永遠までの一秒
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――人間、どんな環境にも適応するものだな。
牧野秋久(まきの・あきひさ)は最近、自分の部屋に戻ってきて、明かりをつけるたびに同じことを思う。
八月に入り、連日三〇度を超える猛暑が続いているが、全館空調システムのおかげで室内はいつでも気温だけは快適だ。そう、気温「だけ」は。
白々とした室内灯に照らし出されるのは、雑誌、書類、衣服、その他もろもろの細かいものが足の踏み場もないほど散乱した、汚れきった部屋の惨状だ。
ここで食事をすることはないので、腐るようなものがないことが救いだが、室内にはいつしかうっすらと埃が積もり、このマンションに越してきたときには眼が痛くなるほどにピカピカ輝いていたフローリングの床やテーブルなども、すでに見る影もない有様となっている。
これほど汚い部屋で暮らしていてもこれといった感慨を抱かないのだから、自分はすでにこの環境に適応してしまったと言って差し支えないだろう。それとも疲労のあまり、一時的に感性が麻痺しているのだろうか。
妻のいる自宅に戻らなくなってから、早一年以上が経つ。
最初のころはホテルに泊まったり、夜の街で夜更かししたりと刹那的な日々を送っていたが、最近年下の恋人ができたのをきっかけに、牧野はふらふらするのをやめた。かといってオートロックもない恋人のアパートに完全に住み込んでしまうのは、俳優という職業柄なにかと問題が多くて、新たにこの部屋を契約したのだ。
越してきてから三ヶ月ほどが過ぎたが、このところずっと仕事が忙しかったこともあり、考えてみれば今日まで一度も掃除らしい掃除をしていない。部屋が汚れるのも当たり前ではあったが、それでも疲れが体の芯にまで淀んでいるような状態では、片付けをしようなどという気分にはとてもなれず、牧野はよろよろと寝室に入ると、ベッドの上から寝巻きと台本を無造作に払い落として、倒れこむようにマットレスに身を横たえた。眼鏡を外して枕に頭を沈める。ぐずぐずと、全身が重力に押し潰されていくような錯覚を覚えた。
昨年末までは割と余裕のあるスケジュールだったのが、今年に入って一気に忙しくなったのが相当きている。春の舞台が千秋楽を迎えた後はほぼ同時に映画とドラマの収録が入り、その後もオファーが立て続けで、この数ヶ月間は仕事にほとんど切れ目がなかった。
マネージャーも時間のやりくりに四苦八苦していて、連日当たり前のように午前様、起きるのも日の出前、などといったふざけた状況が続いている。牧野はもうすでに若手と言えるような年ではない。体力に、人一倍自信があるわけでもない。正直なところ、今のような状況はかなりきつかった。
(俺みたいな人間が、こんなに勤勉に働くなんて間違っている……)
そんなことを愚痴っぽく思う。
仕事場ではある程度猫を被っているものの、本来自分が気まぐれでわがままな性格だという自覚は一応ある。もし普通に就職し、サラリーマンにでもなっていたら、ダメ社員の烙印を押されて、今頃はリストラされていたかもしれない。
この仕事が好きだからこそ、今までなんとかやってこれたのだろうが、しかし役者になったときも売れなくて食い詰める日がくることはあっても、まさか忙しくて寝る間もないような立場になれるとは想像だにしていなかった。もちろん仕事があるに越したことはないのだが、もう少しほどほどの忙しさだったらいいのにと、身勝手なことをつい考えてしまう。
ひとつため息をついてから手を伸ばし、ベッドサイドに放り出してあったリモコンを引き寄せた。ボタンを操作して部屋の灯かりをすべて落とし、上掛けを引き寄せて、もぞもぞとその中にくるまる。まだ服を着替えてもいないが、今はなにより睡眠時間が惜しかった。今すぐ寝付けたとしても、起きるまでにはあと三時間ほどしかない。
(五時に起きて、シャワーを浴びて、なにか胃に入れながら台本のチェックをして)
半分眠りかけた頭で目覚めてからやるべきことを整理しながら寝返りを打ち、牧野はいったん閉ざした瞼をふっと開いた。腰骨のあたりにごつごつした感触がある。何だろうと一瞬考えて、すぐにポケットに携帯電話を入れっぱなしにしていたことを思い出した。
「しまった……」
朝、撮影に入る前に電源を切ったまま、そういえば今日一日、留守録やメールのチェックもしていなかった。今まさに寝ようとしていたところなのにと舌打ちしながら、暗闇の中で携帯を取り出す。どちらにしろ、寝る前にアラームの設定をしておかなければならなかった。
フリップを開き電源を入れると、真っ暗だった部屋に突然パッと明るい人工の光が灯る。差すようなその白い輝きに反射的に眼をすがめ、画面に表示された現在時刻にうんざりしながら携帯をギリギリまで目に近づけて着歴をチェックをして、牧野はさらにうんざりと眉をしかめた。今現在、牧野が誰よりも距離を置きたいと考えている人物、すなわち別居中の妻からの留守録が、何件も立て続けに入っていたからだ。
嫌々ながらそのうちの一件を再生し、たちまち流れ出してきた文句を言い立てる甲高い声に疲労感がどっと増すのを感じる。
牧野が女性に惹かれない最大の理由が、この耳障りな声だ。どうして女というやつは、すぐにこう感情的で高い声を出すのか。男の低い声は周囲の音に溶け込んでやわらかく耳に馴染むのにとイライラしながら、牧野は留守録をどんどん聞き飛ばしていく。
スタイリストとして撮影所で働いていた妻の美穂里(みほり)とは、仕事をきっかけに知り合った。その当時は万事につけ控えめで口数の少ない女で、牧野が前触れもなく結婚を申し込んだときにもすぐ大人しく頷くような、あまり主体性を感じられない女だったのだが、そんな出会いの頃の姿が嘘のように、ここ最近の彼女はやけにしつこく牧野に連絡を取ろうとしてくる。
美穂里が言ってくる内容は、大体いつも同じだ。ただとにかく、牧野に家に戻って来いと言うのだ。しかしいまさら家に戻ってどうするというのか。顔を突き合わせても、互いにただ気まずいだけではないか。
まして結婚前から不貞を働き、よそで子どもまで作ってきた女が、どの面下げて自分に会いたいなどというのか牧野には分からない。分かりたくもなかった。
いつまでも有耶無耶にしていて、どうにかなるような問題でないことは承知しているが、しかしすぐに解決できるようなことならば、いかな牧野とて少しはなにか手を打っている。疲れ切った頭で考えるには厄介すぎる問題に腹が立ち、牧野はついに八つ当たり気味に携帯の電源を切ろうとした。
しかし一瞬早く流れ出した最後の留守録が、その指を宙で止めさせた。主に牧野の多忙が原因で、ここしばらく会えずにいた男からのメッセージだった。深夜の静かな闇をほのかに灯すような穏やかな低い声に、牧野は思わず聞き入ってしまう。
『――お疲れ様です、牧野さん。撮影は無事済みましたか? 俺は明日は朝から取材で千葉に行って来ます。新鮮な魚をたくさん土産に持って帰りますから、もし明日の夜来られるようなら連絡を下さい。待っています』
それではお休みなさい、と、どこかぎごちなくメッセージが締めくくられる。
元々牧野のファンであったという男は、未だに牧野に対して比較的丁寧な言葉使いでしゃべる。それが男の若々しいが落ち着いた声音とあいまって、いつも牧野の耳にはひどく心地よく響いた。ささくれ立っていた神経が、束の間和らぐ気がする。
用件だけで手短に終わってしまったメッセージが少し物足りなくて、牧野は年甲斐もなく口を尖らせた。自分から男に連絡を入れる時も、いつも用件だけで終わらせているくせに、勝手なものだ。
目覚ましの設定をしてサイドテーブルに携帯を置き、今度こそベッドの中に深く潜り込みながら、牧野は明日の朝一番にやるべきことをもうひとつ付け加えた。
(アパートに行ってやるから、絶対に美味いものを食わせろって、電話してやらないと……)
幸いにも、明日の撮影は久しぶりに早く終わる予定だった。
多分相手も明日の朝は早くから仕事に出かけるはずだから、牧野が朝五時に連絡しようが、構わないはずだ。できれば起きてすぐに、もう一度あの優しい声を聞きたい。
そう決めるとなぜだか妙に気が昂ぶってしまい、体はひどく疲れているのに寝付けなくなってしまって、牧野はその夜何度も暗闇の中で寝返りを打つ羽目になったのだった。
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