神殺しの男【大神殿に巣食う蛇】

14

 ――――世俗の喧騒から切り離された廃園のような空間にも、時は静かに流れていく。
 胎児の成長は順調だったが、この頃アナヒータの様子が少しおかしいことに、リュディアは気を揉んでいた。
 天気の良いときは相変わらず日がな一日空を見上げているのだが、時折なにかを拒むように激しく首を振ったり、以前のアナヒータに戻ってしまったように人形めいたうつろな表情を見せたり、あるいは椅子に座ったまま、長時間眠り込んでしまうことがやけに増えた。
 アナヒータの意識が散漫なのは今に始まったことではないが、しかしかつてとはなにかがが違う。この邸に来てから、アナヒータが自分の意思のようなものを見せ始めていたためによけいにそう思うのかもしれないが、まるで小石を飲み込んでしまったかのような、ひどい違和感を感じるのだ。
「――アナヒータ様、どうなさったのですか」
 あまりにも様子のおかしい彼女に不安が募り、声をかけると、アナヒータは苦しげな呼吸を数度繰り返し、うつろにリュディアの顔を眺めた。
 華奢な手をわずかに震わせて、己の腹を撫でる。そこにある命をなにかから庇おうとするように同じ仕草を繰り返す主人に、リュディアの不安はますます募った。
 心細げな吐息とともに、宝玉のようなアナヒータの瞳から一滴、涙がこぼれて頬を滑り落ちていく。そして助けを求めるように、弱々しい力でリュディアの体にすがりついてきた。
 かつてないほど人間らしいその仕草に驚きながら、どうしてやることもできない自分がもどかしくてならず、せめて少しでもアナヒータの心を慰めたくて、リュディアは頼りない背中を精一杯の力で抱きしめた。

* * *

 風が冷たさを増し、木々の葉の色が変わり始めたころ、月満ちてアナヒータは男児を産み落とした。生まれ落ちたときから不思議なほどに美しい、母とよく似た面立ちの、玉のような赤子だった。
 出産の日もアナヒータの意識は途切れがちだったが、か細い彼女の体をいったいなにが支えたのか、大神殿から遣わされた産婆の力を借りながら、アナヒータは長時間続いた苦しみに耐え切った。
 だがそれですべての力を使い果たしてしまったのか。
 産後アナヒータはみるみるうちに弱り、数日のうちには危篤状態に陥ってしまった。
 薬師も匙を投げたアナヒータをリュディアは懸命に介護したが、それは流れる川の水を掌だけでせき止めようとするかのような、無力な行為だった。死相が色濃く浮き出た主人の顔を、涙で霞む目でリュディアは呆然と見つめた。
 子どもが生まれ、アナヒータにも自我らしきものが芽生えて、この先待っているのは幸福なだけの日々ではなかったのか。どうして 嬰児(みどりご) の顔を一度も眺めることができないまま、アナヒータが今にも息絶えようとしているのだ。こんなことは、あまりにもひどすぎる。
 昏々と眠り続ける主人の名を、リュディアは気が狂ったように呼び続けた。そうしていないと、このまま何者かがアナヒータの命を摘み取ってしまうのではないかと、不安で仕方なかったのだ。
 リュディアの必死の叫びに呼応するように、生まれたばかりの赤子が泣き出す。小さな手を握り締め、全力で声を振り絞るわが子の声に引きずられたように、産後ずっと眠り続けていたアナヒータがその瞬間、薄く目を開いた。
「アナヒータさまっ!」
 涙混じりにリュディアが叫ぶと、アナヒータは弱々しく頭をめぐらせてこちらをぼんやりと見つめた。そしてゆっくりと顔の向きを変え、寝台のすぐ傍らで泣き続けるわが子に目線を落とす。
 薔薇の蕾のように可憐でふっくらとしたその唇が、わずかにほころんだ。
「ファ・ルーク……」
 か細い声が聞こえてきて、リュディアは大きく目を見開いた。吐息に紛れるような、だがたしかな意味を持った言葉が、未だ少女のように儚く美しいアナヒータの唇からもう一度こぼれ落ちる。
私の(ミア) 愛しい(ファ・) (ルーク) ……」
 木々の間からこぼれる金色の陽射しのような、満ち足りた、穏やかな笑みを浮かべるアナヒータの顔を、リュディアは信じられない思いで見詰めた。この美しい人が言葉を紡ぐのは、彼女が知っている限りこれが初めてだったのだ。
 陽射しを透かすほど薄い紗の幕を揺らし、窓から穏やかな風が忍び込んでくる。
 花の香りを含んだ風になびくように、アナヒータの長く、繊細な睫がゆるやかに動いた。その口元に浮かんだやわらかな微笑みが、空気に溶け込むように消えていく。
 やがて宝玉のような瞳が瞼の奥に隠れた。微かに上下していた胸が動きを止める。その奇跡のように美しい体から徐々に体温が失われていき、神にもっとも愛された佳人は、静かに永遠の眠りについたのだった。

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