神殺しの男【大神殿に巣食う蛇】

12

 本を棚に片づけようと、マシクがこちらに背を向ける。固い感触を握り締め、空いた片手で扉を閉めると、シィラーズは一直線にマシクに向かって行き、その背に覆い被さるようにして右手を突き出した。鈍い手ごたえとともに、短い悲鳴が上がる。掌を、ぬめる液体が流れ落ちていく。
「――このように性急にことを運ぶのは、私の主義に反するのですが」
 軽く手首を回しながら右手を引くと、悲鳴とともにマシクの体が弓なりにのけぞった。雷に打たれたようにびくびくと体を震わせ、その場にくずおれる。白い長衣が、見る見るうちに真紅に染まっていく。
 こらえきれない苦痛にうめきながら、マシクがのろのろとこちらを振り返った。そしてシィラーズの手の内にあるものを見て、信じられないといったように目を見開く。
「なぜ……、そのようなものを持っている。神官職に、刃物の所持は、禁じられているはずだ……」
 この状況下で、規則のことなどを気にしている男に、シィラーズは失笑した。小刀を握った右手を軽く振る。磨き抜かれた刃先から血の滴が飛び散り、木の床を汚した。
「生前、イハブ様より頂戴しました。なにかあったときには、これであの方をお守りするようにと。これ以外にも、あの方は神官職にふさわしくないものを、山とお持ちでしたよ。酒も、麻薬も、稚児を嬲るのに使ういかがわしい道具も。葬儀後、あの方の居室の整理を任された者は、さぞかし戸惑ったことでしょうね」
「……」
 刺されたときよりも深く、老人の眉間に皺が刻まれる。端切れを取り出し、血にまみれた刃を拭ってから、シィラーズは小刀を鞘にしまい、再び懐に戻した。膝をついて苦痛に耐えているマシクと視線を合わせ、囁くように話しかける。
「私は力が欲しいのです」
 呆然と瞬くマシクに、冷たく笑いかける。
「力が欲しい。それも一刻も早く。申し訳ないが、この部屋に立ち入る許可を悠長に頂いているような余裕はないのですよ」
「力とは……、なんだ。それがこの部屋の中にあるというのか」
「さて、それはこれから調べてみなければわかりませんが、先ほどのお話は大変興味深いものでした。本当に感謝しているのですよ。これまでの思い込みを覆されて、世界の広さが二倍になったような気さえ致します」
 これまでは神の力に焦がれる一方だった。だが、それに対抗しうるほどの力が、この世界に存在するのかもしれない。もしその両方を己が手中に収めることができたら。考えると、背筋を戦慄に近い喜びが駆け抜けた。
「……人の手に余るほどの力を手に入れて、どうしようというのだ」
 喘鳴の間から切れ切れに寄越された問いに、シィラーズは小首を傾げた。
「どう? とは」
「いったいなにを……得るつもりだ。力など……、力など、なにかを手に入れるための手段に過ぎぬはずだ」
 すでに息も絶え絶えの状態にありながら、この男はなにをくだらないことを聞いてくるのかと、シィラーズは呆れた。力とは純粋なものだ。あらゆるものを支配し、あらゆるものを覆い尽くす圧倒的な力。
 それがシィラーズの欲しいものであり、そこに理由など必要ない。だからシィラーズは「なにも」と答えた。
「なにも欲しくはありません。人間は嫌いだし、金にも、さほど興味はない。財宝も……、まあ見ている分には美しいと思わないでもありませんが、自分のまわりに置いておきたいとまでは思わない。増えればきっと邪魔に思うでしょうしね。――――ただ、私は力が欲しい。力さえあれば、ほかにはなにもいらない」
「ばかな……」
 血にむせたのか、マシクがひどい咳をした。力尽きたように、がっくりと背後の壁に背をもたせかける。
「力を手に入れるために、力を得たいなどと……、ばかな……。愚かな、愚かしいことを」
 馬鹿だ、愚かだと何度も繰り返され、シィラーズはさすがに不快に感じて、秀麗な眉をひそめる。
 自分の望むものを他人に理解してもらおうなどと、欠片も思ってはいないのに、この男はしゃべりすぎる。これ以上何か言う前に息の根を止めてしまおうかとちらりと考えたが、その間にも、死にぞこないの男はまだしょうこりもなくしゃべろうとする。
 いったいどこにそんな力が残っているのか、不思議だった。
「――――覚えて、おけ、シィラーズ。力は、なにかを手に入れるための手段でしかない。なんの目的もなく、ただ力だけを求めたところで、待っているのは虚しさだけだ。覚えておけ。そして、自分の愚かさに気づけ。自分の小ささに気づけ、シィラーズ……」
 血まみれた手が、こちらに向けて伸ばされる。最期の力を振り絞るようにがくがくと震えながら伸ばされたその手は、わずかに離れた位置にいるシィラーズに触れることさえできず、やがて折れたように床上に落ちた。
 腕の重さにつられたように、マシクの体が重い音を立てて床に倒れた。しばらく続いていた喘鳴も途切れ途切れになり、やがて完全に聞こえなくなる。どうやらようやく息絶えたらしい。この手で人を殺すのは初めてだったが、人とは脆いようでいて、案外しぶといものなのだなと、シィラーズは思った。
 ほんのひと時遺体を見下ろしてから、シィラーズはまず扉へと向かった。今の騒動を聞きつけたものがいないか確認して、錠を下ろす。そして再び部屋の中へと取って返した。
 部屋の一番奥、とりわけ古そうな書物が並んだ棚をまず調べ始めながら、シィラーズは肩越しに一瞬、マシクの遺体を振り返った。
「私が目的に適う書物を見つけるのと、あなたの不在を不審に思った誰かがこの部屋に踏み込んでくるのと、どちらが先になるでしょうね」
 いっそ楽しそうに、くつくつとシィラーズは喉を鳴らして笑った。紙を綴る紐がぼろぼろになり、今にもちぎれてバラバラになってしまいそうな書物を慎重に開く。
「そもそも、ここに役に立つような書物があるのかすらわからない。圧倒的に、私には不利な状況だ。なのに何故でしょうね、マシク様。私はこの賭けに負ける気がしないのですよ」
 返ってくる答えは当然ない。室内を沈黙と、濃い血の臭いが支配する。
 ここに籠もっている間は、食物どころか水さえ口にできないだろう。誰かに踏み込まれる前に、力尽きて倒れる可能性もあるなと、シィラーズは難解な書物に恐ろしい速さで目を通しながら、冷静に考えた。
 これは賭けだ。自分の生命と将来を賭けた、その割にはあまりにも勝率の低い、馬鹿らしいような賭け。だが勝負に出たからには、シィラーズには負ける気などさらさらない。


 ――そして部屋にこもってから二日めの晩。窓から差し込む月明かりの下でかすれた文字を懸命に読み取りながら、シィラーズは己が賭けに勝ったことを確信したのだった。

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