神殺しの男【神殺しファルーク】

19

 ――――ほんの数瞬の差で男を掴まえられなかったファルークは、その体を呑みこんでいった泉の底を、気が狂ったように両拳で叩いた。いっときファルークに触れることを恐れるように引いていた水は、いつの間にか何食わぬ顔で元通り泉の中に満ち、ファルークが動くのにつれて細かに水面を波立たせている。
 先ほどまでは無尽蔵に思えるほど泉の縁から溢れ出していたその水だったが、男が消え去ると同時にぴたりと湧き上がるのをやめた。先ほどまでの貪欲な動きが嘘のように、ごく当たり前な水へと戻っている。まるで消え去った男とともに、あの不可解な水も全て地底へと姿を隠してしまったかのように。
 暗闇の中、澄んだ水をどれだけ()かして見ても、奇妙なことにさっきまで間違いなくそこにあったはずの、泉の底にぽっかりと口を開けた黒々とした穴は見つからなかった。そんな馬鹿なことがあるかと、ファルークは水面に激しい水しぶきを立てながら、何度も何度も穴があったはずの場所を拳で打ったが、どんなにしてもそこにはただの地面しかないことを悟ると、背後を振り向き、泉の際でファルークの様子を呆然と眺めていた長老に向かって叫んだ。
「―――水の湧き出し口はどこだ!」
「なに?」
「どこからこの泉の水が出てくるのかを教えろ! ここの水は、地下水路から湧き出しているんだとさっき言っていただろう!?」
 鬼気迫る顔で聞かれ、怖気(おじけ)づきながらも長老は少し離れたところにある、泉の一箇所を指差した。
「そ、その場所に真横に穿(うが)たれた穴があるはずだ。そこから水が湧き出して……」
 みなまで聞かず、長老が指した方向に向かって、ファルークは激しい水しぶきを上げながら走る。教えられた泉の縁際(ふちぎわ)に、石をタイルのように張って補強してある湧き出し口を確かに見つけ、だがすぐに落胆の呻き声を漏らした。地下水路の水を吐き出しているその穴は、ファルークの片腕をようやく入れることが出来る程度の小ささだった。体を中に入れて、男の後を追うことはできそうにない。
「くそっ!」
 苛立ち紛れに強く水面を叩く。焦る気持ちを必死で押し殺し、血走った目で周囲を見渡して、ファルークは勢いよく泉の中から飛び出した。バシャバシャと音がするほど大量の水を滴らせ、荷物も何もかもを放り出したまま地上を駆け出す。背後で老人が何か呼びかけてくる声が聞こえた気がしたが、振り返る余裕などなかった。
 ―――泉の底に引きずりこまれたのなら、今頃は地下水路の中を流されているはず
 そんなあやふやな推量で、月明かりしか頼るものの無い暗闇の中、ここに来たときの道を必死でたどる。そして行きがけに見た、水路上に一定の間隔で並んでいる穴のひとつに駆け寄ると、ファルークは顔を突っ込むようにしてその中を覗き込んだ。真っ暗で何も見えはしなかったが、昼間長老が石を投げ込んだときには水音ひとつ聞こえなかったのが嘘のように、轟々(ごうごう)と、大量に降った雨水が流れて行く猛々(たけだけ)しい音がすぐ耳の間近に聞こえた。
 巨大な獣の群れが駆けて行く音にも似た、地響きのようなその音にゾッと背筋が凍る。こんな中に飲み込まれて生き延びられる人間がいるだろうか。今頃あの男の体は水に揉まれ、水路の壁に叩きつけられて粉々に砕け散っているかもしれない。そうでなくても水の中で窒息し、溺れ死んでしまっている可能性は限りなく高く思えた。
 孤独に満たされた深い暗闇の中を、もがき苦しみながら無力に流されていく少年の姿が、まざまざと目の前に浮かび上がる。
 ――――この闇の中を、ひとりで……?
 たったひとりで、いまもさまよっているというのか。
 そう思った瞬間、ファルークの足は反射的に地を蹴っていた。そのまま真っ逆さまに、目の前の穴の中へと体ごと吸い込まれていく。
 穴に落ちる寸前、長老の叫び声が遠くに聞こえたが、それもあっという間に遠ざかり、激しい水音にかき消された。
 ざぶっと水中に沈み、息詰るような衝撃に耐える間もあらばこそ、激烈な水の流れによって一気に体を流される。凄まじい勢いだった。上も下も分からないまま錐揉(きりも)みにされ、大量の水を飲んで、あっという間に意識が遠のいて行く。自分の目が開いているのか、閉じているのかさえ分からなかった。周囲はどこまでも真っ暗で、その中に呑まれていくことは分かっても、抗う(すべも)など何一つ無い。
 苦しいと感じる余裕すらなく、ただひたすら凄まじい力に翻弄(ほんろう)されながら、しかしファルークはあまりにも衝動的な自分の行動を、ほんの欠片も悔やんでいなかった。一度見捨ててしまったあの少年の背中をもう一度追うことができるのなら、たとえそれが死出の旅路だとしても、一体何を悔やむというのか。
 ――――もう、けしてお前をひとりにはさせない
 彼岸であの少年にもう一度会えることだけを願い、唇に笑みさえ刻みながら、ファルークは意識を手放した。



 人形のようにぐったりとした体を、水が更に押し流して行く。
 奥に進むほど水路はその幅と高さを増し、それに連れて次第に水はゆったりと、悠々とした流れに変わっていった。もしファルークの意識が残っており、周りの景色を見通す能力があったなら、地底には地上とはまったく別のもうひとつの世界があったのかと、驚いたことだろう。それほどの規模であり、とても人間に作れる規模の水路ではなかった。
 その儚い命が消え失せる前のことだから、ファルークが意識を無くしてからほんの数秒、あるいはせいぜい数十秒のことだったろうか。
 水の流れがほんのわずか穏やかになってきたころ、その中になにやら異質なものが混じり始めた。ファルークの存在に気づき、喜び勇んでその体に向かって集まり始めたそれは、先ほど水路の中に無理矢理引きずり込まれたあの男を喰らい尽くそうとしたものと全く同種の存在だった。ファルークの魂の輝きに惹き付けられるように、続々と水路の壁面から湧き出してくる。
 邪悪な意思を剥き出しにして、それらが襲い掛かってこようとしたとき、ファルークの体を三度(みたび)清らかな光が包んだ。まだ生き残っていたファルーク自らが唱えた護身の(しゅ)が、魔のものの存在に反応してあらわれ、近づこうとする彼らを()退()ける。鼻先にある極上の獲物を見逃すしかないモノたちが悔しがって暴れ、流れる水を震わせた。
 光に守られたまま、なおもファルークの体は水の中を流されていく。呼吸の足りなくなったその体が静かに息を引き取る寸前、前方に周囲より一層濃い闇が現れた。
 その闇の真ん中に男の姿がある。あらゆる自然の摂理を無視して水中に微動だにせず佇んでいるその男は、長すぎる髪を揺らめかせ、口許に笑みを浮かべながら、待ち構えていたように両手を大きく広げ、流されてきたファルークの体を受け止めた。光に照らし出され、幻想的なまでに輝く蒼褪(あおざ)めた美貌を満足げに見下ろし、大事そうに両手で包み込む。
「―――さて、この宝をどうしようか」
 くつくつと笑いながら、冷え切った滑らかな頬を折り曲げた指の背で優しげに撫で、男は地上のある方向をゆっくり見上げた。

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