神殺しの男【大神殿に巣食う蛇】

 どんなに硬い氷でも少しずつ解け出していくように、そして解けた水が地面に染み込んでいくように、どれほど固く守られた秘密も、人の口を伝っていつしか知れ渡るものだ。
 決して公になることのないようにと大神官が周囲に厳命した、アナヒータに関するひとつの噂がシィラーズの耳に入るのに、それほど長い時は必要でなかった。
「――姉上が、神を堕落させたと?」
 その言葉が含む内容の深刻さとは裏腹な醒めた瞳で、シィラーズは今聞かされた言葉を鸚鵡返しに繰り返した。目の前に立ってこちらに卑屈な笑みを向けているのは、かつて同輩として同じ部屋で暮らしていた、エルニドという名の、神官見習いの男だった。
 そばかす面の小男は、お世辞にも整っているとは言いがたい顔で、シィラーズを見上げる。この一年で、シィラーズはずいぶんと背丈が伸びた。その顔がはるか上方にあるのが気に入らないようで、エルニドは一瞬眉根を寄せた。しかしすぐに気を取り直したようにその表情を覆い隠し、大袈裟な素振りで口の前に指を立てる。
「しいっ。声も潜めずにそんなことを口にするもんじゃない。これは大神官様自らが、けっして外に漏れることのないようにと、きつく戒められた秘密なんだから」
 そんな大事な秘密をぺらぺらと人に話しておいて、口にするなも何もない。矛盾した言葉にシィラーズは失笑した。それを余裕と受け取ったエルニドが、不快そうに唇をへし曲げる。
「……お前はどうやらまだことの深刻さが理解できていないようだな。いいか、お前の姉が神子姫となり、神を下ろす役割を一身に引き受けるようになってから、確かに神は荒ぶることがなくなり、儀式も滞りなく行えるようになった。だが」
 もったいぶるように言葉を区切り、エルニドは回廊に立つ太い円柱に背中を預ける。陰気らしい小さな眼が、シィラーズの反応を窺うように、ちらりとこちらを見上げた。
「同時に神は誰の祈りも、……大神官様の祈りですら、お聞き入れにはならなくなった。われわれの祈りを神が汲み取って下さるようにと、神子姫にどれほど懇願したところで、己の意思を持たない神子姫ではその願いを伝えるべくもない。ただ漫然と、神をその身に宿しているだけだ。そしてそんな神子姫を依代として寵愛なさるほどに、神はますますわれわれの声を遠ざける」
 なるほど。道理でこのところ、国の至るところで寒害だの飢饉だのが増えたわけだと、得々と語り続ける男を醒めた眼で見やりながら、まるで他人事のようにシィラーズは頭の片隅で考えた。
 これまで、人々は日の光が足りないときには神に祈って雲を払い、逆に水が足りないときにも神の力をもって雲を呼び寄せていた。だが雲を操るよう神に願って欲しいと、アナヒータにどれほど口を酸っぱくして言ったところで、言葉のひとつもしゃべったことのない彼女が、その意図を神に伝えられるわけがない。
 神は人と同じ意思を持ったものではない。限りなくただの「感情」に近いその存在は、これまでも気まぐれに人の願いを聞き届け、あるいは無視してきた。
 神の干渉がないときも雲は流れる。アナヒータを通じ、神に雨を呼んでくれるようにと祈ったときに、たまたまどこかから雨雲が流れてこれば、人々は「神子姫の言葉を、神が聞き入れてくださった」と熱狂して喜ぶ。彼女の力を、より強く信じるようになる。
 そうした小さな偶然が積もり積もって、自分たちの祈りが以前にも増して神に届きにくくなっていることを、これまで誰も気づかずにいたのだろう。だがひずみは確実に生まれており、今になって人々の生活をじわじわと圧迫し出した。そういうことだろう。
 しかしそれが何だというのだと、シィラーズは思った。
 有象無象の民たちがどれほど飢えや貧困、病に苦しんだところで、彼はそよ風に吹かれたほどの痛痒も感じることがない。もしこのことが原因でアナヒータが神子姫としての地位を失うとすれば、彼女の恩恵を未だに大いに受けているシィラーズとしては、いささか困ったことになるかもしれない。だが。
(――大神官は、姉上から神子姫の地位を奪えまいよ)
 ふてぶてしいほど落ち着き払って、彼はそう判断した。
 一介の神子だったはずの姉は、その美貌と神秘性からいまや神以上に神格化され、民によって崇められている。彼女の力は広い国土に遍く知れ渡り、このところの大神殿の繁栄ぶりも、アナヒータの存在に負うところが大きい。
 アナヒータの後釜を務められる神子でもいるのならばともかく、これほど存在感の大きくなってしまった彼女を神子の座から下ろすのは、大神殿にとって致命傷にすらなりかねないはずだ。現にこのように不穏な噂が広まっていてさえ、アナヒータが未だ神子姫の座にあり続けているということはそれ自体が、現状維持を望む大神殿の意向を表わしているように、シィラーズには思えた。
 もちろん彼としても、懸念するところがまったくないではない。しかしそれをそのまま顔に出し、エルニドを喜ばせてやるような可愛げなど、彼は生まれたときから持ち合わせていなかった。
 だからシィラーズは余計に余裕のある顔をし、口許に嘲りの笑みさえ浮かべてみせた。どれほど戯言を吐いたところで、自分は何とも思わないという意思を示して。それを見たエルニドが案の定ムッとした顔になり、舌に毒気をまぶしてさらに言い募る。
「わかっているのか。この噂が広まって、まず最初に困るのは自分なんだぞ。あの女がもし神子の地位を失えば、その日のうちに役立たずのお前もこの神殿を追放されるだろう。ふん、いい気味だ」
 あの女とは、当然アナヒータのことだろう。結局それが本音かと思いつつ、シィラーズはことさら醒めた眼でエルニドを見下ろした。
「噂はあくまで噂だ。姉上が希代の神子姫であることは、この国に暮らす全ての民が知っていること。まかり間違っても、取り替えのきくような方ではない。……貴様と違ってな」
 何年経っても見習いのまま、まだ神官に上がることすらできないでいる男を揶揄して言ってやると、エルニドは逆上し、我を忘れて叫んだ。
「なっ、なにを生意気なっ! お前こそ、汚らわしい寵童風情ではないか。色狂いの司教と頭の狂った姉に出世させてもらって、偉そうな顔ができた身分か。恥を知るがいいっ、――ふぐっ!!」
 口汚くわめき散らすエルニドの喉元を、シィラーズの片手が無造作につかんだ。容赦ない力がこもる。ほっそりとした外見に見合わぬ膂力にエルニドはさっと蒼褪め、すぐに熟れすぎた李のように赤黒い顔色となった。口端から唾液がこぼれ落ち、わななく腕が必死にシィラーズの腕をつかもうとするが叶わず、ただ虚しく宙を掻く。
 半ば意識を失いかけている彼の耳元に唇を寄せ、シィラーズは氷を含んだような声で囁いた。
「口が過ぎるようだな。身分をわきまえろ、たかだか神官見習い風情が」
 言って、手を離す。重い音を立てて、エルニドの体が神殿の回廊に崩れ落ちた。ひっ、ひっ、と危うい呼吸を繰り返す男の首には、締め上げられた手の跡がくっきりと浮かび上がっていた。真っ赤に充血した目が、涙をボロボロこぼしながら床からシィラーズを見上げる。なんとか起き上がろうともがくエルニドの腹を思うさま踏みにじり、上がった苦痛の呻き声を楽しみながら、シィラーズは酷薄そうな唇を笑みの形に歪めた。
「そう。そうやって地べたから私を見上げているのが、貴様には似合いだ。貴様と私がいる場所は、いまやこれほど隔たっている。そのことをよく覚えて、わきまえておくがいい」
 虫けらが。そう吐き捨てて、シィラーズは悠然とその場を立ち去った。


 ――アナヒータが高熱に倒れ、数日前から床に臥しているという報せがシィラーズのもとに届いたのは、それからまもなくのことだった。

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