神殺しの男【大神殿に巣食う蛇】
9
分厚い一枚板で作られた、巧緻な装飾の施された重い扉を、シィラーズはなんの感慨もない冷めた眼差しで数ヶ月ぶりに見上げた。
純金の鍍金
を施された取っ手に手を掛ける。力をこめて押し開くと、女性らしい、華やかな飾りつけの施された部屋の様子がまず目に入った。
鼻先をくすぐる甘い香りに気づいて視線をさ迷わせると、部屋の中央に置かれた華奢な造りの机の上に、摘んできてまだ間もないと思われる野の花が生けられていた。姉に仕える侍女のリュディアがやったことだろう。シィラーズが世話をしていた頃は、このようなことはしたことがない。別に気が回らなかったわけではなく、心を持たない姉のためにこんな気遣いをしてやったところで、何の意味もないと思っていたからだ。
「失礼する。リュディア殿はおられるか」
声変わりをすませてもなお透明感を失わないよく通る声で呼ばわると、すぐに返事が戻ってきて、奥の部屋の幕を跳ね上げリュディアが顔を出した。シィラーズの顔を認めると深々と頭を下げ、「お呼びつけして申し訳ございません」と恐縮したように詫びる。そんな彼女におざなりな目礼だけを返し、シィラーズは室内に足を踏み入れた。
「姉上のお加減はいかがか。まだ熱があるように伺ったが」
「はい、意識も朦朧とされていて……。お食事も簡単な汁物さえ喉を通られないようで、このままでは一層衰弱されてし まうのではないかと心配で」
あの姉の意識が朦朧としていて、いったいなんだというのか。つまりはいつもと同じ状態だということではないかと内心では嘲りながら、しかし口には出さずに、シィラーズはアナヒータの寝室に足を踏み入れる。
透けるような薄い幕が何枚も重ねられた天蓋つきの寝台に、アナヒータは細い肢体を横たえていた。一室のほとんどを占拠するような広い寝台の上では、その小柄な体はまるで砂浜に打ち上げられた貝のように哀れな、頼りないものに見える。
二つ年上の姉はたしか今年十七歳になったはずだが、とてもそうは見えない。変わらず細身ではあるものの、日に日に成長し逞しさを増している弟とは対照的に、アナヒータはまるで時間の流れから取り残され、成長を忘れてしまったようだった。
(相変わらず無駄に美しい女だ)
窓もない薄暗い部屋の中に浮かび上がる白い面輪を間近に見下ろし、呆れと感嘆が入り混じった感慨を抱きながら手を伸ばしてその額に触れる。しっとりと汗ばんだ額は、はっきりそうと分かるほどに熱を持っていた。頬は上気して赤く染まり、唇からは苦しげな吐息が絶え間なく漏れている。
蝋で作った人形のような平生の姿より、熱に苦しむ今のほうがむしろ生気があるように見え、シィラーズは小さく瞬きしてから後についてきていたリュディアを振り返った。
「治療は最善を尽くしていると聞いているが、少しは良くおなりなのか?」
その問いにリュディアは少し躊躇う素振りを見せてから、小さく頭を振った。
「それが……、薬師の方がお使いになるお薬はアナヒータ様のお体には少々強すぎるようで。服薬されたあとしばらくは 状態がよくても、しばらくすると必ず、以前よりもお苦しそうなご様子になるのです。処方を変えていただけないかと薬師の方に何度か申し上げたのですが、素人が憶測でものを言うものではないと、その度たしなめられて……」
神子の診察を任されるほどの薬師といえば、恐らくは王宮にも出入りしているガルフースとかいう老人だろう。あの男なら、まともな処方ができないのも道理だとシィラーズは思った。薬師としての腕ではなく、商売と口の上手さでこれまでのし上がってきたような男だ。手持ちの薬のうちもっとも高価なものをアナヒータに使って、とりあえずの体面を保っているといったところか。
アナヒータは、今もシィラーズにとって欠かせない後ろ盾だ。いくら意思を持たない
木偶
の坊とはいえ、このまま永遠に寝込ませておくわけにはいかない。薬師を変えるよう上に進言すべきかと考えていると、再び控えめな声がかけられた 。
「あの……、シィラーズ様。誠に差し出がましいのですが、アナヒータ様のお体に合った処方をして下さりそうな薬師の 方に、わたくし心当たりがございます。城下に住んでおられる方で、ガルフース様のような高価なお薬は使いませんが、 子どもや女性も多く診て、腕が良いと下々の者の間では評判でございました」
なにかの決意を示すように固く両手を組み合わせ、リュディアは口早に続けた。
「その方のもとを訪ねて、よいお薬をいただいてきとうございます。その間アナヒータ様をお任せしてもよろしいでしょうか? 数刻のうちには戻って参りますので、どうか」
なるほど、今日になって急に呼ばれたのはこれを頼みたかったからかとシィラーズは得心した。リュディアが来る前は 、アナヒータの世話はシィラーズがその全てを行っていた。薬を取りに行く間、代わりを任せられるものとして真っ先に頼ってきたのも無理はない。
「そういった事情なら是非もない。姉上のお体のためにできることは、ほかの何を置いても優先されるべきだ。ここは私が引き受けるから、今すぐその薬師のところを訪ねてきて頂きたい」
「あ、ありがとうございます!」
いくつも年下のシィラーズに向かいリュディアは繰り返し頭を下げると、手早く支度を整えて、すぐに部屋を出て行った 。まだ日は高い。話に出てきた薬師が城下のどこに住んでいるにしろ、今から行けば、夕闇が落ちる前にはリュディアは戻ってくることだろう。
シィラーズは手持ち無沙汰に周囲を眺め渡した。代理を任せると言われても、リュディアの仕事振りは完璧で、床には塵一つ落ちていないし、家具はすべて磨き抜かれて艶やかな輝きを放っている。
勤勉なシィラーズは、怠惰というものに慣れていない。
アナヒータの居室には本もなければ時間をつぶせる遊戯具のひとつもなく、さて何をして数刻を過ごそうかと頭を悩ませていると、また熱が上がってきたのか、アナヒータが小さく呻くような声を上げた。
見るといつの間に目を覚ましていたのか、澄んだ瞳が虚ろに宙を見上げている。
「どうされました。お苦しいのですか?」
実の弟から他人行儀な敬語で話しかけられても、アナヒータはぼんやりとしたままだ。
もとより何の反応も期待していなかったシィラーズは、どうせ意識を取り戻したのならこの間に汗に濡れた衣服を着替えさせようと、新たな衣を用意してから、骨がないかのようにやわらかい、ほっそりとした体を寝台の上に起こさせた。
事務的な手つきで衣服をはだけさせ、水で濡らして固く絞った布で汗ばんだ体を拭う。
アナヒータはシィラーズの首筋に頭を預け、なされるがままになっていた。あまりにも儚い、力弱いその風情に、シィラーズは不思議な感慨を抱く。その気になれば片手で絞め殺せそうなこの脆弱な生き物が、一度その身に神を降ろした途端、誰も抗えぬ圧倒的な力で人々をひれ伏させるのだ。
――今、この場に神が降りてくればいいのにと、シィラーズの中にふとした願望が芽生えた。
そうしたらこの華奢な手足を押さえつけて、思うままに神を支配してやろう。世界の所有者たる神を支配することができたら、それはどれほどの喜びをもたらすだろうか。
想像した瞬間、急に体温が上がった気がした。無防備に己に身を委ねている、アナヒータの麗容を見下ろす。
躊躇いはほとんどなかった。無造作に姉の体を敷布の上に押し付ける。金糸のような髪が宙を舞い、シィラーズの体にも幾筋か纏わり付いた。それを煩わしげに振り払い、シィラーズは忙しない動きでアナヒータの体から衣服をすべて剥ぎ取った。目に眩しい、白い裸体が露になる。
相手が肉親であるということは、シィラーズにはなんの抑制にもならなかった。目の前にいるのは情愛を注ぐべき対象ではなく、支配すべきもの。ただそれだけの存在だ。
日頃イハブによって好きなように体を扱われることで、身の内に押し込められてきた男としての本能までが一気に溢れ出してきたのか、シィラーズは血の滾りに任せ、無抵抗の体に己の欲望を注ぎ込んだ。
今なにをされているのかも分からぬまま、アナヒータのうつろな視線が宙をさ迷う。長い睫が弱々しく瞬き、汚れを知らぬその瞳は、やがて閉ざされた瞼の下に隠れていった。
――薬を手にリュディアが戻ってきたとき、部屋の中に嵐のあとを思わせるような痕跡は一切残っていなかった。
周到なまでにこれまでどおりに整えられた寝台の上で、まるで何事もなかったかのように綺麗に身繕いされたアナヒータが寝かされている。
出かける前よりもその顔色は幾分蒼褪め、呼吸が荒いような気がしたが、それも病のせいだろうとリュディアはごく自然に判断した。一刻も早く薬を飲ませようと用意する彼女にあとを託し、シィラーズは部屋を立ち去る。
不思議な高揚と失望とが、彼の中を満たしていた。高揚は神の宿る器を犯し、支配したことによるもの。失望は己の愛し子が汚されても、神が何の反応も示さなかったことによるものだ。
だが、数歩歩くうちにシィラーズはそんな感情も綺麗に忘れ去った。もとより罪を犯した悔悟の念などない。先ほどの出来事は誰にも知られることのないまま、なかったこととして消えていくのだと、彼は信じて疑わなかった。
数ヵ月後、アナヒータが誰とも知れぬ男の子を孕んだらしいと聞かされる、そのときまでは。
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