神殺しの男【大神殿に巣食う蛇】
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イーワン司教イハブは、シィラーズが期待した通り、ずいぶんと役に立つ男だった。
最初はアナヒータの弟であるという一点に興味を抱いていたようだったが、表向き従順に仕え、何事にも気の回るシィラーズのことを彼が特別に気に入るまで、多くの時間は必要なかった。次第に人目を憚らずシィラーズを寵愛するようになり、昼となく夜となく彼を身辺にはべらせるのと同時に、熱心にその地位を引き上げた。
そのためシィラーズは瞬く間に一介の神官見習いから神官補佐に、またイハブの側近としての侍従の地位も手に入れ、初めて彼が大神殿を訪れてから四度めの春を迎えるころには、同年代の神官たちとは一線を画す存在となっていた。それは良識ある人々が眉をひそめ、欲深い男たちが妬みのこもった眼差しを向けてくるのを嘲笑うかのような、圧倒的な速さでの出世だった。
イハブが公平無私な人間であったなら、こんな極端な出世は有り得なかったろう。周囲を顧みない振る舞いをする人間だからこそ、取り入る価値がある。シィラーズは自分の選択に至極満足していた。つい先日までシィラーズと同室で、何かといえば彼を蔑み、小突いたり突き飛ばしたりと程度の低い嫌がらせをしかけてきた少年たちは、今はもうすれ違えばシィラーズに頭を下げねばならぬ立場となっている。
顔を伏せながらも、悔しげに歯噛みしている彼らの姿を上から見下ろすのは気分がよかった。そして思う。大神殿の頂点から、いや、それこそ天上の、神々の位置から同じように人々を嘲り笑うことができたら、どれほど楽しいことだろうか。普段は物事に対する感動の薄い彼だったが、そのことを想像するときだけは、いつも鳥肌立つほどの興奮に駆り立てられるのだった。
――――少しでも早く、少しでも上の地位に。
シィラーズの頭を占める思いはいつもそのことばかりだったが、けれどまた、明敏な彼は自分の今の立場の危うさに勘付いてもいた。
いくら氏素性がいいとはいえ、好き勝手放題の行いを続けているイハブが、いつまでも安閑としてその地位に留まっていられるわけがない。シィラーズを強引に取り立てただけに留まらず、イハブは己の教区から奉納される金や食料の多くを着服し、清貧を旨とするべき立場にありながら奢侈と美食を尽くす日々を送っていた。
国に年貢を納め、神にも日々の収穫物を捧げる民たちの負担はひどく大きい。だが、イハブはそんな民たちの痛みを顧みることは、そもそも思いつきもしないようだった。さらに彼は神官でありながら、日に一度も神に祈りを捧げようとしない男で、その私室に置かれた聖壇は、もうずっと埃をかぶったままだった。
またシィラーズひとりに留まらず、気が向けば聖俗問わぬ少年たちを弄び、飽きれば放り出すのも常のことで、その行状のあまりのひどさに、イハブにとっては叔父にあたる国王ですら、この頃は眉をひそめていると聞く。長く病に伏し、余命いくばくもないと噂される王姉、イハブの母である人が薨(こう)ずれば、そのときは国王も大神官もイハブを除くのに躊躇うことはないだろうと思われた。
万一のときも共倒れになる愚を冒す気のないシィラーズは、イハブの側近くにはべりながらも、彼をいつまで利用し、いつ離れるべきか、冷たい視線でその時期を慎重に見極めていた。そして神官としての勤めと勉学に懸命に励み、早すぎる出世に見合うだけの努力をすることを惜しまなかった。そうすることによって、己自身の持つ価値を周囲に存分に見せ付けたのだ。だから蔭でシィラーズを「イハブの稚児」と罵る者はいても、表立って彼が今の地位にふさわしくないと指弾できるものはいない。
そんなふうに、まるで生き急ぐかのように一時も休むことなく駆け続けるシィラーズとは対照的に、今や「神子姫」の尊称もすっかり定着した姉のアナヒータは、過ぎ行く一日一日を、巡り来る季節を、人々に導かれるままに、寸分の狂いもなく同じように行動しながら過ごしていた。
わずかに変化したことといえば、彼女の身辺の世話をするものが今や時折気まぐれに居室を訪れるだけになった弟から、愛くるしく情の深いリュディアに完全に変わったこと。ただそれだけで、毎朝リュディアに起こされ、湯浴みをして髪と衣装を整えられて、儀式のある日は神をその身に降ろして人々の祈りを受け止め、何もない日は日がな一日ただぼんやりと宙を見詰めて過ごし、食事の時間が来たらリュディアに世話されて物を噛み、そして夜が来たら眠るという日々を繰り返していた。物を考える力のない彼女は、それで幸せでもなければ不幸でもなく、ただそのようにして生きていた。
命ある限り、従順に勤めを果たし続ける理想の神子姫。彼女を取り囲む神官たちは、長い大神殿の歴史の中でも、これほど神と人との関係が安定したことはかつてなかっただろうと、喜びも露に口にした。
次第に女性らしいまろやかさを肉体に帯び始めたアナヒータの美しさはさらに磨かれるばかりで、もはや神を降ろさずとも、人々は彼女の尋常ならざる容貌に打ち震え、涙を流して祈りを捧げては、請われもしないまま喜んで私財の多くを神殿に捧げる。磐石に見える大神殿の権威。だがまさに絶頂期の繁栄を迎える壮麗な神殿の奥深くでは、最高位の神官たちが、アナヒータによって生み出された未曾有の難問に頭を抱えていたのだった。
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