神殺しの男【大神殿に巣食う蛇】

 ――――地上にも天上にも神々は数多あまたおわすれど、真の神たる神は唯一アステラ神のみ。
 大陸中西部から北方の一部までを覆うロシュタミア王国の民たちは、自分たちの信奉する神をそう讃えて止まない。
 実際王国の版図を覆い尽くすアステラ神の力は他の神々に比べても稀に見るほど強大なもので、年ごとの作物の実りも、他国との戦の勝敗も、アステラ神の気まぐれひとつで決まってしまうといってよいほどだった。
 その影響力の強さをあらわして、王都シファーヒムにはアステラ神を祀る豪壮な白亜の大神殿セル・アーバドが築かれており、数百人に及ぶ神官と、国中から集まってくる信徒たちがそこで毎日祈りを捧げていた。
 そして神は捧げられた膨大な祈りの念を吸い上げて、さらにその力を確固たるものとする。
 アステラ神と王国の民との間には完璧な力の循環が保たれ、両者の仲立ちをする大神殿は、ときには王をしのぐほどの強大な権力を誇ることとなった。

 その大神殿から王国の北方辺境に派遣された使者が、一月ぶりに戻ってきたのは、王都が収穫祭ミフーラで盛大ににぎわっていたときのことだ。
 美しい娘たちが宙に投げ上げる色とりどりの花びらにまみれながら、国王からの振舞い酒にしたたかに酔い、手に手を取り合って楽しげに踊りまわる人々を煩わしそうにかきわけて進む使者は、ほっそりとした腕をその手にしっかりと握っていた。
 薄い頭布を被り、あとから続く小柄な少女がはぐれてしまわないように、始終気遣わしげに後ろを振り返りながら花と光と人々で満ちた大通りを少しずつ進んで行く。
 ふたりの後ろにはもう一人、少女よりもまだ小さい少年が続いていたのだが、使者は彼を気にする素振りは無かった。置いていかれないように少年もまたしっかりと少女のもう片方の手を握りしめながら、時折大きな建物と、その前面に賑やかな露店が立ち並ぶ通りを物珍しそうに眺めている。
 やがて正面に円形の屋根を載せた尖塔が数本見えてきた。さらに近づいて行くと、その尖塔に取り囲まれ、塩のように真っ白な外壁を持つ巨大な神殿が人々を見下ろすように建っていることを知る。
 ぐるりに高い壁を巡らせた大神殿の周りにはより多くの人と露店が集まり、アステラ神に今年の収穫を感謝して、祈りを捧げていた。
 使者はそんな彼らを無視して壁の一角にある門に真っ直ぐに進むと、顔見知りの門衛に扉を開くようにと命じた。応じてわずかに開かれた扉の隙間に、連れの少女とともに使者は体を滑り込ませる。遅れずに少年もふたりのあとに続き、すぐに扉は元通りに閉ざされた。
 内部に入ると、大神殿の威容はより一層はっきりしたものとなった。
陽光に照らされ、眩しいほどに輝く一見簡素に見える外壁も、よくよく見れば大粒の宝石をいくつも埋め込まれ、細かな彫刻に彩られた、贅を尽くしたものだった。
 これまでいた北辺の地では想像することもできなかった豪奢な世界に、少年は感嘆したような吐息をひっきりなしにこぼしていたが、使者に従順に手を引かれ、わずかに先を行く少女のほうはまったくの無反応で、脇目も振らず、まっすぐ前だけを向いている。
 厚い外壁に取り囲まれているせいか、背の高い樹木を建物の周囲に多く植えているためか、外の喧騒にも関わらず、神殿内はひっそりと静まり返っていた。ただ時折、どこかから神に捧げる琴や笛の音色が響いてくる。
 その音色に合わせるように少女が小さく歌声のようなものを漏らしたが、それも意味あるものではなかった。しかしかそけき声がその唇からこぼれた瞬間、あたりの木々が風もないのにざわめき、黙然と歩いていた使者が驚いて背後を一瞬振り返る。
 少女はすでに口を閉ざし、一斉に葉鳴りをさせた木々にも関心を持った様子ひとつ見せず、ただ足を止めた使者に合わせてぴたりとその場に立ち止まった。
「今のはお前が何かをしたのか?」
 口許と顎に濃い髭をたくわえた壮年の使者が聞いてきても、答えることもしない。ただぼんやりと突っ立ている彼女に何ともいえない顔でひとつ首を振ると、男は再び少女の手を引いて歩き出した。
 その背後にいる少年には相変わらず何の関心も見せず、着いてくるもはぐれてしまうも勝手にしろと言わんばかりだった。そんな使者の態度に少年も特に感慨は見せず、大人しくふたりの後に着いて行く。
 大神殿の裏手に回り、豪壮な建物には似つかわしくない勝手口のような小さな扉の前に立つと、使者は堅い木の板戸を二三度叩いた。しばらくして、内側から僧衣を纏った男が扉を開け、長い旅路に薄汚れた三人連れを胡散臭そうな顔で見やる。
 何用だと問われた使者は、少女の手を引き寄せて自分の前に立たせると、厳かな口調で言った。
「これなるは大神官ハラーク様の命により、北方の地エフタルより連れて参った神子みこアナヒータだ。しかるべき方に今すぐお取次ぎを願いたい」
 使者が重々しい声で告げた言葉にも、その神官は大した感銘を受けた様子はなかった。相変わらず胡乱うろんげな顔で背の低い少女を見下ろし、薄い頭布越しに垣間見えるその整った容貌に、わずかに好色そうな笑みをひらめかせる。
 しかしすぐに表情を取り繕うと、使者の背中に隠されている少年を指して聞いた。
「それも神子か?」
「いや、これは神子の弟でシィラーズという。神子の世話をするものが誰もいないでは不便と思い、ともに連れてきた」
「役に立つかもまだ分からぬ神子に、世話役か……」
 ふんと鼻を鳴らし、神官は三人に少し待つようにと言い置いて、身を翻した。神殿の奥に向かう彼が身にまとう絹の長衣を、少年、シィラーズは油膜が浮いたように光る目でじっと見詰めていた。
 今応対をしていた男は、大神官ではない。それどころか神官長ミスラでも導師サンシールですらない一介の神官が、上から下まで絹でできたしっとりと輝く衣を身に着け、その袖口には金糸の細かな刺繍さえ施されているのだ。
 この大神殿にうなる莫大な財貨と、国王をしのぐ権威を、あの神官が声高に明かしているようなものだった。
 依然無感情なままの姉を新たな神官が迎えに来るまで、シィラーズは年に似合わない品定めするような顔で、広大な神殿を静かに眺め続けていた。

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