神殺しの男【大神殿に巣食う蛇】

 アナヒータに神子としての秀でた才が備わっていることが分かると、大神官自らの命によって、彼女に対する扱いは下にも置かぬものとなった。
 彼女が北辺の地の出身と聞いたときには「田舎ものよ」と蔑んだ神官たちも、その態度を一転して改め、よってたかって彼女のことを持ち上げ、崇拝した。実際神をその身に降ろしたときのアナヒータの神々しさは、彼女自身のもとからの美しさとも相まって例えようもないほどであり、一度でもその姿を見たもので彼女を崇めないものは、神殿内に誰一人としていなかった。
 アナヒータの居室には、広大な建物の中の奥まったところにある、小さな中庭を正面に配したとりわけ豪奢なしつらいの施された部屋が用意された。そして姉の恩恵を蒙り、シィラーズもまた姉の居室の片隅に作られた召使い用の控えの間を与えられることとなった。
 召使い用の部屋とはいえ、神殿の中で働くほかの使用人たちが窓もない狭い部屋に幾人もひとまとめで詰め込まれていることを思えば、多少狭かろうが清潔で明るい部屋を一室与えられたことは格段の好待遇であったと言えるだろう。その部屋に起居しながら、シィラーズは旅の間も、いやそれ以前からずっとそうしてきたように、姉の身辺の世話をして過ごした。
 どんなに贅を尽くされた部屋で過ごそうと、儀式のあるとき以外は相変わらず椅子に座ったままぼんやりと宙を見詰めているきりの彼女は、洗面から沐浴、食事に至るまで、弟の介添えがなかった生きることすら覚束なかったはずだ。アナヒータは真綿に何重にも包まれて保管される「沈黙の海マレロ・ルーゼ」の真珠のごとく、風にも当てぬように、神殿内でこの上なく大切に養育された。
 だが生きる能力には欠けていても、巫女としてのアナヒータの能力に疑問を差し挟む余地は微塵もなかった。空っぽの器のような彼女の体は、そこに宿ろうとする神にとってはよほど居心地よいものであるらしく、一度その肉体に宿ってしまうと容易には離れようとしない神に、神官たちが困惑するほどだった。
 しかもアナヒータに対する神の寵愛は時とともに深くなっていく一方で、しばらくすると彼女以外の神子に寄り憑くことを神が拒むようにさえなってしまった。その偏愛に周囲は驚きつつも、自然儀式の折にはアナヒータひとりが神子としての役目を負うようになっていき、神殿内における彼女の地位は、本人の意思とはまったく無関係に重くなる一方だった。
 希代の神子であるアナヒータの存在は、神殿内だけでなく、すぐに王宮や城下の民たちにも広く知られるところとなった。人々は熱狂的に彼女の美貌を讃え、その能力を崇めた。ついには姉が生き神のようにもてはやされるようになったのを見て、シィラーズは失笑を堪えるのがやっとだった。
(所詮中身のない偶像のほうが、崇めやすいということか)
 周囲の熱狂とは無縁の彼は、そんな風に冷めた眼差しで事態をとらえていた。だがこの騒ぎは彼にとっては悪いものではなかった。姉の存在価値が高まれば、彼女にくっついている自分の価値も多少は高められる。それがたとえほんのわずかのものであれ、神殿内にあって小間使いに毛の生えた程度の存在でしかない今のシィラーズにとってみれば、ありがたいものだった。
 回廊を一人で歩いているときに、通りがかった神官たちに「あれが神子の弟だ」と、好奇と若干の畏怖とともに指を指される。普通の小間使いであれば、もともとの出身が貴族の子弟ばかりである神官たちは、目をくれることもなかっただろう。存在を認識されるということが、まず貴重な第一歩になるのだとシィラーズは考えていた。何のための第一歩か? もちろんこの神殿内で、のし上がるための第一歩だ。
 貧しい平民出身であるシィラーズには、そもそも神官になる資格すら与えられていない。だが幼さゆえの無鉄砲と一言で片付けることができないほど頑なに、シィラーズは自分が将来栄達する姿をはっきりとその脳裏に思い描いていた。そして現在の唯一の仕事である姉の世話を忠実に勤めながら、それを実現するための道を日々模索し続けた。
 さて、アナヒータの神殿内における役割が次第に重くなっていくと、彼女の世話係をまだ幼い弟ひとりだけに任せておくのはいかなるものかと、次第に神殿の上層部の間で取り沙汰されるようになった。実質的にはシィラーズひとりで全ての用が足りていたのだが、やはり女の世話は女に任せるのがいいという意見もあり、一年もするとリュディアというそばかすの目立つ、だが生き生きとした表情が魅力的な少女が小間使いとして神殿に新たに雇われ、アナヒータの着替えであるとか、沐浴であるとかの役目は主に彼女に任されるようになった。
「神子様のお世話をさせていただけて、とても光栄です。至らないところもあるかと思いますが、いろいろ教えてくださいませ」と、年下のシィラーズ相手にも丁寧な口調で、深々と頭を下げた優しそうな彼女を、シィラーズは一目見て嫌いになってしまった。自分のことが一番大切で、他の人間のことなどどうでもいいと思っているシィラーズとは対照的な人種だと、すぐに分かったからだ。この女はおそらく本気で人のことを案じることができ、他人のために犠牲を払うことを躊躇わない類の人間だ。気持ち悪い人種だと思った。だからアナヒータを挟んでシィラーズとも仲良くしたがっているらしいリュディアをなるべく避け、極力顔を合わせないように注意を払うようになった。
 それでなくても、長い髪を三つ編みにして頭の後ろでまとめ、くるくるとよく働くリュディアが来てしまうと、シィラーズは手持ち無沙汰になる時間が多くなった。そこでシィラーズは、空いた時間には神殿内の書庫に通い、学問に励むことを決めた。まず文字の切れ端が理解できる程度だった読み書きの能力を独力で完全なものにしてしまうと、その後は書庫内にあるありとあらゆる本を読み漁った。
 同時に神殿内で祈祷や説法が行われるときには、許される限りそのほとんど全てに参加し、神の教えと、神に仕える方法を学んだ。そして説法が終わった後には神殿内を綺麗に掃き清め、書庫の整理なども積極的に手伝って、誰の目にも明らかに見えるほどに献身的に尽くして回った。
 まだ幼い彼の努力と才に感服し、最初にそのことを神官長に報告したのは、書庫の管理を任されている初老の神官、マシクだった。マシクはシィラーズが誰の助けも借りないまま、ロシュタミア王国史と、アステラ神の経典を読み解いたことを神官長に知らせ、このまま埋もれさせるには惜しすぎる才能であるから、是非神官見習いに取り立ててやってくれないかと願い出た。
 年が同じであるため、昔から付き合いのあったマシクに切々と頼まれた神官長は、彼がそれほどまでにいうなら余程の才があるのだろうと信じ、ほどなくしてシィラーズを神官見習いに任じた。シィラーズがアナヒータの弟であるということも、決断の一因となった。今や国中の民が崇める神子姫の弟が、あまりみすぼらしい身分のままでいるのもどうかと、神官長は考えたのだ。
 これまで大神殿で神官見習いとして取り立てられるのは王族や大貴族の子息といった、身分高いものばかりだっただめ、このシィラーズの思い掛けない出世は人々を驚かせた。
 心ある人は「身分に関わらず、優れたものを取り立てるのは神殿にとっていいことだ」と神官長の決断を褒め称えたが、権威主義に凝り固まった多くの神官たちは、下層の身から成り上がろうとしているシィラーズのことを不快に思い、特にシィラーズとともに学び、ともに暮らすことになった権高な少年たちは、何かといえばシィラーズに些細な嫌がらせをしかけてきた。
 だが姉に似て繊細な容貌を持つシィラーズは、その外面に反して、強靭な精神の持ち主だった。人を妬み、根拠のない理由で蔑むような輩の企むような嫌がらせなど、彼はすべて鼻先でせせら笑い、切り捨てた。
 彼には自分の進むべき道筋がはっきりと見えており、こんなひよっこの身分のまま立ち止まって、人を嘲ることに全力を注ぐような間抜けなものたちと一緒に踊ってやるつもりは毛頭なかった。書庫に通うようになったのも、神官長と親しいマシクの知遇を得られたのも、けして偶然ではなく、彼自身が立てた計画によるものだった。姉とともにこの神殿に足を踏み入れてからこの数年間、シィラーズもただ漫然と姉の世話をして過ごしていたわけではない。常に周囲を観察し、耳をそばだて、厳しい身分制度を突破する道がどこにあるかを慎重に探っていたのだ。
 神殿内で伸し上がるための一番最初の階段に、彼はもう足を掛けている。あとはこの階段を真っ直ぐに駆け上がるだけだ。間違っても途中で足を踏み外したりはしない。
 そう固く思い定めたシィラーズはそのとき、ちょうど十歳になっていた。

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