神殺しの男【大神殿に巣食う蛇】
3
そして長い旅路をその細い足で見事に歩ききり、シィラーズはいま、大神殿の中央部に位置する祭祀場の中にいる。
旅の初めには足の裏に大きなマメがいくつもでき、しかもそれが何度もつぶれて泣き叫びたくなるような激痛を味わったものだが、その痛みに慣れるころには脹脛や太ももの筋肉痛に悩まされることも少なくなり、姉に合わせたゆっくりとした歩調であればなんとか着いて行けるようになった。
その子どもらしからぬ我慢強さはときに同行する使者をも驚かせたが、シィラーズにとってこの程度の試練は大したことではない。あの貧相で暗い村から抜け出せることを思えば、足の一本や二本、惜しいものではなかった。
いつも暗い顔つきをして黙々と働く両親にも、今にも壊れてしまいそうなほどに狭く小さな家にも、薄汚れたランプから立ち上る獣くさい脂の臭いにも、シィラーズはとっくにうんざりしていて、故郷を立ち去るときにも未練などほんのかけらも感じなかったほどだ。だから最後に村を飛び出す機会を与えてくれた両親には、感謝してやってもいいと思う。もっともその感謝の心も、両親の存在とともにすぐに忘れてしまうことだろうが。
儀式が執り行われる際には何百人という信者を収容することもある、だだっ広い部屋の壁際に置かれた子どもの体には少し高すぎる椅子に座って足を揺らしながら、気のない顔で彼は目の前で始まろうとしている儀式を眺めていた。十人ばかりの神官が立ち並ぶその中心には、祭壇に向かって立つ姉のほっそりとした姿がある。
周囲で何が行われているのか理解した様子もなく、ただぼんやりと虚空を見詰める彼女の背後には山羊のような白い髭を生やした大神官が立っていて、さきほどからしきりにまじないのような言葉を呟いていた。どうやらアナヒータの神子としての能力を試すために、アステラ神をその体に降ろす儀式を試みているらしいが、やたらと長い、堅苦しい形式ばった儀式で、シィラーズは退屈しきって小さなあくびをこぼした。
不謹慎なその仕草は誰かに咎められて当然のものだったが、周囲の大人は誰一人シィラーズのことなどに注意していなかった。それよりもまだ幼いアナヒータの美しさに、誰しもが陶然と魅入られている。眼に入った神官の鼻の下を伸ばしきった顔を、シィラーズは気づかれないように心持ち俯きながらせせら笑った。
確かに姉は美しい。しかしそれも外見上だけのものだ。あんな中身のない、つまらない人間に惹かれる連中の気が知れないと思う。同じ中身がないものなら祭壇の上に置かれたぴかぴか輝く真鍮の燭台や、祭壇の脇に安置された、聖人を象った精緻な彫刻の両眼に嵌められている、夏の空のように真っ青な宝玉のほうがよほど興味深いものに、シィラーズには思えた。
足もとに敷かれた細かな刺繍が施された絨毯や、四方の壁に吊り下げられた緞帳、祭壇に供えられた大量の金貨や銀貨、大神官が手にしている純金製の重そうな錫、姉を飾るためにその細い首に掛けられた大粒の真珠を連ねた首飾り……。
何もかもが、彼が生を受けてからこれまで眼にすることはおろか、想像することもできなかったほどの輝きに満ちていた。目も眩むようなそれらの贅沢な品々に、シィラーズは儀式そっちのけの熱心な眼差しで見入ってしまう。
だが、賢い彼はやがてひとつの事実に気づいてしまった。触れられるほどすぐ間近にあるこれらのものは全て、自分のものではない。誰か他人の所有に帰するものだ。シィラーズに許されるのは、せいぜい眺めていることくらいだ。そう思って一度はがっかりした彼だが、すぐに飢餓感に似た強烈な渇望がその小さな体の中に芽生えてきた。
欲しい、と彼は強烈に思った。
この輝かしい品々も、広大な神殿も、全てを自分の手にしてみたい。
それは彼がまだ幼いゆえに、なんの迷いもない、ひどく純粋な欲望だった。逸る思いをこらえて、シィラーズは慎重にあたりを見回してみる。
ここにあるものを手に入れるには、いったいどうすればよいのだろう。いや、そもそもここにあるものは、誰の所有するものなのか。
その視線が自然といつまでもだらだらと儀式を続けている小柄な老人の姿に注がれる。やはりあの大神官がこの宝物の所有者なのだろうかと考えたのだが、やがて彼は小さく首を横に振った。いや違う、あの今にも息絶えそうな老人は、仮にこの大神殿の頂点に立っているに過ぎない。この神殿の様々な宝物も、何もあの老人に捧げられたわけではない。
この大神殿の本当の所有者は……。
そこまで考えたとき、見上げるほど高い天井の一面に張られた、細かに色合いの異なるガラスを通して極彩色の太い帯のような光が祭祀場に降り注いできて、シィラーズは驚いて腰掛けていた椅子から飛び降りた。周囲で儀式の様子を見守っていた神官たちも、一斉にどよめきをもらす。網膜を焼かれるような強い光は室内を遍く満たし、やがて祭壇の前に静かに佇む少女のたおやかな体に向かって猛烈な勢いで集束して、消えていった。
それと同時に、意識を失ってアナヒータが床に倒れこむ。慌てて大神官が皺だらけの手を差し伸べ、ぐったりと横たわった体を抱き起こそうとしたのだが、指先が触れた途端、大神官は悲鳴を上げてのけぞった。まるで燃え盛る炎に触れてしまったかのように痛そうに自分の手を抱え込み、苦痛に呻きながらもハッと息を呑む。
いったんは閉ざされたアナヒータの瞼が、再び細く開かれている。そこから覗く瞳の色は、これまでの薄い茶ではなく、猛々しい獣のように真紅の色に染め上げられていた。
おお……、と感極まって震える大神官の前で、長い髪を乱したまま、アナヒータが上体をゆっくりと起こす。人形のように無表情で茫洋としていた彼女は、いまやしっかりと眼を見開き、自分を取り囲む人間たちを高慢な眼差しで見据えていた。
少女の体内に崇拝する神が見事に降り立ったことを、疑うものは誰一人としていなかった。周囲を取り囲む神官たちは、神威に打たれて一斉にその場にひれ伏し、床に額を擦りつける。
そしてシィラーズもまた、変わり果てた姉の姿を興奮に打ち震えながら眺めていた。だがその瞳の中に、他の神官たちのように神を恐れ、畏敬する色はない。狩る獲物を定めた鷹はこんな眼差しをするのではないかと思われるような眼差しだった。
『見つけた』
心中で彼はひっそりと呟き、小さく舌なめずりした。
姉の体に降り立ち、大神官さえ跪かせているこの神こそが、この大神殿の真の所有者であり支配者なのだということを、彼はそのときはっきりと理解していた。
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