神殺しの男【大神殿に巣食う蛇】
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森の中で猛獣を狩り、氷蜜樹と呼ばれる丈高い樹から甘い樹液を採取してわずかに生計を立てている人々の住む、貧しく厳しい北辺の地エフタル。そこが幼い姉弟が暮らしていた故郷だ。
つい一月半ほど前、吹きつける風が寒さを増し、木の葉の色が徐々に変わり始めて、王都より大分早い秋の訪れを感じ出したころ、大神殿からの使者は何の前触れもなくこの辺境の村を訪れて、人々を驚かせた。
村長の出迎えを受けた彼は、ささやかなもてなしの宴を張ろうという誘いを言下に断ると、村の片隅に住む一家のもとへ案内を乞うた。近ごろ噂に高いその家の娘を神殿に連れ帰るためにここに来たという使者に、村長は納得したように深く何度も頷いた。その娘、アナヒータはまだ幼いながら、明らかに尋常のものではなかったからだ。
アナヒータが家族とともに住む家は、人里と森の境目あたりに、ぽつんと寂しげに建っていた。
神殿の家畜小屋よりまだ小さくみすぼらしい、冬ともなれば隙間風が入って凍えてしまうことが容易に予測できるような、ひどく簡素な家だった。ぎしぎしと耳障りな音で軋む薄い戸板を使者が開けると、一部屋しかない狭い室内で壊れそうな古い椅子に腰掛け、その輝くように美しい少女はぼんやりと宙を見詰めていた。
華奢な鼻筋や顎の可愛らしさ、ほっそりとした首からまだ何のふくらみもない薄い胸に続く線の滑らかさ、そして外から差し込む光をわずかに弾く、長い睫に彩られた透き通った瞳の宝玉のような美しさに、使者は一瞬言葉を奪われる。
黒髪の人間が比較的多いロシュタミア王国の中では例外的に、このエフタルのあたりでは金髪と白い肌を持った人間がもともと多く住む土地ではあったが、この少女の髪は本物の金を紡いだように内側から輝くような豪奢なもので、その肌は高山に降り積もる、どんな人間にも汚されたことのない純白の雪よりもまだ白く、清らかなように思えた。
「アナヒータ、おまえを迎えにわざわざ王都から来て下さった使者さまだよ」
村長に呼び出され、さきほどまろぶようにして使者のもとに駆けつけてきてここまでの案内をした少女の父親が、興奮にわずかに上ずる声で娘に語りかける。だがアナヒータは答えるどころか、視線ひとつ動かすこともしない。その度を外れた美しさのせいもあって、呼吸をする人間というよりは、まるでよくできた人形のように見えた。
「……この娘は耳が悪いのか?」
眉間に皺を寄せて使者が尋ねると、慌てて父親は首を何度も横に振った。
「いいえ、いいえ。娘は耳も目も口も、どこも不自由ではありません。ただ聞くことも、見ることも、話すことも、しないだけなのです」
「何もしない? どういうことだ」
今度は父親が答える前に、娘の傍らに寄り添って立つ、娘に比べればあまりに平凡に見える顔の母親が口を開く。
「この子には生まれたころから、ものを考え、意思を持つという力が欠けているのです。ですから何もせず、何もできません。哀れな子なのです……」
目元を拭いながら告げられた言葉を聞き、使者はなぜこの少女が大神殿の神子に選ばれたのかを正しく理解した。神子とは形を持たない神を宿らせるための依代だ。神が人の身に居心地よく留まるためには、その中身に余計なものが少ないほうがいいに決まっている。もとから中身が空っぽならば、これ以上神にとって居心地のよい器もないだろう。
まして、その器の形がこれほどに美しければ、さらに言うことがなかった。肉を持たない神が依代の美しさに執着するはずもないが、神子を直接仰ぎ見る信徒たちは別だ。神を降ろしたこの輝かしい美貌に彼らがどれほど感動し熱狂するか、想像に難くなかった。
こんな辺境の地まで出向いてきた甲斐があったと喜びながら、使者が早速アナヒータの肩を抱いて王都に戻ろうとしたとき、少女の両親に控えめに引き止められた。
外はまだ日が高い。いま村を出れば、日が暮れるころにはもう少し大きな町にたどり着いて、快適に夜を過ごせると考えていた使者は、少々機嫌を損ねたように「なんだ?」と振り返った。
その険しい声にますますおどおどしながらも、日々の生活に疲れ切ったように精気に欠けた顔をした父親は、今までそこにいることに気づかなかったほどひっそりと、部屋の片隅に座り込んでいた少年の細い腕をつかんで、その場に立たせた。そして妻とともに深々と頭を下げながら、震える声で願う。
「この子は、アナヒータの弟で、シィラーズと申します。アナヒータはひとりでは真っ直ぐに歩くこともおぼつきませんが、この子はそんな姉の世話の仕方をよく心得ております。どうかどうか、この子もアナヒータとともに王都に連れて行って下さいませんか。まだひどく小さいですが、とても賢い子なのです。必ずお役に立つはずですから」
頭が床についてしまいそうなほど腰を深く折られて、使者は思案しながらシィラーズと名を教えられた痩せぎすの少年を見た。
姉には及びもつかないにせよ、その少年もまた平凡とは言いがたい、よく整った目鼻立ちをしていた。まだせいぜい6か7歳といった年頃だろうに、両脇の両親とは対照的に落ち着き払っており、冴え冴えとした目で使者の顔を見返して、たじろぐ様子もない。
賢しげなその様子に使者は少々鼻白んだが、確かにこれからの道中を思うと、何もできないアナヒータの面倒を自分ひとりですべて見るのは困難なように思えた。その負担をこの小さな少年が肩代わりしてくれるというなら、連れて行ってやっても一向に差し支えない。しかし気に掛かったのは少年の幼さだった。
アナヒータを連れて歩く以上、彼女の足を考えて、帰りの道は大分ゆっくりと進むことになるだろうが、それにしてもシィラーズはアナヒータよりもさらに幼く、幼児といってもいい年頃だ。これから一月以上に及ぶ旅程を、こんな小さな子どもに耐えられるものだろうか。
そう考え、多少悩みはしたものの、結局使者はシィラーズを同行させることを了解した。途中で倒れてしまうのならば、それもまたこの少年の運命だ。ふたりの親もその危険を分かっているだろう。よくよく承知した上で、この閉塞しきった貧しい村の中に息子が一生閉じ込められているよりは、危険を冒させてでも外の世界に出してやろうと願ったのだ。
『――アステラ神の加護があれば、無事に王都にたどり着くことができるはずだ』
そう腹に決め、使者は幼い二人を従えて、長い帰路に着いた。色彩のない、貧しい村の片隅で、旅立って行く子どもたちの小さな背中を切ない眼差しで見送りながら、ふたりの両親はいつまでもじっとその場に佇んでいた。
しかし感情というものを持たない姉はもちろん、本来ならまだ母にすがりついて甘えるはずの年頃のシィラーズもまた、彼らを一度も振り返ることなく、故郷を後にしたのだった。
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