神殺しの男【大神殿に巣食う蛇】
11
「――おや、珍しい顔を見たな」
からかう声が聞こえてきて、シィラーズは読みふけっていた書物から顔を上げた。背後を振り向き、書架の間に馴染みある顔を見つけて、恭しく頭を下げる。
「ご無沙汰致しております、マシク様」
押さえたはずの声も、この静かな建物の中ではよく響く。
祭祀場と変わらぬほど広い空間に、大人の男の背丈の二倍はあろうかという高さの書架が隙間なく並べられた大神殿の書庫。マシクは長年、この書庫の管理を任されている男だ。
幼いころ頻繁にここに通っていたシィラーズに目をかけており、顔を合わせるたび親しげに声をかけてくる。今も好々爺然とした笑みを浮かべながら、傍に寄ってきた。
「そのように頭を下げるな、尻がこそばゆくなるわ。そも、神殿内の地位は、今やおまえのほうが上ではないか」
「とんでもない。薄氷の上に立ち続けているような、心許ない身の上です」
シィラーズの言葉に、マシクが少し困惑した顔つきになった。長く伸ばした顎ひげを闇雲に指先で撫でる。
「ふむ。姉君のことは誠に気の毒であったな。それにイハブ殿のことも」
シィラーズが無言でそっと目線を落とすと、その仕草がいかにも沈痛そうに見えたのだろう。ますますマシクは困惑の色を深め、しきりに顎ひげを撫でさすった。
「その、なんだ。イハブ殿には、もう最期の別れはすませたのか?」
「ご遺骸はご葬儀のあと、すぐにご実家の方々が引き取って行かれましたので。結局ご葬儀に向かわれるご遺体を、遠くからお見送りをさせていただいたのが最後となりました」
「そうか。うん、そうか……」
それきりマシクは口を閉ざす。再び「気の毒だった」などと、下手な慰めを言ってこないのがありがたかった。別に悲しいとも思っていないことを一方的に同情されてしまっては、相手をするのも煩わしい。
イハブが逝ったのは、ほんの三日前のことだ。どうやら本当に母親と同じ病にかかっていたらしく、出来の悪い息子を生前ひどく憂いていた母親が、この世に己の恥を遺さぬよう、イハブに冥府への供を命じたのではないかと、みな口々に噂していた。
さもありなんと、シィラーズも思う。イハブは本当に、どうしようもなく出来の悪い男だった。それでもまだ役立ち様はあったのだ。骨の髄まで利用しきる前に呆気なく死なれてしまい、腹立たしく思う気持ちは尽きないが、過ぎたことにいつまでもこだわるような非合理的なことを、シィラーズは好まない。
これまで順調だった出世を止めてしまわないためには、何をすべきなのか。ここしばらく、シィラーズは考え続けていた。残念ながらまだはかばかしい考えは浮かばなかったが、ふと思い出したことがあって、先ほどここに来てみたのだった。
ここにあるのは、庶民であれば生涯見ることもできないような、立派な装丁が施された大判の書物が多い。読んでいると、だんだんと手が疲れてくる。
痺れかけた腕の位置をさりげなくずらしていると、「いったいなにをそんなに熱心に読んでいるのだ」とマシクが首を伸ばし、シィラーズの手にある書物を脇から覗き込んできた。数瞬のち、皺に埋もれた小さな目が丸く見開かれる。
「驚いたな。おまえは中世の文字まで読みこなすのか」
「完全に理解できるわけではありません。半分は推測しながら読んでいるだけです」
「それにしても……。これはこの国の建国以前に著された書物だぞ。専門に学んだわけでもなかろうに、まったくお前というやつには頭が下がる」
言いながらも何気なく文字を追っていたマシクの表情が、徐々に強張っていく。その視線をたどり、彼が自分と同じ箇所に注目していることに気づいて、ちょうどよい機会だとシィラーズは口を開いた。
「そう、たとえばこの部分も少々意味が取りづらくて。大意が外れていないか、ぜひ確認していただきたいのですが。『――魔を呼び出すには水に繋がったところ。地下水の湧き出す泉や、井戸などが適している。魔は地の奥深く潜み、外に出る機会を窺っている。形なき存在であるがため、常に器を求め、人の心の隙間に潜り込んでは、人の魂まで自在に操る力を――…』」
なめらかだった言葉が急に途切れたのは、顔色を変えたマシクが傍らから手を伸ばしてきて、シィラーズの手から書物を奪ったからだ。
「どこか意味が違っておりましたか?」
抗うことなく本から手を離し、無邪気そうに聞くと、マシクは首を横に振った。憎々しげに手の中の書物を睨みつけ、「こんなくだらないものを、真面目に受け止めるものではない」と吐き捨てて、開いていた頁を乱暴に閉じる。
「くだらないとは何故でしょう」
「魔物など、この世に存在するわけがなかろう。あんなものは空想の産物だ」
「そうでしょうか」
シィラーズは軽く首を傾げた。
「神が存在するならば、その対極に位置する魔性が実在しても一向おかしくないと思われませんか?」
「罰当たりなことを言うなっ」
血相を変えてマシクが怒鳴った。それに動じることなく、シィラーズはゆっくりと歩を進めると、手を伸ばして奪われた書物の背に指先を触れさせる。
「――――まだ幼かった頃、この書物をはじめて手に取ったときも、不思議に思ったのです」
そのときはかすかな違和感を抱いただけで、書物を棚に戻した。しかし、その後もシィラーズが感じた喉に引っかかる小骨のような違和感は消えることなく、時折ここに来ては、今はもうない国の学者が書き残したこの書物を手に取った。
イハブが死んだとき、なぜ再びこの本の存在を思い出したのか、理由はよく分からない。だが一度思い出してしまうとどうにも気にかかって仕方なくなり、ようやく時間ができた今日、何度も読んで文章もほぼ覚えてしまっているこの本を、再び読み返しにきたのだ。
「神とは違い「魔」の存在は架空のもの、物語や教訓の中にだけ登場する存在だと誰もが言う。そのはずなのに、この書物に出てくる「魔」の記述は、あまりにも詳細にわたりすぎています。まるで、実際に魔と遭遇したことのある者が書きでもしたかのように」
「……神と魔は、同列に論じてよいものではない」
しわがれた声は、かすかに震えていた。じっとマシクを見つめると、マシクもシィラーズの顔を見返してくる。互いの腹を探り合うような時間がしばらく続いたが、やがてマシクは疲れたようにため息を吐くと、手近な卓の上に持っていた書籍を重たげに置いた。
「だが……、魔の存在自体はたしかに否定しきれるものではない。古代の書には、魔について扱ったものが数多く存在する。おそらく魔はこの世のどこかに実在するのだろうと、私も思う」
「『どこか』とは、ずいぶん曖昧な表現ですね。マシク様はそれがどこなのか、ご存知ないのですか?」
「知らぬ。知らないようにすることを、我らの祖先が選んだのだ。魔の存在を忘れ、神のみを崇めるようにした。それがなぜか、分かるかシィラーズ」
「神が、より偉大な力を持つからではないのですか?」
違う、と短い答えが返ってくる。
「魔の力の凄まじさは、けっして神に劣るものではない。少なくとも、古書にはそう記されている」
思わぬ言葉に、シィラーズは小さく息を呑んだ。
「それでも人は神を崇拝することを選んだ。神は、人のように小賢しい知恵を持ってはおらぬ。ゆえに私利私欲とは常に無縁の、尊き存在だ。吹き渡る風や、降り注ぐ日の光と同じ、自然そのものと一体化した、いや、自然そのものが神なのだ。だからこそ、すべての望みが叶えられることはないにしても、人々は躊躇うことなくその存在にすがることができる。……アナヒータ様も、そういった意味では非常に神に近しい存在だった。まこと、あの方以上の神子が今後現れることはあるまい」
麗しい神子姫の姿を脳裏に思い描いてか、一瞬目を伏せてから、マシクは一転険しい眼差しになる。
「だが魔は違う。やつらの存在は神よりも、むしろ人に近い。思考し、欲望を持ち、そしてその欲望に忠実だ。だというのに、やつらの中には、力だけは神にも等しいものさえいると聞く。そんなものたちが万一にでも地上に現れたりすればどれほど恐ろしい事態になるか。想像に易いはずだ」
「つまり魔とは、神の力を備えた人、と。そういうことですか?」
「肉体を持たぬというから、存在の仕方としては神に近い。だがその実は、限りなく人に近いものだ。我々にとってもっとも幸いなことは、やつらが普段は地の奥深くに封じ込められているということだ。それが神の力によるものなのか、あるいは人には関わりようのない、大自然の理によるものなのかは知らぬが……」
そのとき、両手いっぱいに書物を抱えた男が近くを通りがかって、マシクははっと口をつぐんだ。潜めた声で話していたためか、男はこちらに気づくことなく、本の重みによろよろしながらまた離れていく。その姿が書架の奥に消えるのを見送ってから、よりいっそう低めた声でマシクが続けた。
「このまま、人はけっしてやつらに触れてはならん。それを肝に銘じていたからこそ、われらの祖先は魔の存在を記憶の底に封じ込め、その実在の証さえ残さないようにした。平穏を保つには、このまま魔を存在しないものとして扱うのが一番なのだ。――いいな、シィラーズ。もう二度と好奇心でこのような本に触れてはならぬ。これは禁書だ。このような場所に置いていた私が迂闊だった」
「承知いたしました。貴重な教えを授かり、感謝いたします」
深々と頭を垂れながら、シィラーズは唇の片側を吊り上げ、堪え切れない歓喜に酔いしれた。
人に近い存在でありながら、神と同等の力を持つ「魔」。理想的ではないか。それこそ自分が長らく求めてきた、存在の在り方なのではないか。
強大な力。人を、世界を、すべてのものを支配下に置く力。それを持つかもしれない存在が、神以外にも、ある。
腹の底に火と油を同時に振り撒かれたように、焼けつくような熱い衝動が急速に湧き上がってきた。常には鋼のように強固にシィラーズを縛っている理性が、どろりと溶け落ちていくのを感じる。欲しい。力が欲しい。欲望を剥き出しにした頭で、ただそれだけを考える。
話すべきことは話したと判断したのだろう。再び厚い本を抱え、マシクが書架の奥へと向かう。そのあとを、シィラーズはさりげなく追った。厳重に鍵をかけられた扉の前で、マシクが立ち止まる。懐に入れていた鍵束を取り出そうとして、手に持っていた本が邪魔になっているのを見て取り、シィラーズは横合いからすっと手を差し出した。
「お手伝いいたしましょう」
「おお、すまんな」
ほっとしたようにシィラーズの手に書物を預け、マシクは鍵束の中からとりわけ古びた、鈍い光を放つ
真鍮
の鍵を選び出し、扉を開けた。中からかび臭い、ひんやりとした空気が流れてくる。
「中までお運びいたします」
書物を取り戻そうと伸ばされた手をやんわりと断り、シィラーズは部屋の中に足を踏み入れる。より年季が入って見えるくすんだ色の書架が狭い空間の中に整然と並べられており、書架の間の通路は人ひとり移動するのも窮屈に感じそうなほど狭い。
続いて入ってきたマシクに促され、その手に書物を渡しながらも、鋭い視線で室内を観察する。古今の様々な書物が入り混じっているらしく、並んだ背表紙にざっと目を走らせた限りでは、シィラーズが読めそうなものと解読が難しそうなもの、七対三ほどの割合のようだった。
先ほどマシクが話していた魔について記された古書は、おそらくこの中に眠っているのだろう。シィラーズは小さく喉を鳴らした。
「どうした、もう助けは不要だ。早くこの部屋から出て行きなさい」
今すぐ、すべての書物に目を通したいと思っているシィラーズの胸中を見抜いたのだろう。追い立てようとするマシクに、シィラーズは率直に願った。
「ここにある書物を、私に読ませてはいただけませんか」
駄目だ、とにべもない言葉が返される。
「まずはこの部屋の外にある書物に、全て目を通してみなさい。ここにある書物を手に取るにはお前はまだ若すぎるし、物を知らなさすぎる」
「……そうですか、残念です」
淡々と言いながら、シィラーズは懐に手を入れ、そこに忍ばせてあったものに触れた。
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