神殺しの男【大神殿に巣食う蛇】

10

 大神殿の最奥まで続くまっすぐ延びた回廊を、シィラーズは苦々しい思いで眺めていた。
 回廊の両脇に規則正しく並んだ円柱の傍らには、ほぼ一本につきひとりずつ、いかめしく武装した兵士たちが立っており、鋭い眼差しで周囲の警戒に当たっている。
 ――――神子姫アナヒータの身に起こった前代未聞の不祥事は、神殿内に激震をもたらした。
 妊娠が発覚してすぐに、アナヒータは自身の居室に監禁された。部屋から出ることを一切禁じられているため、神降ろしの儀式は以降一度も行なわれず、これまで許可つきで彼女への面会が叶っていた者たちすら、身辺に近づくことを固く禁じられている。
 その中には、もちろんシィラーズも含まれていた。
 あまりに長すぎるため、先が霞んで見える回廊に、シィラーズはもう一度視線をやる。しばらくそのままでいたが、兵士のひとりが不審げな顔でこちらを見ていることに気づき、舌打ちをこらえてシィラーズは踵を返した。
 これほど警戒されていては、どうすることもできない。こうしてシィラーズが手をこまねいているうちにも、姉の腹は新たな命を育み、少しずつ、だが確実に、大きくなっているはずなのに。
 アナヒータを孕ませた男の捜索は、事が起こってから三ヶ月ほど経った今でも続けられているが、いまだめぼしい手懸かりは見つかっていないと聞く。アナヒータの美貌を信奉する複数の男の名前が取り沙汰されたものの、どれも決定的な証拠が見つからないまま、犯人探しは暗礁に乗り上げているようだった。
 まさか実の弟がその姉に狼藉を働いたとは誰も思いつかないらしく、シィラーズを怪しむ声はまだ一度も上がっていない。
 姉の忠実な侍女であるリュディアが、神子姫を狼藉者の手から守ることができなかった (とが) で役目を解かれ、神殿から追放されていたことも、シィラーズにとっては好都合だった。
 あの女には、シィラーズが以前姉の部屋に長時間留まっていたことを知られてしまっている。誰か頭の回る者があの日のことについて、一部始終彼女に話させていたならば、今頃シィラーズはこのように自由にしてはいられなかったことだろう。
 そして今ごろアナヒータは、監視の目に幾重にも取り巻かれながら事態の大きさを知ることもなく、ひとりぼんやりと日々を過ごしているはずだ。
 人に気づかれることなく彼女に近づけるものならば、罪の証がこの世に現れてくる前に、この手で消し去ってしまえるものをと、シィラーズはひそかに歯噛みした。
 苛立ちを抱えつつ自室に戻ろうとしかけ、ふと気を変えてシィラーズは足先を向ける方向を変える。
 いくつもの建物を回廊が繋ぐ複雑な道筋を迷うことなく進み、やがてたどりついたのはイーワン司教、イハブの居室だった。
 扉の外から声をかけても返事はなかったが、それもいつものことだ。形式的に扉を叩き、室内に入ると、酔いによどんだ目がこちらをうっそりと眺めてきた。
 殺生を嫌う聖職者には禁じられているはずの毛織物がかけられた長椅子にだらしなく腰掛け、王侯が使うような金杯で、これもやはり神官職には禁じられている葡萄酒をあおっていたイハブは、シィラーズが近づいていくと痩けた頬をゆるませた。筋張った腕が、シィラーズの細腰を無造作に引き寄せる。
「姉の見舞いに行ったのではなかったか、シィラーズよ」
 酒臭い息が顔にかかっても表情を変えることなく、シィラーズは抱き寄せられるままイハブに身を添わせると、ことさら寂しげな笑みを口許に刻んで見せた。
「近づくどころか、兵士たちが大勢回廊に立ち並んでいて、姉上の影を見ることすら叶いませんでした。あの奥で姉上がおひとりでどれほど寂しい思いをされていることか……。思えば胸が痛みます」
 思ってもないことをしゃあしゃあと口にすると、イハブはようやく杯を放し、「そうか、哀れなことだ」といいながら、抱き込んだシィラーズの体にいやらしく指を這わせ始める。
 どうやらそんな気分になっているらしいと見て取り、シィラーズはさらに体から力を抜いて、長椅子の上に寝そべるようにした。イハブの痩せた体が上からのしかかってくる。そのあまりの軽さに、シィラーズははじめてそっと眉をひそめた。
 上流の出らしく、イハブは品よく整った面立ちをした男だったが、長年の自堕落な生活がたたってか、その顔は生気に乏しく、全身からは常に荒んだ空気が漂っている。
 加えて、なにか悪い病気でも身の内に抱えているのかもしれない。毎日美食にふけっていながら、この頃のこのやつれようは尋常ではない。
 ……姉に続いて、もしこの男の庇護まで失ったら。
 考えた瞬間わずかに体が強張った。熱心にシィラーズの体をまさぐっていた男がそれに気づき、不快げに「どうした」と聞いてくる。そっと首を横に振って再び従順に体を委ねながら、シィラーズはこのごろ気がかりにしていたことを尋ねてみた。
「司教様、この頃お母上のお加減はいかがですか。この春はいくぶん良くおなりになったと伺いましたが、その後も変わらずにお過ごしでしょうか」
 今度はイハブの表情が強張った。「知らぬ」と一言だけ言って、荒々しくシィラーズの首筋に唇を這わせる。「司教様」もう一度、心持ち語調を強めて質すと、ようやく渋々と口を開いた。
「……先日またお倒れになったそうだ。今度は薬もろくに効かぬという。明朝にでも、母上の離宮に見舞いに伺うつもりだが、あるいはそれが最期の別れになるやもしれんな」
  自棄(やけ) のように吐き出された言葉に、淫靡な色に染まりかけた部屋の空気が、一瞬凍りついた気がした。


* * *


 イハブの予測どおり、その母である王姉は、それから数日と持たずに息を引き取った。
 悪いことは続くもので、母を長らく苦しめていた病魔が代わりに乗り移りでもしたかのように、しばらくしてから今度はイハブが倒れ、病の床に就くようになった。
 もともと年齢よりもはるかに衰えていた体は弱るのも早く、イハブは今や枕から頭を上げるのも難しいような有様だ。大神殿の奥では、早くも後任のイーワン司教の選定が始まっていると聞く。
 王姉が (こう) ずれば遠からずイハブは失脚するだろうと、以前から囁かれてはいた。だがそのときがこうも早く訪れるとは、シィラーズは予測していなかった。
 寝台に横たわるやつれ果てた顔を眺めながら、シィラーズは心中で『役立たずめ』と吐き捨てる。それから、開け放たれた大きな窓に視線を向けた。
 今日はもう一人の役立たずがこの神殿から去る日だった。
 次第に膨らみが目立ち始めた腹を抱えたアナヒータが、とうとうこの大神殿から追放されることが決まったのだ。
 純潔を失うことによって、アナヒータの神子としての力までがなくなってしまったわけではない。その何よりの証拠に、妊娠が発覚するまでの間、アナヒータは以前と変わらず神子としての勤めを果たしていた。
 体調が思わしくないことはしばしばあったが、それは今にして思えば妊娠初期の当たり前の症状であり、むしろアナヒータの腹に子が宿ってからは、以前よりもさらに神の寵愛が深まった向きさえある。
 だが、思考の硬直化した大神殿の神官たちは、「神子は純潔であるべし」という固定観念でがんじがらめに縛られており、アナヒータを追放して今後誰に神を降ろせばいいのかと訴える声も一部からは聞こえるものの、大勢を占めるまでには至らなかった。
 むしろ後々のことまで考えれば、これ以上神の寵愛が深まる前にアナヒータを追放してしまったほうが得策だという声のほうが強い。
 神子姫といえども、肉体を持つ人間であることに変わりはない。
 いつかアナヒータの命が失われてしまったとき、代わりになる神子が見つからないようでは困る。ましてアナヒータは、神を降ろすことはできても人の言葉を伝えることはできない、不完全な神子だ。
 ならばいっそ、まだ傷の浅い今のうちに神の許からアナヒータを引き剥がし、なんとかして代わりになる神子を見つけて神事を正常な形に戻そうということで、意見が一致したらしかった。
 神子姫を熱狂的に信奉する民衆たちの反発を恐れ、アナヒータの追放は公に知らされることなく、深夜にひっそりと行なわれた。
 粗末な輿が一台仕立てられ、身重の神子姫を中に乗せて、幾人かの兵士たちに周囲を固められながら、夜闇に紛れるように去っていく。
 見晴らしのいい窓からその様子を見送りながら、シィラーズは今度は口に出して呟いた。
「……役立たずめ」
 ひとりでは何もできないアナヒータがこれからどこに運ばれ、どうやって暮らし、そしてやがて生まれるであろう子どもがどのように扱われるのか、シィラーズは何も知らない。いくら実の弟とはいえ、一介の神官風情にそのような重大な情報が知らされるわけもない。
 そもそもこれからの自分の立身に関わりない情報に、シィラーズは興味など欠片も持っていない。ただ、これであの 木偶(でく) のような姉と生涯縁が切れるのだなと、頭の片隅で思っただけだった。
「……シィラーズ、どこだ。シィラーズ……」
 奥の寝台から弱々しい声がかすかに聞こえてくる。
「傍にいてくれ。シィラーズ。シィラーズ……」
 半ば屍と化した男が必死に繰り返す言葉に振り返りもせず、シィラーズは鬱蒼と茂る木々の濃い影が、風に揺れる様を見つめた。
 もはや自分を庇護する者はいなくなったも同然だ。
 ならばこれからどうするか。どうすれば今よりさらに上の地位に進めるのか。
 そこにわずかな光でも見えないか探すように、シィラーズはただ凝然と、夜闇を眺め続けていた。

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