神殺しの男【大神殿に巣食う蛇】

13

 夕餉の支度を始めていたリュディアは、薄布を揺らして窓から入ってきた風の中にかすかな雨の匂いを嗅ぎとり、慌てて履物を引っ掛けて中庭へと降りた。
 野薔薇の植え込みの傍に置かれた、陶製の可愛らしい椅子に腰掛け、雲に覆われた空をぼんやりと見上げている女主人の許に駆け寄っていく。そして、ふっくらした腹をゆるやかに撫でていた手を優しく取った。
「アナヒータ様。雨が降りそうです。どうぞ建物の中へお入り下さい」
 そう言っても反応はなかったが、気にすることなくリュディアは女主人の手を引き、慎重に立ち上がらせた。促すように背中を軽く押すと、抗うことなくアナヒータがゆっくりと歩き出す。
 二三歩進んだところで、その足元にぽつりと一滴、雨粒が落ちた。ぽつりと、また一滴。続いてまた一滴。空から雨が降り落ちてくる。
 白い頬を濡らす滴に、アナヒータが小さく瞬きした。細い指をそっと持ち上げ、濡れた頬をこする。
 ただの反射なのだろう。だがそんな些細な仕草さえいまだに見慣れず、リュディアは驚いて一瞬足を止めてしまった。つられたように、アナヒータも足を止める。すると今度はリュディアの頬をぴしゃっと雨粒が打った。その冷たさにはっと我に返り、リュディアは急いでアナヒータを建物の中へと避難させた。
 居間へと導いて、毛足の長い敷物の上にアナヒータの体を落ち着かせてから、わずかに湿ってしまった髪を丁寧に布で押さえる。腰まで届く金の髪は、薄闇が忍び込み始めた部屋の中でさえ星の光をまぶしたように輝き、リュディアの目を眩ませた。
 毎日眺めていても、一向に見飽きることのない美しさに感嘆の吐息をこぼしてから、うかうかしている場合ではなかったとリュディアはまた慌てて立ち上がり、室内に雨が吹き込んでこないようにと、小さな邸の中にある全ての窓を閉めて回った。
 どの窓からも、見えるのは庭に植えられた木々の群れか、その周囲に廻らされた塀の姿だけだ。外から覗き込まれることを防ぐため、この建物は四方を高い塀で囲われている。さらにその外側には常に数人の兵士が巡回しており、中に入り込もうとする輩がないように、今も厳しく目を光らせているはずだ。
 すべての窓を閉ざしてしまうと、外の世界の音と光が急に遠くなった。燭台に火を灯して、リュディアはアナヒータの許へと戻る。手近な卓の上に燭台を置いていると、アナヒータがふいに横たえていた身を起こした。蝋燭の光に惹かれたようでまじまじとそれを眺め、出し抜けにすっと手を伸ばす。そしてリュディアが止める間もなく、灯火に指先を触れさせた。
「アナヒータ様!」
 顔色をなくし、リュディアは叫んだ。同時に火の熱さに驚いて、アナヒータがびくっと肩をはねさせながら体を引く。
「なんてことを……。危険ですから、これに触れてはなりません。火傷されたのではありませんか? 大丈夫ですか、アナヒータ様」
 しきりに気遣いながらアナヒータの指先を確かめ、どうやら傷は無いようだと判断してほっと息を吐く。火に触れたのが一瞬でよかったとリュディアが胸を撫で下ろすうちにも、アナヒータは目を見開いて、蝋燭の火にじっと見入っていた。
 琥珀を薄めたような色の瞳に炎が照り映え、きらきらと輝いて、まるで生まれたての赤子のように無垢に見える。その様子を眺めるうちに、リュディアは自然に微笑んでいた。
「明かりですよ、アナヒータ様。 (ルーク) です」
 そう教えてやっても、アナヒータからめぼしい反応が返ってくることはない。ただこれまでになく生き生きと瞳を輝かせている主人の姿を見られることが嬉しく、こうして話しかける言葉も通じているような気がして、リュディアは何度も何度も同じ言葉を繰り返した。


 ――十年近く従順に仕え続けた神子姫に、大神殿はそれほど冷淡ではなかった。
 下野したあとも何不自由なく暮らせるようにと街なかに邸を用意し、大神殿を追放されたのち実家に戻っていたリュディアを呼び寄せて、再びアナヒータの世話をさせるように手配した。
 アナヒータがひとりで生きていくことは不可能だが、彼女にまつわることで外部に知られたくないことが、大神殿には山ほどある。彼女の世話をさせる人間はある程度事情に通じており、気が利いて、そして何より口の堅いものでなくてはならない。
 様々な条件を勘案すると、結局リュディア以外にアナヒータの世話を任せられるものが見つからず、美しい主人を心から敬愛していたリュディア自身もまた、再びアナヒータに仕えられる日がくることを強く願っていたため、話がまとまるのは早かった。
 再会の日、リュディアは涙まで流してアナヒータとまためぐり合えたことを喜び、それからは以前よりもさらに心をこめて彼女のために尽くすようになった。
 邸の中では好きなように暮らすことが許されていても、塀の外に出ることはままならない。
 女ふたりだけの幽閉に近い生活に多少不自由さを感じることはあったが、十代のころから女主人とふたりだけの生活に慣れていたリュディアにとっては、さほど苦痛になるものではなかった。むしろ一度は引き離された主人にふたたび仕えることのできる喜びを、噛み締める毎日だった。
 そしてなによりもリュディアに喜びをもたらしたのは、ここに来てから徐々に見られるようになった、アナヒータの変化だ。
 大神殿にいたとき、アナヒータの居室は美しく整えられ、一切の不便がないように設えられてはいたが、窓には格子がはめられ、隙間から外も覗けないようにされていた。
 また、儀式が執り行われるたび彼女が赴いていた祈祷所は、すべての窓に宗教画を描いた細かな色硝子が張られていて、空の色を見ることもできなかった。そこから様々に色を変えて差し込んでくる光が、長いことアナヒータが見ることのできる、空の面影の全てだった。
 この邸で暮らすようになって、アナヒータは生まれ故郷であるエフタルの常に暗い雲が立ちこめた陰鬱な空とも全く違う、底知れない広がりを持った空に魅せられたようだった。
 北の地に積もる万年雪のように、触れれば冷たさを感じそうなほど真白だった頬が日に焼けることなど気にもせずに、放っておくとアナヒータは毎日毎日、空を見上げ続けている。
 そんな日々の中で、存在しないと思われていたアナヒータの感情が、不思議なことに最近ほんの少しだけ、表面に表れるようになってきた。
 太陽を掠めて勇壮に羽ばたく大鷲の姿や、いくつにもちぎれてたなびく雲が、燃え上がる夕日の色に染め上げられるのを見るとき、アナヒータの瞳は輝きを増し、唇は花が綻びるようにうっとりとした笑みを形づくった。
 アナヒータが思いがけない不幸に見舞われたときには、彼女を守ることができなかったことを悔やみ、深く打ちひしがれたものだったが、大神殿を出てこうして暮らすようになったことは、結果的にはよかったのかもしれないと、この頃リュディアはよく思う。
 だが、なにもわからないアナヒータに狼藉を働いた男を許すことだけは、今も決してできなかった。いったい誰がアナヒータを……と考えるとき、いつも頭に浮かぶのはある一人の男の顔だ。
 まさかそんなことがと何度も己のおぞましい想像を打ち消したが、どんなに考えてもほかの心当たりがまったく思いつかない。リュディアの中で、その想像はいまや確信へと変わっていた。
 姉に似た細面に常に品の良い微笑を浮かべ、優雅な仕草で献身的に勤めを果たしていた男。
 悪評高いイーワン司教の直属の部下であっても、たゆまぬその働きぶりに多くの者が信頼を寄せ、一部のやっかみに似た風評を除いては、神殿内の評判は決して悪いものではなかった。
 リュディアもまた、その男の上っ面を信じ続けていた一人だった。だが、今では疑うことを知らなかったかつての自分があまりにも愚かに思える。どんなに微笑んでいても、いつもどこか冷めた空気を漂わせていた、蛇のような目をしたあの男。
 ――――シィラーズ
 その名を思い出すだけで、リュディアは息をするのも苦しいほどの憤りに駆られる。
 なぜあのとき、アナヒータが病に臥したあの日、一時にせよこの大事な主人をあの男の手に委ねてしまったのか。悔やむあまり、涙さえ溢れ出てきて、リュディアは慌てて袖口でそれを拭う。
 どんなに思い返しても、子を身ごもったと思しき時期にアナヒータと二人きりになった男は、彼しか思いつかない。他のときは必ずリュディアか、あるいは神殿内のものが複数、まわりにいたはずだ。
 薬を手に戻ってきたとき、ぐったりと寝台に横たわっていた主人の姿が瞼の裏を過る。あのとき、愚かにも自分はまた熱が上がったのかと、慌てただけだった。だがそうではなかったのだ。きっとあのとき、あの直前に、アナヒータは実の弟の手によってひどい屈辱を味わわされていたのだ。
 たとえアナヒータ自身がそのことに気づいていなくても、そしてアナヒータがいま不幸とは言えないとしても、あの男の犯した罪は決して許されてよいものではない。
 果たして天罰が下ったのだろうか。シィラーズは最近神事の最中に大量の血を吐き、昏倒したらしいと、邸の警戒に当たっている兵士が先日、他愛もない話に紛れてリュディアに教えてくれた。
 長年庇護を受けていたイーワン司教が先ごろ病没し、順調だった出世の道が閉ざされて心労がたまった末のことではないかとその兵士は推測していたが、そうと聞かされてもリュディアの中にシィラーズに同情する気持ちなど、欠片も湧いてこなかった。
 ただ、神はきちんと人々の罪を見ており、ふさわしい罰を与えてくださるのだと、頼もしく思う気持ちを強くする。
 ふと傍らを見ると、アナヒータはまだ、魅入られたように蝋燭の灯かりに夢中になっていた。
 その姿に微笑を深めながら、どうかこの美しい主人と、やがて生まれてくる御子をお守りくださいと、リュディアはどこかに必ずいるはずの神に深く静かな祈りを捧げた。

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