神殺しの男【大神殿に巣食う蛇】

15

 ――ジジッと小さな音がして、リュディアは書簡に落としていた視線を上げた。
 机の上に長く伸びた燭台の影が、灯火の揺らめきとともに、わずかに揺らぐ。ひとつだけ灯した火影は、いつの間にかずいぶんと小さくなっていた。まだ半分ほどは残っていたはずの蜜蝋が燃え尽きるまでの長い時間、書簡に見入ってしまっていたのかと、自分に呆れる。
 小さく吐息して座っていた椅子から立ち上がると、リュディアは部屋の天井をそっと見上げた。
深夜とあって邸内は静まり返っているが、ちょうどこのすぐ上の部屋に幼い (あるじ) がいま、眠っているはずだ。神子姫、アナヒータの遺した男児。その子に、リュディアは「ファルーク」と名前をつけた。結果的に遺言となってしまった、アナヒータの最後にして唯一の言葉を、そのまま子どもの名前としたのだ。
 母親とは異なり、ファルークは今のところ明敏で快活な子に育ってくれている。まだ五つになったばかりだが、日に日に美しさを増していく水晶のように清らかなその面差しを思い描き、リュディアはまたふっと吐息した。
 机に置いた書簡に、またちらりと目をやる。
 昨日の昼間、唐突に届けられたこの書簡。思いがけない差出人と、その内容にリュディアは驚愕したが、ファルークに関わるとある申し出が書かれたその内容自体は決して悪いものではなかった。お受けすると、一言返事をしたためれば、閉塞しきった現状を打開するきっかけになるかもしれない。
 だが、いまだリュディアは迷っている。ファルークに関わることを、ただの使用人に過ぎない自分が決めてしまって、果たしてよいものだろうか。分に過ぎた行いではないだろうか。しかし幼い主人のこの先のことを考えれば、申し出を受けることが真の忠義といえるのではないだろうか。
 心の迷いを映すように、風もないのに小さな火影がゆらゆらと揺れる。そのまましばらく部屋の真ん中に佇んでいたリュディアだったが、小さな物音がどこからか聞こえてきて、はっと顎先を上げた。空耳かと思ったが、確かに何かを叩くような音がする。
 どうやら玄関口のほうから聞こえてくるようだと思って、リュディアは部屋を出た。こつこつという固い音は、どうやら扉を叩く音のようだ。間に紛れ、「リュディア殿。起きておられるか、リュディア殿」と、心もち潜められた声が繰り返している。
 その声に、リュディアは聞き覚えがあった。この邸内から出ることを禁じられているファルークとリュディアのために、いつも食材や生活に必要なものをあれこれと届けてくれる兵士の声だ。それにしてもなぜこんな深夜にと警戒しつつ、リュディアは扉を薄く開いた。
「おお、リュディア殿。夜分に突然申し訳ない」
 ほっとしたように笑った壮年の男に、リュディアは警戒を緩めず尋ねた。
「どうなさったのです。なにかご用なのですか」
「いやそれが、実はただいま大神殿からお使者がいらしているのです。リュディア殿に至急お知らせしたき儀があるとのことで、門の外まで出てきてはいただけぬかと。どうやらアナヒータ様の御子に関わるご用件のようです」
 その言葉に、リュディアは全身に緊張をみなぎらせた。分かりましたと頷き、外に出て、音を立てぬように慎重に扉を閉める。この邸の警護も兼ねている男に扉を守っていてくれるようにと頼み置いてから、ひとり門へと向かった。
 常には厳重に錠を下ろされている門扉が開いている。鉄でできた重いその扉を押して外に出ると、すぐそこに馬車が止められていた。こんな狭い路地には入れるのも苦労しそうなほどの、二頭立ての立派な馬車だ。
 辺りの闇は深く、馬と御者らしきの人の影が辛うじて判別できるだけで、車の中に誰が乗っているのかまではとても見分けられない。
 荒い馬の鼻息が、暗闇の中で不気味に響く。御者らしき者が近づいてきて、馬車の傍近くまでリュディアを誘った。だが「お話したいことがあるそうです」と言ってきただけで、誰が呼んでいるのか教えることさえしない。
 得体の知れぬ不安に駆られながら、リュディアは目の前の闇に目を凝らした。馬車の扉は開かれていて、中に誰かが乗っている。体格からして、どうやら男らしい。一体誰なのかと目を (すが) めたとき、馬車の側面に取り付けられた照明具に、御者が火を入れた。強い灯かりに突然目を射られて、リュディアは小さく悲鳴を上げる。
 小さく喉を鳴らして笑う声が聞こえてきた。リュディアの醜態がおかしくて笑っているのだろうか。聞き覚えのあるその声、その笑い方に背筋に戦慄が走り、リュディアは無意識のうちに肩を震わせた。
 反射的に閉ざしてしまった目を、恐る恐る開く。灯かりに焼かれて白く滲んだ視界が、少しずつ正常に戻っていく。朧だった馬車の中の人影が、はっきりと見えてきて―――。
「シィラーズ……さま」
 馬車の背もたれに上体を預け、首だけをねじってこちらを見ている男の名を、リュディアは呆然と呼んだ。自分はいま、悪夢を見ているのかと思った。何故ここにこの男が。この忌まわしい、おぞましい男がいるのか分からない。
「――――お久しぶりです。五年ぶりになりますか」
 唇の端に笑みを刻んだまま、馬車から降りることもせず、高い位置からシィラーズが見下ろしてくる。
「少々体を悪くしておりましてね。できればあまり動きたくない。こんなところからお話しする無礼をお許し願いたい」
 そう言ってきた声に、リュディアは違和感を感じた。かつては耳触りよく、柔らかかったはずの男の声が、妙にかすれている。灯かりに照らされたその姿をまじまじと見つめる。陰影の濃く浮き出た顔。
 以前よりもずいぶん大人びたその顔は、頬骨がわずかに突き出し、逆に肉は削げた気がする。ゆったりとした長衣で体を覆っているが、それでもなお分かるほどに体つきも細い。
 シィラーズは、リュディアが覚えているかつての姿よりも明らかにやつれていた。だがその顔に浮かぶ表情は変わらない。卑しい出であるとは微塵も窺わせない、よく整った貴族的な面立ちにやわらかな笑みを浮かべて、目許を和ませている。
 好意的にしか見えないその表情に、リュディアの警戒心はかえって強まった。
 かつてもこの男はこの笑顔で周囲を幻惑し、人々の心を手玉に取っていた。許されることのない罪に手を染めてさえ、その顔つきは少しも変わらなかった。この男は笑いながら罪を犯す。だから決して油断してはならないと、固く肝に銘じる。
「――こんな時間に、いったいなんの御用です」
 刺々しく聞くと、シィラーズは口許に笑みを張り付かせたまま、「せっかちなことだ」と、やはり () れた声で言った。
「久々の再会に挨拶もなしでは物足りない。あなたはもう少し礼儀をわきまえた方だと思っていましたが」
「あなた様以外の方には、もちろん礼儀を守らせていただきますとも。それよりも () くご用件を」
 無抵抗の姉を手篭めにしたような鬼畜に守る礼儀はないと言外に告げると、シィラーズはやれやれと、ため息を吐いた。
「それでは単刀直入に言いましょう。あなたが育てている姉上の御子を、大神殿に引き渡していただきたい」
 その言葉が耳に入った瞬間、リュディアは反射的に「嫌です!」と叫んでいた。ファルークを大神殿になどと、とんでもない話だ。この男の間近に、大事な主人を置いておけるわけがない。
「嫌とはなぜ? ――いや、理由などはどうでも構いません。姉上の御子を渡すのを拒む権利が、使用人のあなたになぜあるのですか」
 痛いところをつかれ、返す言葉を失って、リュディアは口を噤んだ。
「それに」
 シィラーズが声を潜める。その囁き声が、 (ひょう) のように鋭くリュディアの耳を貫いた。
「あなたは気づいているはずだ、あの子の父親が誰なのかを。私にはあの子を自由にする権利があるのですよ」
 ぬけぬけと。
 いったんは蒼褪めた顔色が、カッと紅潮したのが自分でもわかった。射殺しそうな眼差しで、リュディアはシィラーズを睨み上げた。
「存じておりますとも。だからこそ、あなた様にだけは絶対にファルーク様をお渡しすることはできません。だいたい今ごろになってなぜ、ファルーク様を引き取ろうなどと言うのですか。あの方をこの年までお育てしてきたのは私です。いまさらあなたの言うことなど、聞く気はありません!」
 断固とした決意を込めて言い放つと、シィラーズは小さく肩をすくめ、「気強いことだ」と呟いた。そしてゆっくりと首の向きを変え、目の前にそびえる邸の塀を見上げるようにする。
「――――聞くところによると、姉上の御子は母に似て大層美しい上に、不思議な力を持っているとか。はたして 依代(よりしろ) としての能力はどうなのでしょうね。やはり姉上に似て、神の器にふさわしい御子なのでしょうか」
 禍々しい意思をその声に感じ取り、リュディアは背筋をおののかせた。
「……いったい何を企んでいるのです。ファルーク様をどうするつもり」
「おや、これだけ言ってもわかりませんか? そんなはずはないでしょうに」
 愕然とした。まさかこの男は、ファルークをアナヒータのように、神子に仕立てあげるつもりでいるのか。
 姉やイハブの威光を利用して、かつてシィラーズが急速な立身を果たしていたことを思い出す。まさか甥であり息子であるファルークを、再び同じように利用するつもりでいるのか。
 リュディアは胸元で拳を固く握りしめた。震えそうになる足でしっかりと地を踏みしめる。そうしていないと、今にもわめき出して、怒りのあまり目の前の男につかみ掛かってしまいそうだった。
「……分かりません。分かりたくもありません」
 軋む声で辛うじてそれだけを言うと、シィラーズは唇に滲む嘲りの色を濃くした。より深く、背もたれにその身を沈ませる。
「まあいいでしょう。今日はひとまず用件を伝えに来ただけです。後日改めて使いを差し向けるので、そのときは速やかに御子を引き渡すよう」
「できないと申しておりますでしょう!」
「私も言ったはずです。あなたに拒む権利は与えられていないのですよ」
 睨みつけるリュディアの視線など毛ほども気にしていない風で、一月後、とシィラーズが付け加えた。
「月が変わってすぐに、私は司教に任じられる予定です」
「え……」
 唐突な話題の転換についていけず、リュディアはぽかんと口を開けた。
「司教に就任すれば、管轄の教区にしばらく赴く必要がある。一度王都を離れてしまえば、少なくとも二月は戻ってこられないでしょう。その前に可愛い甥の顔を一度は眺めておきたいと思ったのですよ」
「司教ですって……? そんな、ばかなことが」
「馬鹿なとは、いったいなにがです?」
 楽しげに、シィラーズが小首を傾げる。以前は見せなかったそんな気さくな仕草さえ、リュディアにはかえって禍々しく感じられた。
「あなた様はまだ、三十にもなってらっしゃらないはず。そんな若い身で、司教になどなれるわけがありません」
 司教はごく限られた神官だけがなれる、極めて高位の役職だ。どれほど上手くシィラーズが立ち回ったところで、ろくな後ろ盾もない、しかも貴族の出身でもない人間が、二十そこそこの若さで任じられるようなものではない。
 そしてもし仮にシィラーズの話が本当ならば。思考をめぐらせて、リュディアはぞっとした。
 近いうちに、シィラーズには強大な権力を与えられることになる。かつての神子姫の子を神殿に差し出させることくらい、造作なく命じられるほどの力を……。
「私の言葉を信じるも信じないも、あなた次第です。どうせ来月になれば、信ぜざるを得なくなる」
 そう言って、シィラーズは着物の袖から突き出した両手をゆっくりと体の前で組んだ。
 火を灯していても薄暗い馬車の中で、その肌は生気を感じないほどに白く浮き上がって見える。左手の小指にはめられた指輪が、わずかな光を反射してちかりと光った。
 琥珀の色を薄めたような、光に溶ける蜜色の輝石が台座に載せられている。不思議な色のその石に、リュディアの視線は一瞬で吸い寄せられた。
 なにかに似ているとそう思ったとき、リュディアの意識を引き戻すように、再び嗄れた声が降ってきた。
「ああ、そうだ。用件がもうひとつありました」
「え……」
「昨日の昼間、王宮から使者が来て、あなたになにやら書簡を渡したそうですね」
 ぎくりとした。意識せず、唇の端がひきつる。
「王宮から、いったいなんの用件だったのです。中には何が書いてあったのですか?」
 先ほどまでリュディアを悩ませていた手紙。あれが届いたことを、どうしてこの男が知っているのか。ひょっとしてその情報を手に入れたから、この男は今日ここに姿を見せたのか。
 あの手紙の内容を知られてはならない。リュディアは咄嗟にそう思い、じっとりと汗をかいた掌を握り締めながら、決然と顔を上げた。
「――王宮に、昔から親しくしていた叔母が仕えております。普段どうしても顔を合わせることができないので、元気にやっているのかと、心配してわざわざ手紙を届けさせてくれました。王宮からでもなければ、この邸の門は容易に開きませんので」
 リュディアの言葉を吟味するように、冷たい視線がこちらを見据えてくる。その視線の恐ろしいまでの圧力に、リュディアは必死で耐えた。
「あなたの叔母上が仕える先はどちらです?」
「国王陛下の第三夫人、カミラ様です」
 シィラーズが小さく頷く。今の言葉の真偽について、おそらく後で調べられるのだろうが、嘘は吐いてないのだから恐れることはない。ただ、手紙の中に書かれていたことで、黙っていることがあるだけで……。
 会話の間もふたりの様子を油断なく見つめていた御者が、シィラーズの目配せに反応して働き出した。馬車を動かす支度を始めたのを見てリュディアが一歩下がると、素早く近づいてきた御者が馬車の扉を恭しく閉じる。
 窓の桟に、細く筋張った手がゆっくりと載せられた。小指にはめられた指輪の輝きに、また視線を吸い寄せられてしまう。
「あなたが姉上の御子と過ごせる日も、残りわずかだ。せいぜい別れを惜しむのですね」
 ざらりと毒を含んだ声が耳に届いた次の瞬間には、馬が甲高いいななきを上げ、馬車が動き出していた。
 闇の中に呑みこまれるようにして、あっという間に馬車の姿が見えなくなる。周囲に沈黙が戻ってきても、リュディアはみじろぎもせず、馬車が消えていった先を眺めていた。目にはまだ、あの指輪の残像が残っている。
 あの冷たい男の指を飾るには不似合いなほど美しく、やわらかな色合いの石だった。なぜあの石がこんなにも気にかかるのかと考え、やがてリュディアはその理由に思い至る。
 ――あれは、あの石の色は、アナヒータ様のお目の色によく似ていた……。

* * *


 頼んだとおり、しっかりと扉を守ってくれていた兵士に礼を言って、リュディアは邸の中へと戻った。そのまますぐに自室に入り、机の上に出したままだった書簡に改めて目を通す。
 そこにはリュディアの健康を気遣う言葉とともに、ファルークとともに王宮で仕える気はないかという、叔母からの勧めが記されていた。国王の第三夫人、カミラ妃が生んだ王子が学問を始める年になり、ともに教えを受け、刺激しあえる学友を探しているのだという。
 アナヒータの死については早くに公表されたものの、死の直前に子どもを生んでいたことまでは、一般には知らされていない。だが、王宮はさすがに例外らしかった。五年前に生まれた子がそろそろ就学期であることを知り、なんの気まぐれかこの誘いを寄こしたものらしい。
 申し出を受ければファルークはこの邸の中から出ることでき、王子とともに、師について学ぶこともできる。なにより王宮の中までは、いかに大神殿といえど干渉することができないはずだ。
 先ほどまでは返事を躊躇っていたが、今はもう迷いはなかった。シィラーズにファルークを連れ去られてしまう前に、一刻も早くこの邸から出て行かなければと、急いで返書をしたためる。
 短い文章をほぼ書き終えたとき、部屋の入り口に人の気配を感じてリュディアはハッと顔を上げた。そしてすぐそこに闇を払うように輝かしい姿の少年が立っているのに気づき、慌てて立ち上がる。
「ファルーク様! どうなさったのです、こんなところに」
「さっき、リュディアが急に外に出て行ったから、気になって……」
 少し拗ねたように訴え、ファルークが近づいてくる。
「お起こししてしまったのですね。申し訳ございません」
 ううん、と首を横に振って、ファルークは書きかけの書簡に目を留めた。
「申し出……を、ありがたく……? 王子、殿下、の……側仕え……」
 切れ切れに文字を読み上げたが、難しかったのだろう。すぐ降参して「なんて書いてあるの?」と尋ねてきた。
 ファルークに文字を教えたのはリュディアだ。まだいくつかの単語を教えただけなのに、これだけ読むことができる聡さを嬉しく思いながら、リュディアはまだか細い彼の肩を優しく掌で包む。その場に屈み込み、アナヒータによく似た、透き通った瞳を見あげた。
「いただいたお手紙に、お返事を書いていたのです。近々ここを出ることになりますから、ファルーク様もどうかそのおつもりで」
「――――ここを出るって、どこに行くの?」
驚いたようにファルークが目をぱちくりさせる。「王宮に」と一瞬答えかけ、思いとどまってリュディアは言葉を変えた。
「外の世界に出るのですよ、ファルーク様。あなたのお母上が見られなかったもの、行けなかった場所に、これからは自由に行くことができるようになるのです」
「外の世界に……自由に?」
 それがいったいどういうことなのか、この邸からまだ出たことがないファルークには想像がつかないのだろう。おぼつかない口調で繰り返すファルークの、なめらかな白金の髪を撫でながら、リュディアは優しく頷いた。
「そうです。それがきっと、あなたのお母上の願いですから……」
 塀で囲まれたこの邸の狭い庭で、切り取られた空しか見ることのできなかった、アナヒータの分まで。
 ファルークには自らの足で歩き、少しでも広い空を見てもらいたい。何にもとらわれることなく、阻まれることなく、どこまでも広い世界へ。そのためなら、自分にできることはなんでもする。
 胸のうちに決意を秘めながら、リュディアはファルークの髪を静かに撫で続けた。


――『神殺しの男』第二章 完――


最後までお楽しみいただき、ありがとうございました。
ご感想などございましたら、ぜひお聞かせ下さい。


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