧野の性癖に気づいていたのなら、牧野が結婚したときはさぞかし複雑な心境でいたことだろう。
それでも敢えて止めようとしなかったのは、この機会に牧野がヘテロセクシャルになってくれればと願ってのことだったのかもしれないが、だとすれば彼の期待は無惨に裏切られたわけだ。美穂里と籍は入れたものの、牧野の女嫌いは以前よりもむしろひどくなってしまった。
本当に、倉橋が自分を思い切り殴ってでも、引き止めてくれればどれだけ助かったことかと、牧野も手前勝手にぼやきたくなる。
スタジオの隅で下手な演技を遠目に眺めながら、牧野の出番が回って来るまで、二人はしばらく、交互に陰鬱なため息をつき続けたのだった……。
* * *
――今朝、携帯電話のアラーム音に短い眠りを覚まされてから牧野がまず最初にしたことは、寝る前に決めたとおり、現在の恋人である庄司義人に連絡をすることだった。
日もまだ昇りきらないような時刻だったにも関わらず、相手はすぐに電話に出た。すでに取材先の千葉の漁港に到着していたらしく、これから船に乗り込むところで、ちょうどよかったと笑っていた。
牧野が夜には庄司のアパートのほうに行けそうだと伝えると、途端に電話口の声が弾み、気合を入れていい魚を手に入れてくると約束してくれたのだ。そこまでは良かった。牧野も上機嫌で電話を切り、夜にはどんな料理が食べられるのかと楽しい想像に耽っていたのだが、その後携帯の電源を落としておくのを忘れてしまった。これが敗因だった。
昨夜浴びることができなかったシャワーを浴び、タオルで髪を拭きながらリビングに戻って来た牧野を迎えたのは、派手に鳴り響いている自分の携帯の着信音だった。
なにか伝え忘れたことでもあって庄司がまた掛けてきたのかと何気なく受信ボタンを押し、その直後、相手も確認せずに電話に出てしまったことを激しく後悔する。通話口の向こうから、切迫した女の声が勢いよく流れ出してきたからだ。
『秋久さん? 秋久さんでしょう どうして帰ってこないの、今どこにいるのよ!!』
責め立ててくる美穂里の声に、牧野はうんざりと眉をしかめた。どうしたもこうしたもない。何を考えていまさら自分に帰って来いなどと言うのか、牧野にはこの女の気持ちがさっぱり分からなかった。
すぐ近くに寝かされているのか、女の声の後ろから赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。美穂里が半年前にひとりで産んだ子だろうか。しかし牧野はその子どもの名前すら、はっきりとは覚えていなかった。
『……ねえ、一度でいいから帰ってきてよ。秋則(あきのり)だってお父さんが近くにいなかったら可哀想だわ、毎日こんなに泣いて』
同情を引くように、女の声が急に弱々しいものになる。だが、子どもが泣くのは当たり前の話だ。むしろ生まれてからまだ一度も会ったことのない、戸籍上だけの父親である自分が会いになど行けば、さらに泣き喚かれるのが関の山だろうと思った。
それよりも、美穂里が子どもに「秋則」などという名前をつけていたことを知り、牧野はぞっとした。一体この女は何を考えて、不義の果てに生んだ子に、牧野の名前の一字を与えたのだろう。薄気味悪さを堪えながら、牧野は意識して、自分に出せる限りの冷たい声で美穂里に言った。
「俺の子じゃないだろう」
『あなたの子よ! あなたはこの子を認知したんだから』
間髪を置かずに金切り声で反駁され、牧野は衝動的に携帯を床に叩きつけたくなった。一度小さく息を吸い込んで気持ちを宥めてから、電話口に向かって告げる。
「とにかく俺は帰るつもりはない。お前がその家にいる限りは」
それだけ言うと、相手の返事も待たずに通話を切り、牧野は今度こそ電源を落とした。苦々しい舌打ちが、知らず唇からこぼれる。気分がやたらとむしゃくしゃして朝からひどく疲れた気持ちになり、せめて庄司の電話とこの電話が逆の順番だったらマシだったのにと、詮のないことまでつい考えてしまった。
Copyright(c) 2009 SukumoAtsumi All rights reserved.